見出し画像

苦手なことの先には才能がある


「本当に言い難いことなのだけれど……落ち着いて聞いてね。実は……」


それは、冬の冷たい雨が降る夜のことだった。
屋根に落ちる雨音が、広く静かな部屋全体に響き渡っていた。


その日、私は突然「リストラ宣言」を上司から言い渡されたのだ。

まるで他人ごとのように感じ、その言葉を自分事として捉えることが出来なかった。
すぐには、現実として受け入れることができなかったのだ。

え? どうして?

やっと、楽しくなったのに……

やっとやっと、子ども達と接することにも、心から喜びを感じられるようになったのに……。


当時、私は子ども英会話スクールで幼稚園児クラスの講師をしていた。
想定外のショッキングな知らせは、晴天の霹靂のように突然やってきたのだ。

私が子ども英会話スクールの講師になったのは、不思議な流れだった。

前職は病気がきっかけで辞めた。回復して元気になってからも、再就職せずに一年が過ぎようとしていた。 

一人暮らしで、貯金も底をつき始め、短時間のバイトはしていたものの、仕事を見つけなければ家賃も払えなくなると、焦る気持ちと共に就職活動を始めた。数社の面接も受けた。

事務職の経験しかなかったので、同様の仕事を探していたが、ふと、疑問が湧いた。

同じ世界へ戻って行ってもいいのかな?

そう思ったが、これと言って強烈にやりたいこともなかった。

そんな矢先に、興味があったわけでも、給料や条件が良かったわけでもないのに、なぜか始めてしまったのが、子ども英会話の先生だったのだ。

「なぜか」 と言うのは、人生で絶対にやりたくないと思っていたもの。
それは「先生」だったからだ。

だから、選択肢としては、まずあり得ないものだった。
おまけに、子どもも苦手だったのだ。

それでも、なぜか始めてしまったのだ。

普通に考えて、そんな人間がやるのは間違っている。
上手くいかないのは、目に見えていた。

当然、最初は、仕事も上手くいかなかった。
上手くいかないどころか、ボロボロ、散々な結果だった。

子どもは正直だ。その正直さは、時には残酷とさえ感じる時がある。

興味が湧かずに、つまらなかったら即行動に現れる。

新人の先生だから、しばらくは大目にみてやろう……などという甘い考えは通用しない。
手強い相手なのだ。

目の前の生徒達の注意が、私にまったく向いていないことは、明らかにわかった。
レッスン中、顔で笑いながらも、心の中で泣きたい気持ちになった。途中で投げ出したくなったことも何度もあった。

子ども達が、席を立ちどこかへ行ってしまったり、隣の友達と話し始めたり、違うことを始めたり……。

それまでは、事務職経験のみ、それなりに経験を積み、いい感じでやってきた。そんな自信もあっけなく崩された。全くの新しい世界で勝手が違い、以前の常識が通用しなかった。

ただ、嫌だ、やりたくないと、立ち止まってはいられなかった。


「子どもは自分を映し出す鏡だから、子どもが先生だと思って見て!」
「先生が楽しんでレッスンをすると、子ども達も楽しくなって夢中になるものよ」

これは、上司の先生に何度も言われたアドバイスだった。

しかし、理屈ではわかっていても、実際の場になると、すべてが吹っ飛んでしまった。

しどろもどろ、自分へ意識の矢印が向き、「あ~ダメ、ダメ~、またダメだった!」と出来ないことばかりに気を取られ、自分にダメ出しばかりをしていた。

まずい、何とかしなければ……、どうしよう? 何をしたらいいのだろうか?

試行錯誤の日々だった。

トライ&エラー、ありとあらゆることを試してみた。仕事以外でも役に立ちそうなこと、不安を消すのに役立ちそうなことはやってみた。

ストレスとプレッシャーの毎日。慣れない仕事の疲労が重なり、風邪を引いたら何か月も治らなかった。体力的にも精神的にもかなり負担がかかっていたのだ。


それから、冬から春へ季節が移り変わるように、次第に変化の兆しが見えてきた。

それまで、プイっと冷たい態度でよそよそしかった生徒がいた。ある日、私にニッコリと天使のような笑顔を向けてくれたのだ。

私は、彼女の笑顔が驚くほど嬉しかった。
それまでの緊張が、すべてほどけていくような、救われたと感じるような瞬間だった。

笑顔は無条件で、「あなたを受け入れています」

そんな言葉なきメッセージなのだと、その女の子の笑顔が教えてくれた気がした。

ひとつ歯車が良い方向へ回り始めると、すべてが順調に回り始めるかのように、好転し始めたのだ。

私の心もどんどんとオープンになっていった。
壁を作っていたのは、生徒である子ども達ではなくて、私だったのだ。

私は人前で話すのは大の苦手。心を閉ざしがちになる。黙っていろと言われたら1ヶ月でも黙っていられる人だった。いるのを忘れられてしまうような、いるかいないか、わからない存在感のないタイプの人間だったのだ。

子ども相手の仕事をしていくうちに、以前の自分からは想像もできないほどに変化していった。

舞台俳優か、オペラ歌手か? と思うような大袈裟すぎるほどのジェスチャーや声のトーンなど、エンターティナーのようにやっていた。

すると、子ども達が無邪気に、きゃはははっ~! と笑いながら、レッスンを楽しんでくれるようになったのだ。

「おっ、笑ってくれた!」
「やったー!」と、心の中で、ガッツポーズを取る余裕も生まれた。

子ども達が喜んでくれると、コレが癖になる。もっと喜んでもらえるようにと、もっと良いレッスンを作ろうと、張り切る気持ちもどんどんと湧いてきた。

気づくと、私はレッスンを楽しんでいた。
そして、生徒は夢中になって参加してくれていたのだ。

まさに、「先生が楽しんでレッスンをすると、子ども達も楽しくなって夢中になる」ということが、自分事として体感できたのだ。

仕事にやり甲斐を感じ、子ども達も純粋に可愛いと思えるようになった。子どもが苦手という意識もいつの間にか消えていたのだ。


悪戦苦闘の日々を送りながら、今までやったことがない、苦手なことにチャレンジしたことで、「自分はこういう人間だ」から「自分にはこんな面もある!」という発見にも繋がっていったのだ。

人生、何が起こるのかなどわからない。

やってみたら、まるで新しい自分を発見できたのだ。

そして、突然、思いもよらない形で、終わりが来たけれど、「終わりは始まり」
この終わりが、次の扉が開くための出来事でもあった。


苦手だと思っていること……
それは自分の中で眠っている、開花するのを待っている才能なのかもしれない。

苦手なことの先には、才能がある。

やってみて初めてわかることがある。
やってみるまでは、わからないのだ。

未知の世界の扉は、新しいまだ見ぬ自分と出会える扉なのかもしれない……。

【天狼院書店のメディアグランプリで掲載されました】感謝











この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?