イクジの始まり
「逃げ」=悪、ズル、負け、恥
そんな概念に勝手に縛られながら生きてきた。
こころと体が悲鳴をあげても、まだやれると信じて
やりきることが正義だと思って生きてきた。
頑張ること、やりきること、逃げないこと。
体力と気力を使い果たしてはじめて、眠りにつくこと。
余裕なんてつくらずに、手帳を予定で埋め尽くして真っ黒にすること。
これがわたしの普通だったし、今も意識しないとこうなってしまう。
マタニティ期間は、わたしの人生史上最高に「何もしない」ことを全うしていたと思う。
(正確には、何もできないほどの悪阻だったのだけれど。)
おなかの中の命を守ることに専念しよう、少しでもリスクのあることはやめよう、夫にお願いできることはお願いしよう、そうやって過ごしていた。
しかし出産直後からわたしは変わってしまった。
もうわたしは妊婦じゃないのだから
わたしは母親になったのだから
夫の仕事に支障をきたしてはいけないから
夫や自分の母がいないときにもちゃんとやれないといけないから
そう言い聞かせ、わたしの育児はスタートした。
慣れない授乳や搾乳。
うまくおっぱいを吸えずに泣く娘。
夜中の授乳。ミルク作り。オムツ替え。
掃除、外気浴、沐浴。
里帰り出産ではなかったが、夫が3週間家を空けていたため、母は手伝いにきてくれていた。
しかしわたしは、母にうまく頼ることができず、出産直後のボロボロの身体を酷使して、全てを1人でやりきろうとしていた。
わたしの体重は2週間で4キロ減。
赤ちゃんを可愛いと思えない日が続いた。
なぜわたしは母親になってしまったのか
なぜわたしのもとにこの子は生まれてしまったのか
この子は不幸な子なのではないか
ベランダで娘を抱きながら何度も泣いた。
一緒にここから飛び降りてしまおうよ。
階段を見下ろして何度も泣いた。
一緒に転がり落ちてしまおうよ。
ふにゃふにゃで、まだ何も知らない、真っさらな娘のほっぺたにわたしの涙が落ちていく。
情けなかった。
おなかの中にいた赤ちゃんがいま目の前にいるというのに、笑顔を向けられない。
次の授乳の時間が怖くて震える。
娘を抱く手に変な力がこもる。冷や汗が止まらない。
そうだ。わたしはうつ病だった。
あぁ、わたしはどうしてうつ病なんだろう、と
答えのない問いを何度も繰り返した。
うつでごめんなさい、うつなのに母親になってごめんなさい、生きていてごめんなさい、うつのくせに幸せになろうとしてごめんなさい
もう限界だった。
母や夫にまで敵意を向け、勝手に孤独になり、
春の日差しがこぼれる窓際ですやすや眠る娘をぼーっと見つめていた。
死にたかった。
幸せな光景のはずだった。
部屋の壁には、退院日前日に夫が夜通しかけて作ってくれた飾り。
色とりどりの折り紙にある、「おかえり」の文字。
夫と何時間もかけて選んだ赤ちゃんの服。
娘の名前が刺繍されたスタイ。
ベビー布団の真ん中で、柔らかな日差しを浴びてころんと丸まって眠る娘。
でもわたしは死にたかった。
わたしにはできない、できないよ、
育てられない、どうしよう、死にたいよ、
夫にすがりついて泣く日々だった。
痩せ細ったわたしを見て、「休みなさい」とみんなが口を揃えて言った。
わたしが休んだら、赤ちゃんのお世話はだれがするの?
夫のご飯はだれが作るの?
休んだら、わたしのいる意味がなくなっちゃう。
わたしが休んでも別に何も変わらないなら、わたしっていてもいなくても一緒ってことだよね。
じゃあ死んでいいよね?
この繰り返し。
わたしがいる意味を証明したかった。
わたしである意味を見出したかった。
わたしは必要な人間であると、感じたかった。
今なら分かる。
それはエゴだと。
本当は、たいていのことは、母親じゃなくたって、妻じゃなくたってできてしまうのだ。
ミルクはだれでもあげられるし、夫のご飯は宅配を使えばいい。掃除はルンバがやってくれるし、それでもダメなら家事代行、ベビーシッターさん、ファミリーサポート…いくらでも手はある。
でも自分がやってあげたい、やりたい、その純粋な思いで動くならいいのに、そこにエゴや意地が入り込んできていた。
苦しかった。
今思えば、なんて馬鹿だったんだろう、
赤ちゃんのためを想うならもっと周りに頼るべきだったと分かる。
後悔だらけだ。
もっと優しい顔で、あたたかい言葉をかけてあげたかった。
ぎゅっと抱きしめて、生まれたての赤ちゃんの香りに顔をうずめたかった。
かわいい、かわいい、と飽きるほど言ってあげたかった。
でも、もうあの頃の娘には会えない。
やり直すことなんてできない。
今からでも遅くないと信じて、また娘と向き合っていくしかないのだ。
あのときにできることはやりきったと言い聞かせながら、今できることを最大限やってあげたい。
育児は育自、とよく言うものだが、それは本当だ。
これがわたしのイクジのはじまり。
わたしと娘と夫の3人の物語のスタート。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。