「河童の三平」が舞台化してしまう…!その3~天国から届いたサイン~
こんにちは!牛尾です。
さて、その②では少し脱線してしまいましたので、今回こそ①↑の続きを書いていこうと思います!どうぞお付き合いください!
さて「水木しげるサンお別れの会」から先、私は後悔の念に苛まれていました。あの水木先生のご家族に対して、なんて大それた発言をしてしまったのだろう、と。水木マンガにはご家族がまるでレギュラーキャラの様に登場されているから、私は前々からの知り合いの様に思い込んでいたのだ。とんだ痛いファンである。当時私は20代、ケツの青いひよっこであり、この世には私なんかよりもっともっと前から「河童の三平」を好きな人はごまんといらっしゃる。たくさんの著名人から愛されているこの作品を「舞台化したい」だなんて突撃して……。
ところで、この企画は、お別れ会で降って湧いた発想ではありませんでした。演劇集団円では当時、会員に昇格した若手は、浅草の合羽橋まつりにて路上演劇をするという行事があり・・・・
もともと座長の橋爪功さんが毎年春、西伊豆の土肥にて野外舞台を組んでお芝居をしていらした。菜の花畑の真ん中に組まれたステージ、さんさんと輝く太陽の下お昼の公演は春の山に囲まれ、夜公演では月を背景にお客さんは屋台飯を肴にお酒を煽る。なんと粋な企画でしょう。若手俳優は、この「菜の花舞台」に参加させて頂いており、そこで培った素養をもって、自分たちの手だけで合羽橋商店街のまつりで公演していた。脚本も演出も道具も、若手のみで用意して。
演劇集団円の座員に昇格してから先、私は常に考えていた。
「合羽橋商店街・・かっぱばし・・・河童の三平・・・・」(IQ3)
毎年、座員に昇格して2年目の若手がリーダーとなって公演していた。だからあと1年すれば、私たちの世代がリーダーとして取り仕切ることになる!そうなったら私らの独断だ!合羽橋で河童の三平!うん、いいじゃない!最高!同期の同意を得ぬまま勝手に、草案の脚本を書き始めていた。
しかし、翌年衝撃の出来事が起こる。演劇集団円、引っ越し。浅草にあったビルは取り壊しとなり、円は三鷹へと移転した。それに伴い合羽橋商店街でのお祭り参加も終了。私は持て余したパッションをどこにぶつけていいか分からずぼんやりと放置していた。水木先生はこの時ちょうど「わたしの日々」連載中だったと記憶する。90代で月刊誌連載なんて泣けるほどかっこいいと思った。絶対100歳までご存命だと思い込んでいた。だから私は、のんびりと、叶わないだろう夢を抱いて想像を楽しんでいたのだ。いつか三平を公演できたら、公演許可を貰いに水木プロに行けっちゃったりするかもしれない!水木先生に会えちゃったらどうしよう!・・・なんて。亡くなってしまうなんて少しも考えずに。
だから、お別れ会で発した素っ頓狂な発言は、私の頭の隅にずっとあった構想だったのである。色んな衝撃が重なって交通事故みたいに飛び出してしまったのだ。みんなも気をつけてほしい。いつも考えていることはとんでもない時に口に出てしまうものだ。
さて、お別れ会の約2週間後、調布のたづくり会館でアニメ「河童の三平」が上映されるとの情報を得た!私はアニメ版三平の存在を、恥ずかしながらこの時まで知らなかった。
2015年辺りは特に、調布市は水木先生に関する大小様々な取り組みをされていた。私は当時地方巡業公演の真っ只中。隙間を縫って東京に戻って来た僅かな休みの日に上映会の日程が重なっていた。先生が旅立たれぽっかり空いてしまった心を何かで埋めたくて、一緒に地方周りをしていてお疲れの先輩を無理矢理引っぱり、アニメ上映会へ向かった。この先輩へは水木語りをいつも一方的にぶつけており、大変頼りにしている。
上映会では号泣。
会場には調布市内の親子連れが沢山来ていた。鑑賞しながら無邪気に笑い、声を出してつっこむ子もいて、そしてその傍らで作品のテーマに気づいた大人たちは静かに泣いていた。なんて素晴らしい上映会だったろうか。その②でご説明した通り↓
私は子供向けに作りながらも作品の真髄はブレない、子供がいつか大人になるまでずっと胸の中に芯を残すような作品を作りたい、携わりたいのである。涙で濡れる頬、テラテラと輝く鼻の下そのままに後ろを振り返る、そこには何故か、布枝さん(ゲゲゲの女房)と尚子さん(娘様)がいらした。
ふぁっ!!!??
混乱である。感動に胸が大きく動いている時というのは本当に訳の分からない行動をしてしまうものだ。上映終了した心地の良い空間、優しい結末に穏やかな空気、親御さんたちがこどもたちへ囁く声、そんな中で私はお二人に向かって叫んだ。
「先日のお別れ会で!河童の三平を舞台にしたいと申した者です!!どうぞ!!今後ともよろしくお願いいたします!!!」
尚子さんは一瞬ぽかんとされた後、数秒の時を経て、「あぁ…あの時の…」と言って下さった。よく考えてみろ、著名人どころか8000人のファンにご挨拶し、ご家族は夜まで大忙しだった筈。なんで当然のごとく「皆様ご存知の私です」みたいな態度が取れたんだ。みんなも気をつけてほしい。いつも考えていることはとんでもない時に口に出てしまうのだ。(二回目)
あれだけ後悔した2週間はなんだったのだろうか。後悔というのは大して意味をなさないのかもしれない。隣にいた先輩も(お前、後悔したんじゃなかったのかよ)という目を向けていた。
興奮冷めやらぬ帰りの際、過去の三平メディア化作品が水木先生のご逝去にDVD化されるとのことで、購入手続きをするため先輩を長らく待たせて物販コーナーであれやこれやと物色した。そこでは販売されていた方がこんなことをおっしゃっていた。
「過去の企画で昔水木先生に書いていただいたサイン入り純金目玉おやじフィギュアが、会社に残っています。今回ご購入された方の中で抽選して1名様にお送りします。」
抽選はがきはDVD購入価格の数千円につき一枚、という仕様であった。私は色々と購入して、確か二枚分のはがきをゲットして帰路についたのである。
送ってしまったはがきはもう手元にないのでお見せしようもないのだが、今思い出しても呪詛のようなはがきであったと記憶する。
というのも、その時私はかなり悩んでいた。
三平を舞台化するなんて本当にできるのだろうか。そもそも本当にうちの劇団で公演ができるなら、脚本も、演出も、『オタクが考えた最強の舞台』にしなくちゃ私は満足できない。なぜなら自分が過激ファンだから。それを叶える為にはどれだけの人の手を借り、どれだけの手続きが必要となるのだろう?私にそれができるのだろうか。
今まで考えていた「三平を路上演劇で~」がいかに実の無い妄想であったかここで漸く自覚する。私は舞台に呼んで頂く立場の役者目線でしか世界が見えておらず、舞台を制作企画するということの大変さを全く理解していなかったのである。
しかし水木先生のご家族にはもう言ってしまった、舞台化すると。(ほんとにな)しかも二回もダメ押しで。(ほんとにな)もう後に引けない。正直後に引きたい。めっちゃやること沢山ありそう。やりたくない。そうだ、こうしよう!天の神様の言・う・通・りってやつだ!
私は抽選はがきをしたためはじめた。鳥取の書道教室でおばあさん先生から教えられた毛筆の腕前で。
「もしもこのはがきが抽選に当たりました暁には、私は今の立場を一旦やめ、水木作品を後世に残すため人生をかけた大勝負に出ます。」
墨字は書き直しが効かない。はみ出した墨汁。バランスを間違え尻すぼみになる文字サイズ。本気で、並々ならぬ気持ちでしたためたのだ。字体は力み、血走った目を想像するにたやすい文面となった。そして
当選してしまったのである―――!
まさかこんなことがあるだろうか。1名よ?水木先生には今世直接はお会いできなかったけれど、私にとってこれはまさに「天国から届いたサイン」としか思えなかった。天国からわざわざ私にサインをして下さったのだ!
きっと、水木先生も応援して下さっている!
私はそう思い込んだ。こうして漸く腹をくくり企画書を作り始めた。脚本を書いていただくならば……もう、これは京極先生だ!京極先生しかいらっしゃらない!私が京極先生に台本執筆をお願いするなんて荒唐無稽に間違いないが、だからなんだ!?やるしかない!!だって純金の目玉おやじを貰ってしまったんだもの!ご家族に言ってしまったんだもの!水木先生がサインを下さったんだもの!円で公演するならこどもステージを熟知した、絶対にいい作品にして下さる演出家にお願いしなくては!!
来年再来年の公演は無理だ。きっと準備が間に合わない。2021年だ!水木先生の生誕100周年を控えた七回忌の年である。これは山陰特有かもしれないが、我々は三回忌とか七回忌とかをかなり重要視する。あとよく分からないけど、おぼろげながら浮かんできたのです。2021という文字が。
(小泉〇次郎構文)
ということで、あと2か月まで迫った来たわけです、その公演が。
おかしいな、いつになったら鬼太郎茶屋の話ができるのだろう。ここまで読んで下さってほんとうにありがとうございました!次回こそ「鬼太郎茶屋で働き始める」お楽しみに!