見出し画像

「語る」のモヤモヤを考える。

ここ1~2年ほど、「語る」ということについて考えている。
巷では「聴く」側に重点が置かれ、本屋に行けば“聴く技術”系のコミュニケーション論やビジネススキルを謳った書籍の平積みを多く目にするし、もはや語りについて改めて考え直すのは野暮だとでも言いたげな風潮さえある。こうした状況を一つの潮流と捉え、みな同じ方向に流されつつあるのだとすれば、私はあえて立ち止まりたい。
この数年オンラインでの集まりが増えたことで、話すことや伝えることの難しさが、より浮き彫りになったように思う。一方で、理論に裏打ちされない素朴な語りの魅力に触れる機会も多くあった。こうしたいくつかの経験の中から、「聴く」ことと同じように「語る」ということについても、技術など表面的な事柄だけでなく、もっと深く広範囲に捉えてみたいと思ったのだ。

「語る」って難しい!

始まりは、ある傾聴講座を受講したときのことだ。二人一組になって話し手と聞き手を交代して行うセッション形式だったが、聞き手を務めたときの楽しさや達成感とは裏腹に、話し手としてはかなり苦い結果となってしまった。
バックグラウンドの違う者同士が初めて会話するなか、自分が話していることが相手にちゃんと伝わっているのか、話題が退屈じゃないかと気を揉みすぎて、かなりたどたどしい内容になってしまったことを覚えている。これまでも自分はあまり話上手な部類ではないと感じていたが、「本当にヘタクソなんや」と、かなり落ち込んだ。
けれど、それまで積極的に話す側をやってこなかった自分にとっては、語り手が抱える負担やプレッシャーについて、より具体的なイメージを持つきっかけとなった。

語り手が抱えるもの

それからもう一つ考えさせられる出来事があった。
とても仕事熱心な友人の知識や技術があまりにも素晴らしいので、ぜひそれを書いて記録させてほしいと頼み込んだところ、断られてしまったのだ。
断られること自体は想定内だったが、ショックだったのは彼を怒らせてしまったことだ。“怒った”というのは私の主観であって、正確に言えば、感情が非常に昂っているのを感じ取れたということだ。普段滅多に激しい感情をあらわにしない彼が、そのときは強めに私の意見を否定した。
後になって、なぜ彼を不快にさせてしまったのか考えるうちに、以前に「お客さんに自分の仕事を説明しても、あまり理解してもらえている感じがしない」とこぼしていたのを思い出した。お客さんは結果さえ出れば良いと考えているので、その仕事について彼がどんな哲学を持って、どのような技術を用いているかについては興味が無い人が多いらしい。何度同じ説明をしても上滑りしてしまうので、二人三脚的な関係性を築きにくいと話していた。
そうした挫折を10年以上も繰り返せば嫌気が差すのは当然で、今更私が話してほしいと言っても、前向きな気持ちにはなれなかったのかもしれない。

このような経験を踏まえると、「みんな話したがっている」という文言には、かなり言葉足らずな部分があるように感じる。心の底ではそう思っていたとしても、そう表現できない人はたくさんいるのではないだろうか。「ひとの話をちゃんと聞こう」という言葉の根底に、安易に「みんな話したがっている」を当て込んでしまうことは、語り手に対する配慮を欠く状況を招かないだろうか。また、こうした問題を抜きにして「あなたの話を聞かせてほしいので、どうぞ喋ってください」と言っても、本当の意味での対話は生まれないのではないか。

言葉の限界

加えて、先に挙げた二つの事柄から、「語り」には多くのエネルギーを消費することが伺える。ただでさえ大変な作業なのに、聞き手の態度に問題があれば消耗するのはなおさらだ。そうした、語り手が一方的に消耗するケースは何度も見聞きしたことがあるし、私自身にも苦い経験がある。先の友人の話でいえば、理想的な聞き手に巡り合えなかったことも、彼にとって大きな痛手だったのだと思う。
こんな風に考えや気持ちが伝わらない場面に遭遇するたびに、“言葉“や”コミュニケーション“というものの限界を感じる。昨今の教育現場やビジネスシーンでは、”言語化“の効能や、その能力をいかに引き上げるかが取りざたされる場面をよく目にする。しかし言葉に限界がある以上は、言語化が万能ツールであるという見方には大きな疑問を感じるし、また、その能力を使い慣れていない人に対して揶揄するような態度には賛同できない。
言葉によるコミュニケーションが絶対でないなら、私たちはどうやってお互いを分かり合えばいいのだろう。言語化能力や語彙力を鍛えるということは無駄なのだろうか。

ただ私自身の経験で言えば、それらは決して無駄ではなかった。むしろ自分の身を助けてくれたことがたくさんあった。意識的に鍛えたわけではないけれど、自分自身や周囲の人を理解しようと、根気強く諦めなかった結果だと思う。分かりやすく引きの強い言葉に惑わされず、依存することなく、その状況や感情にぴったり嵌まり込む言葉を見つけることが大切であって、それは“言語化・語彙力”というよりは“言葉の再発見”という表現の方がしっくりなじむ。

今の私にとっての「語る」はこうした土台の上に成り立っているのだけど、それでも「語る」ことのわずらわしさから解放されることは無い。現に冒頭でも紹介した通り四苦八苦しているありさまだ。おそらく今後永久にその問題が解決することはないのだろうなと思いつつも、できることがあるなら前向きに取り組んでいきたい。こんなに苦しめられながらも、でも諦めて手放してしまってはいけない気がする。なぜ「語り」によって誰かと対話することを切望してしまうのか。まずはこのことについて、よく観察する必要がありそうだ。

いいなと思ったら応援しよう!