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同じものに触れても、力が違えばこうも違うもどかしさ

語りや思考の深さの違いは、書き続けることによって、考え続けることによって埋まるのだろうか…と何度目かの思いになったのは、最所あさみさんのこのnoteである。



実は私も同じ本を読み、kemioすげー!と思い、実はnoteを2つ書いた。

  

ヘッダー(?)のセンスもさることながら、「私ってkemioの上っ面しか見ていなかったのか…?」「マインドと言葉選びのキャッチ―さに感動して、読書会でも紹介したくらいだったのに…!」と、身の程をわきまえずに落ち込んだ。kemioすげー!と言いながら、私はkemioの動画に触れていなかった。正直に言えば、動画を見ていなかった。興味の幅が狭いのか、私自身が食わず嫌いをしているのか。

同じ本を読んでいるから、kemioの「全肯定の姿勢」も「なぜそこに至ったか」も理解できる。同じものに触れたのに、作るnoteはここまで変わるのか。最所さんは6万人もフォロワーがいて、自分のミッションも明確化して、noteのプロデューサーもされているような方だ。わかっちゃいるが、その差の大きさたるや、愕然とする。

SNSが発達し、瞬時に世界中の人と自分を比べられる時代に私たちは生きている。
一昔前であれば知りようもなかったきらびやかな暮らしや素晴らしいキャリアを目にする機会が増え、比較対象のレベルもトップラインになってしまった。
必然的に「自分なんて」と思う瞬間が増え、少しでも理想に近づくために普段の生活を取り繕おうとする。
しかし見せかけだけ取り繕おうとする行為は素の自分の否定でもあるため、自己肯定感が下がっていく。
アメリカのティーンの間で、キラキラしたインフルエンサーよりも加工なしで素の自分を出している人の人気が高まっているのもこうした流れが背景にあるのではないかと思う。
そしてkemioはまさにそんな「飾らない」インフルエンサーなのだ。
ステレオタイプや周りに求められるキャラクターを無理に演じることなく、自分が一番心地いいと思える自分であること。
それが結果的に自分の魅力を上げ、ハッピーな環境を作っていくのだということを、kemioもまた証明しているように思う。

こんなにすがすがしくすっきり気持ちよく、言語化される。

ここに至るには、読んで、書いて、近づけるのか?

そんなことを言うと、「バカ言ってんじゃないよ。覚悟が違うんだよ。お前今の環境捨てて違う環境でやってく覚悟もないんだろ?」と、心の中の若林(オードリー)が笑うわけだが。

それでも、さ。

私、ライターになりたいとか、言って、がんばっていいのか?

そんなライティングスキル身に着けたいとか、もうバカなんじゃないの?


のたうち回って、今日もnoteを書く。

取り繕わずに自分と歩く。かっこ悪い自分だけど、それでもあがく。


かっこ悪い記録を残して。

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