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25歳で、癌宣告を受けた話。

2023年8月28日、私は乳がんの宣告を受けました。

気になっていた左胸のしこりが痛み出したので、近くの乳腺外科のある病院に行きました。

良性のしこりだろう、そんな軽い気持ちでした。
病院に行き診察後にエコーをしてもらいました。
念の為、しこりに針生検をしようということになりました。
ホチキスが胸に刺さるような鈍い音と痛みが左胸に走りました。

「問題がなければ、2週間後に来てください。何かあった場合は、お電話にてご連絡させて頂きます。」そう言われました。

電話がなく2週間過ぎることを祈りました。

いつも通りの朝を過ごしていた時に

8月28日もいつも通りの朝を過ごし、デイトラの仲間たちと運動をしていました。
その時、電話が鳴りました。
乳腺外科から電話でした。完全に油断していました。

「すぐに来て欲しいのですが、来れますか?」そう言われました。

すぐに悪い結果を想像しました。

病院に着きそれでもやっぱり悪いお知らせではないことをひたすらに祈りました。
名前が呼ばれ、診察室に入りました。
先生がゆっくり話し始めました。
検査結果は、悪性の腫瘍でした。癌です。

あぁ、終わった。そんな風に一瞬で思いました。
いつまで生きられるんだろう。余命は?転移は?いろんなことを考えました。
わたしの身内は、癌で亡くなっています。
わたしも、もう死んでしまうのかそう考えてしまいました。
先生は、精密検査をするためにすぐに大きな病院へ行くように言いました。

それからは、いろんな検査をしました。

全ての検査を終え、検査結果を聞きに行く日を迎えました。

検査結果は、乳がん。
サブタイプはトリプルネガティブ。
ステージはⅡ期。
おそらく転移はない。

今後の治療の話をされましたが、自分のこととは全く思えませんでした。

抗がん剤の副作用は吐き気から脱毛、さらに命に関わる重篤なものまで幅広くあります。
ただ、治療ができる状況であることはとても良いことだと言われました。

これからのことを考えながらも、今できることをしようと思いました。

抗がん剤が始まるまでの思い出づくり

抗がん剤が始まるまでに、後悔のないように色んな思い出づくりをしました。
ものすごく会いたかったデイトラの仲間に会い、友達や夫と旅行にいきました。
すごく楽しい反面、虚しさも残りました。

大好きな綺麗な空や川、緑を見ることが辛いときもありました。
楽しい日々にもいつか終わってしまうかもしれない。

これまでも人間はいつか死んでしまうから1日を楽しく生きよう。そんな風に思いながら生きてきました。
でも、現実になるかもしれないと思うと怖くてたまりませんでした。

抗がん剤投与の日

それから、あっという間に抗がん剤投与の日が来ました。

俗に言うケモ室というところへ向かいます。
看護師は皆、黄色エプロンとマスクと手袋をしていて、異様な空間でした。
ついに私の身体の中に抗がん剤が入ってしまうのか。逃げたい。ギリギリまで逃げられないか考えました。
だけど、身体はケモ室へと向かったていました。
わたしは、生きたいんだな。と思いました。

カーテンで仕切られた個々の部屋がいくつもありました。
これまで、健康に生きてきたわたしには知らない世界でした。

点滴の針が腕に刺さりました。
なんとも言えない絶望感だったことを覚えています。

翌朝、少しの吐き気で起きました。

吐き気止めがあまり効きませんでしたが、3日程で吐き気は落ち着きました。
身体の変化は階段を登った後に息切れを感じることだけでした。

最初の抗がん剤は1週間に1回を12回やるという治療法でした。

1度抗がん剤が入ったことで、2回目は少し抵抗感は和らいでいました。

先週と同じように点滴をしてもらい、3時間後に帰り、今回も同じように過ごしましたが、徐々に息切れが酷くなっていることを感じていました。
治療から逃げたい。そう思う日々が続きました。

それでもまた翌週病院に行き、点滴をしてもらいました。
またいつも通り、吐き気と闘いながら1週間過ごすんだろうと思っていました。

猛烈な吐き気で目覚める

投与から2日後、猛烈な吐き気で目覚めて洗面所に行き、初めて嘔吐しました。
全身の力が抜けました。
38度を超える熱が2日続き、なかなか下がらないため、月曜に病院に行きました。
肺炎の恐れがあるかもしれないと言うことで、レントゲンを撮りましたが、何も問題はありませんでした。
吐き気止めと解熱剤を処方され、その日は帰りました。

翌日も熱が下がらず、暑くもないのにダラダラと汗をかいたため、再度病院に行きました。

今度は心電図とエコーを撮ることになりました。
心電図を撮ると、先生たち集まりざわつき始めました。

担当の先生に「心筋炎の疑いがあるため、これから別の病院へ救急車で搬送します」と告げられました。

突然のことで何が何だかわかりませんでしたが、車椅子が用意され歩くことも危険な状態だと言われました。
さっきまで普通に歩いていたけど、かなり危険な状況だったようです。

救急車に運ばれて病院に着くとオペ室に連れて行かれ、足の付け根と首に麻酔をかけらました。
足の付け根には管のようなものを通され、首からも管のようなものを入れられました。
物凄い痛みでした。

それからICUに移動し、3日間大量のステロイドが投与されました。

大量のステロイドを投与するため、危険な状態になるかもしれないという説明が家族にされたようでした。

この時、初めて息が3秒吸えないことに気づきました。
息を吸うと胸が詰まるような感覚です。

「今夜を乗り越えれば問題ないと思う」と医師に言われ、「そんなやばい状況なの、、、!?」とICUにいながらもその状況に追いつけていませんでした。

でももし眠ってしまったら、このまま死んでしまうかもしれないと思うと一睡もできませんでした。

翌日も同様に治療が行われ、3日振りにご飯を食べることができました。ご飯を食べて、あぁ、生きてる。と実感する瞬間でした。

もしかしたら、この命は終わってたかもしれない。
そう思うと悲しいとは違う、なんとも言えない不思議な感覚になりました。

それからICUを出て、HCUに移ることができました。
久々に携帯を触り、音楽を聴いてると生きる気力がみるみる湧いてきました。

それと同時に物凄く仕事と勉強をしたくなりました。
1日たりとも無駄にしたくない。
そう思い、母にパソコンと本を数冊持ってきてもらいました。

入院生活でルーティーンを作る

先生からは、1ヶ月以上の入院という説明を受けました。
なのでわたしはルーティーンを作ることにしました。

  1. 朝、ベットの上で軽くストレッチをする。

  2. 朝日を浴びる

  3. 30分読書をする

  4. 勉強・仕事をする

  5. リハビリをする

この5つを毎日続けていました。
すると、入院生活が少し楽しくなってきました。

夢中で本を読み、クライアントに連絡をして仕事をし、デザインコンペにも参加しました。
やることがあったわたしの入院は全然退屈じゃありませんでした。

明日は何をしよう。

そんな風に考えられることがとても幸せで、生きる希望に満ち溢れ、1日があっという間に過ぎる、そんな感覚でした。
それと同時にこの病気になる前にWebデザインに出会えて良かったと、自分の決断に感謝する日々でした。

毎日同じルーティーンを過ごし、3週間が経った頃、通院してる病院へ転院が決まりました。
たった数時間だけど、外に出れる喜びが大きかったです。

現実離れした3週間でしたが、誰もいない空間で1人淡々と変わらない日々を過ごす時間は、心がかなり鍛えられました。

そして転院先では自習室にも入ることができて、わたしはまた充実した日々を送ることができました。
身体もすっかり回復して、わたしの33日間の入院生活が終わりました。

免疫がかなり低下していることと、感染症にかかったら心筋炎が再発する恐れがあるということで家族以外に会わず自宅療養をしました。

そして、もう1種類の抗がん剤をやる前に手術が決まり手術をしました。

病理結果は、全12回の抗がん剤をやり抜くもあまり効果が出ず、予定通り術後抗がん剤を開始することになりました。

その抗がん剤もやはり予定通り進むことはありませんでしたが、先日予定の回数を終えることができました。

予定では6ヶ月で終わる予定だった治療が1年程かかりましたが、ここまで頑張ってくれた身体を生きている限り大事にしたいと思いました。

この病気は今のところ"完治"というものはありません。

ですが、人はいつか必ず死にます。

再発に恐れて生きずに、これからの人生を精一杯生き抜こうと思います。

最後に

これまで健康体で生きてきて、当たり前にお婆ちゃんになると思ってた当たり前は突然消えてしまいました。

改めて、当たり前なんてものはなくて、人生は限りあるものだと実感しました。
"後悔のない人生"なんて作れるものではないと思います。
ですが、過ぎていく1日1日を大切にして、自分の心に正直に日々を過ごしていきたいと強く思いました。

癌になって良かったなんてことは、これっぽちも思いません。ですが、わたしはわたしで良かったと心から思います。

この文章を読んでくださった方がなるべく健康で長く生きられるように検診を受けるきっかけになったり、少しでも多くの命が救われたらいいなぁなんて思ってます。

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。


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