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子どもの好きを否定しないでくれよ、とお願いしたくなった

今日はあるお店で出会った見知らぬ方に「子どもの好きを否定しないでくれよ」と懇願したくなった話。

最近新しいことを始めたくなってセルフジェルネイルをはじめた。今まで素っ気なかった爪をキャンバスに見立ててお絵描き感覚で描くのは無心になれてとにかく楽しい。

子どものワクワクを一瞬で変えてしまう言葉


新しいネイルを買いに行った店である親子のやりとりが聞こえてきた。中学生くらいの女の子が母親とネイルチップを見ている。あれも、これもいいなぁと胸弾ませながら選んでいて微笑ましいなと思っているところへ、父親の言葉が投下される。

子どもが使うためのものなんかが数千円するなんてね」
「たかだか数時間しか持たないのにこんなに払うなんて」

女の子のネイルを選ぶ手がはたと止まる。

同じ料金払うなら乾燥しないクリームとか買えばいいんじゃないか」
「ほら、お母さんも手がガッサガサだしちょうどいいじゃないか、ははは」
なんと母親にまで飛び火。ははは、とは。

女の子も母親も何も言わずに、父親が言うだけ言って去っていった後にまた選び出してどれか一つを決めて購入していた。心なしかちょっと声のトーンが低くなってる気がした。

その何事もなかったような反応が”もしかしたらこんなやりとりが日常茶飯事なのかもしれない”と印象に残って忘れられなかった。

林健太郎さんの「否定しない習慣」全子育て世代におすすめしたい

好きの芽を摘む言葉をかけていないか

確かに「短時間しか使えなくて」「無駄」に思えるものが「いい値段する」。その人にとってはお金を出す価値がないものと考えるのも無理はない。
無形・有形問わず自分が価値を感じるものにお金を払うものだから。

大人に対しても同じように言うケースもあるけど少なくとも「余計なおせっかい、好きでお金出してるんだから放っておいてくれよっ」て言える。
もしくは静かに距離を置く事を選ぶ事もできる。

それが親子関係だとしたらどうだろう。
親の価値観に合わないものは全て否定するような関係性だとしたら、自分の好きも興味の芽も育たなくなってしまうんじゃないか。

好きの芽を摘まないで


もちろん子供がやりたいことを全て容認するのが良いわけではないし、親の価値観や子育て方針で与えるもの・与えないものは決めていいと思う。

ただ今回は結果として子がほしいと思ったものを「買っている」、買うという選択を親がしているにも関わらず終始「好きを否定される」のって辛い。

私の好きを否定しないで

こんなシーンに出会った時も同じ気持ちになる。

「もうお土産何買うか決まったの?」
「この人形買う〜」
「え〜、この顔全然可愛くないけどこんなのが欲しいの?まぁいいけど」

お土産を買うと決めた以上親の好みじゃなくても子どもの選んだものにダメだしはしない、というのが個人的な考え。
だって大人でも自分の好きを否定されると嫌だから。

子どもは親に言われ続けるとなかなか本音が言えなくなるかもしれない。大人同士みたいにドリームキラーとの関係性に静かにシャッターを下ろすことも難しい。
慢性的に否定される言葉を浴びることで、好奇心でいっぱいの子どもの心が「自分の好きなことがわからない」に傾いていくかもしれないと思うと怖くなるのは私だけでしょうか。

あなたじゃなくて"私"が好きって思ってるんだ

大切な人へネガティブワードをかける矛盾


そして母親に飛び火した「お母さん手がガッサガサだから」は動物園でのある父親の言葉を思い出させました。

「ほらほら、⚪︎⚪︎ちゃん見てごらん〜お母さんがあそこにいるよ。お母さんみたいにでっかいよねー」(象を指差しながら)

10年以上も前の出来事にも関わらず今回ふっとそのシーンを目撃したときの違和感が蘇ってきた。単なる家族内のネタだったかもしれない?けど、言われた時の母親のなんとも言えない悲しそうな顔を見るとそう思えなかった(あくまで主観です)

家族に悪意のある言葉をかける・誰かの大切なモノを否定する
意図せず人を傷つけてしまうことは往々にしてあるけれど、それを日常的にコミュニケーションの方法として選択していることとは別な気がする。

雑貨屋さんでの一コマから考えたことでした。

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