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あたらしい朝 Ver.2

(末尾に、西木野花恋の遺書を書き加えました。これは、私自身が中学生の頃に書いた遺書から手直しして、挿入しました)

                   藤椿まよね


 新しい朝がきた、希望の朝だ、という歌がある。ラジオ体操の歌だ。

 くそくらえ、だ。白波瀬真宵はしらわせまよいと読むが、幸せに迷っている、しあわせまよい、と聞きなす人が多い。

 「なんだって真宵なんて名前にしたんだ」と、何度思った事か。命名者の曽祖父は真宵を命名してほどなくして事故で他界している。

 この名前に過剰に反応したものがいた。中学二年になって同じクラスになった、西木野花恋だ。

 「ステキ。だって、本当の逢魔が時っていう意味でしょ?」そして眉間にしわを寄せて、鼻をひくひくとさせてから真宵の頭のちょっと上を見つめて、こう言った。「真宵君、あなたにかかった呪いの魔法、解いてあげたい」

 オカルトマニア?馬鹿々々しい、呪いってなんだよ。魔女かよおまえ。真宵のその感情は顔に出たのだろう。西木野花恋はクスッと小さく笑って言う。えくぼができるんだな、と真宵は思う。

 「あのね、死神が見えるとかさ、そういうんじゃないよ。たださ、あのさ、あのね、うんとね」言い淀んで再び笑顔をつくった。なんだよやめんなよ、と思う真宵は見つめたまま圧力をかける。

 「呪いの魔法ってさ、わたしにかかってるの。わたしが、魔法をかけられてるの」なに言ってんだコイツ、という拒絶の、負の感情が伝わったか、西木野花恋は悲し気に顔をゆがめる。「あのね、もし、もしよ、真宵君が死にたくなったのなら、自殺したくなったら、すべてから逃げ出したくなったのなら、わたし、一緒に行きたいの、そして魔法を解きたいの」

 わけわかんねーし。

 その時はそこまでだった。



 新しい朝を、誰もが待ち望んでいるなんてそれが希望だなんて、そこまで幸せな世界に生きてるやつがいるんだろうか、はたして。新しい朝は、いつ終わるとも知れぬ苦しみの次の段落の始まりだというのに。

 西木野花恋はそう言った。

 大人は訳知り顔で吐き捨てる。

 死ぬ気になればなんだってできるだろう、とか、終わりは何にだってあるさ、苦しさも永遠に続くわけではない、とか、何もせずただ時が過ぎるのを待ったっていいよ、良かったと思う日々は必ず訪れるよ、とか。

 でも、違うのだ、真宵にとっては。たぶん彼女にとっても、違うのだ。

 西木野花恋は苦しいのだろう。彼女とほんの少し話をしただけで、真宵もひと月ほどのあいだ、クラスどころか学年全体から村八分になった。

 何故、西木野花恋がいじめのターゲットになっているのか、真宵は知らない。学校の中のことに興味がなかったからだ。だが、今は知ってしまったことに回答が欲しい。

 西木野花恋は、とてもよくやっている、と真宵は思った。

 無視されて、陰口をこれみよがしにささやかれ、私物を隠されたり配布物を渡されなかったり。そのひとつひとつに、もはや機械的にではあるけれど、彼女は「やめてください」「わたしではないです」「返してください」などと抗議する。エスカレートはしないけれど、終わりもしない。クラスの皆、ターゲットが西木野花恋に固定されていることで安心しているかのような、抜け出せない迷宮。

 いや、問題は何故、「あなたにかかった呪いの魔法、解いてあげたい」と西木野花恋が言ったのか、ということだ。何故「もし死にたくなったら」と言ったのか。

 そうなのだ。白波瀬真宵は、呪いの魔法にかかっていた。



 ある日、何の前触れもなく「何も無い」が欲しくなる。

 もうここでここまででいいや、この先はいいや、要らない。ここで終わりでいいや。スイッチを切って「生きてる」を終わりにしよう。そういう強い衝動につかまってしまうのだ。

 何かにつまづくとか、いじめられて、とか追い詰められたり悩んだりすることがあるわけではない。ないわけじゃないけど、それが原因と言われれば違う。

 ある日あるとき、突然、神様が耳元でささやく。「真宵、もう終わりにしようよ」「死ぬと、いいもんだよ。だって、もう何もしなくてもいいんだよ。考えることすら要らないんだよ」「真宵は、今、終わるといいよ」

 今までは、何か未練があるわけではないがなんとなく振り払ってきた。だけど。

 どうして西木野花恋にはわかったのだろう。何か、超越したものでつながっているとか?それって、オカルトだろ?あるいは疑似SFのテレパシーみたいな、そういうのか?運命の恋人とセックスすると次のステージに進化してつながっていっちゃう、いっとき憬れたこと、あったなあ。

 もう、いいや。

 それだけで終われるなら、もうとっくに自死しているんだけれど。実際には練炭用意したりして死ななくちゃいけないわけで。結構メンドクサイ。

 白波瀬真宵がいじめのターゲットではないのは、たぶん校外活動で学校を休んでいることが多いからだろう。真宵は奨励会に属して将棋を指しているからだ。それがいいイメージなのは例のマンガや藤井君のおかげだ。



 気分転換に西木野花恋のことを観察したり考えたりすることが多くなって、いわゆる恋?ではないかと思ってもみた。けど、彼女を焦がれているわけではないから、ちょっと違う。

 西木野花恋は、まずまずかわいらしい方のルックスに入る。だけど、口を開けばオカルトチックな話を一方的に話し続けるから、キモオンナ、になってしまう。おまけに妙に赤味の強い、肩甲骨下まであるロングヘアの毛量が多くて魔女のようなのだ。ほそっこい体つきがそれを助長する。

 「あいつ、変。キモ」

 まず話をした誰もがそう感じてしまう。ふつうなら好きもののコミュニティーに属して内輪で盛り上がって、そういうものだろう。なのに西木野花恋は振りまいてしまう。

 制服にハサミを入れられたときは、さすがにべそをかいて担任に訴えたが、犯人が見つかるわけではないし、制服が弁償されるわけでなし、泣き寝入りしろということだ。

 しかし西木野花恋は保健室に一時限のあいだこもり、ハサミで切られた部分を縫い繕ってきた。なんだか絶妙にへたくそに、ティム・バートンの映画「ナイトメアービフォークリスマス」に出てくるサリーみたいな。

 「悪くないね、西木野花恋、くん」真宵がそう評すると、西木野花恋は笑みを見せ、「んふふふふ」と含み笑いをしてから真宵の横へ滑り込んで立つ。

「話したかったんだ、逢魔が時の申し子くん」



 「なんでぼく今は死ねないんだと思う?」

 休日の西木野花恋は真っ黒の辛口のゴスロリルックで、いかにもの魔女のようで、さもありなん、だった。

 「そうだよ。アニメやゲームのイベントではわりかしゆーめーなコスプレイヤーだよぼくは」

 胸元や胸下のパーツを外すとぐっと肌が露出する衣装を、「こうするとフル肌見せ」と言ってポーズをとる。

 もっと露出の多いアレンジで、アニメやゲームのキャラクターを模した衣装に身を包んだ彼女は、この一年で台頭してきた「木の香」というネームのコスプレイヤーだった。

 西木野花恋は、真宵にタブレット端末のスチールや動画を見せながら生き生きはつらつとしている。

 「知ってるの?クラスの人たち。知ればすげーってなって人気者じゃないの?」真宵が尋ねてみると、西木野花恋は否定も肯定もせず、じっと真宵を見つめる。西木野花恋が身を乗り出す。むなぐりの開いたドレスからのぞく乳房に思わず見入ってしまう真宵。ふん!と笑う西木野花恋。

「言いふらした奴がいて、センコーにチクったやつもいて、停学になったじゃん、知らないの?将棋で忙しくて?」

 おっぱいから目を引きはがして、真宵は答えた。

 「ごめん。ガッコに興味なくて。けど、俺と同じじゃん、西木野花恋」

 「同じじゃねーよ。ぼくは毎日、学校の奴らの不誠実なちょっかいに耐えてんだから」僕って言うんだな。ガッコでもそうだっけ?「ん?休んでばっかの真宵くん」

 いじめの現実に真宵が傍観者として加担していると責められた気がして、話題をそらす。つやつやしたシルクみたいなサテンみたいな生地に手を伸ばして、真宵は触れてみた。「この衣装って、買うの?ぴったりだけど、オーダーメイド?」

嬉しそうに笑みをたたえて、西木野花恋は胸を突き出す。

「いろいろなの。吊るしでいいやつあったら、それを自分で加工するし。ぼく、わりかしミシンとか上手に使うんだよ。それか、あまり凝ってないワンピならゼロから自分で縫う。そういう型紙を載せてるサイト見たりして。あと、こうしたい、っていうデザイン画かいて、プロのひとにオーダーすることもある。このドレスとか、そう。複雑すぎて自分じゃ縫えない」

「きれいだね」

「ただ、どんどん背が伸びちゃうし、胸も増殖するし、着れなくなっちゃう。したらマニアのひとに売りつける。十万くらいになるかな」

「おお!すごいね!・・・いくらで作ったの?」

 西木野花恋はじっと真宵を見つめた。真宵の手を、そっとつかむ。冷たい手。

 「二十万。ヘッドドレスやリスト、アンクルドレスなんかもコミコミ、採寸仮縫い付き」

「中二なのに、よくおこづかい足りたね」そう素直にもらした真宵をじっと見つめて、西木野花恋はかけらも笑みをつくらずにぎゅっと真宵の手を両手で包む。

「こづかいなんて、今どきは稼ぐものだよ。知らねーの?」西木野花恋は無知なものをさげすむような表情で真宵を見る。「ぼく、パンツ売りますとかツイートすると結構ヒット数あるんだよ」

「?」

 真宵の表情にため息をつく西木野花恋。

「そだよね。きみ、清く正しいもんね。ぼくの生きてる裏ネットなんか知らないよね」

 視線は彼方へそれて真宵に横顔を見せる。そのひとみにはしかし絶望は無くて、依然として握られ包み込まれた真宵の手を放しはしないのだった。

 「ま、これから先も秘密のお友達してくれるんなら、おいおい、話してあげるし見してあげるし」

 真宵は首を横に振った。ん?なんで?という表情の西木野花恋。真宵は目を伏せてあえて低い声を使った。

 「だって、稼ぐものって、中学生女子が稼ぐって、裏ネットって、エロしかないじゃん」

「そうだよ?真宵くん的には、だめなんだ?」そう言う西木野花恋を正面切って見つめる。「ダメじゃん。当たり前だろ?」

見つめ返して「自殺もだめじゃん」とにやっと笑う西木野花恋、その根拠のわからない自信に満ちたような態度に、真宵は揺さぶられて惹きつけられるのを感じる。

「なんかさ、ぼくと真宵くん、違うんだけどさ、違うから惚れちゃうってあるね。違うから知りたいし知ってほしいなんだ」



 うわ!このカッコで一緒に歩くのか、次の休日デートで白波瀬真宵はそう思ったが、そんなことは百も承知、という風情で西木野花恋は真宵の手を取って歩き出す。

 「そうだね、あのつぎはぎの」案外速足の西木野花恋に引っ張られて歩いていく。「制服で電車乗って通学してんだもんね」

「あれ、案外いいんだぜ。頭変な奴、ってみられるから痴漢が来ない」

 今は、制服のあの縫い繕いはわざと絶妙にへたっぴいにやったのだとわかる。彼女なりの美学なのだと。

「いつもそうなの?」階段を上がる。なるほどチャイナ服のワンピースの、スカートの下はスパッツなんだな。「コスプレして電車なんて目立つね」「ごちゃごちゃとうるさい」

 大きなバッグを持たされているから、真宵の方がずっときついのだ。アニメやゲームに詳しくないから、どんなキャラのコスプレなのかわからないが、セクシー系なのは確かだ。

 チャイナドレスのような、刺繍の入ったスリットスカートのタイトフィットのワンピースで、しかし両肩が出たナイトドレス型で、チャイナ襟がのどから胸へつながるホルダーネックになっている。まあ、ヌーブラのおっぱいをヨコ乳で見せるようになっている、と説明してくれたのだが。

 会場に着くと長い列をバイパスして優先レーンから入れた。事前エントリーしているコスプレイヤーの特典なのだという。すでに着替えてあるから、入るといきなり「木の香」はカメラやらスマホやらに囲まれた。

 「きのかちゃーん」などと掛け声がとぶ。様々なリクエストに応えてポーズをとりアクションをしながら会場を移動していく。

 あちこちにコスプレイヤーのコーナーがあって、多くのコスプレイヤーが撮影に応じている。

 これじゃただの荷物番だな、と真宵は感じてついてきたことを後悔した。

 「木の香」はコーナーにはとどまらず一周すると、レイヤーの休憩エリアに入って一休みする。

 「だれだれ?きのかちゃんのカレシ?」

「そでっす。ぼくの初彼氏」

「うわー残念狙ってたのに」何かの男性キャラは大げさに残念そうに振る舞う。当たり前かもしれないが、コスプレイヤーには男性もたくさんいて、カメラの女性たちに囲まれていたっけ。「シックさん、中学生とすると犯罪です」

 「どお?」パックジュースをストローで吸いながら、西木野花恋は真宵に微笑みかけた。「メイク崩れないうちに、写メ撮って」

「僕が?」「そ。んで、待ち受けにして」真宵の表情を見て西木野花恋がにらみつける。「なんだよ。当然だろ?ねえ、エンバーさん?」

 話を振られた彼は、ハンバーガーを口にしながらうなずく。「当然でしょ、レイヤーの彼氏彼女としちゃ、義務でしょ」

「げ」「んだよ、ゴルァ」まわりの何人かのキャラから凄まれて、真宵はスマホを取り出して構えた。「もっとアップ」かなり近づいて何枚も撮った。いろいろな角度、表情、モデル慣れしている西木野花恋は学校とは別人のように生き生きとポーズをとる。

 そして、真宵からスマホを取り上げると、画面を見ながらダメ出しした画像を慣れた感じで削除していく。さらに真宵の横に来て顔をくっつけると自撮りでツーショットを何枚か撮り、これもチェックする。

 帰ってきたスマホの画像は、妖しい笑みをたたえた「木の香」の顔のアップやヨコ乳見えてるバストアップショット、ふたりが顔を並べて微笑んでいるツーショットなどの数枚だけだった。

 カラコンで黄色の大きなひとみ。きついメイクも盛ってあるし、これはクラスの友達も西木野花恋だと判らないだろうな、と真宵は感じた。



 さすがに帰りは着替えてメイクを落としたので、ただのワンピースを着た中学生になった西木野花恋だが、それでもなんだかかわいらしく見えるのは何故だろう。

 真宵はくたびれたのかウトウトしてもたれかかってくる彼女を抱きとめる。

「気づいた?」西木野花恋が尋ねる。「え?」真宵は汗の匂いのする花恋の髪を撫でてみた。「なに?」

「ぼくがパンツ売ってた時、すぐそばにいたじゃん」

「え?」

 西木野花恋は起き上がって真宵の耳元に顔を寄せてささやく。「木の香ファンのおじさんに、脱ぎたておパンツ渡してたじゃん」

「え?・・・クッキーかなんかあげてたとき?」真宵は初めて女子とこんなにもくっついていることに緊張していたから、耳に花恋が息をかけてくることに気をとられてもうひとつピンとこない。

「スパッツ脱いでパンツ脱ぐとこ、あのおっさんのスマホで動画撮ってやって、パンツと一緒に渡してやって、二万だよ?すごくない?」

 真宵は得意げな西木野花恋に少し苛立って口調が荒くなった。「稼ぎのいいバイトくらいに思ってる?」「そです。あたりまえじゃん」

 電車の中だというのに、真宵は声を荒げてしまった。「ネットに流されたらどーすんの、リベンジポルノとか言うじゃん」

 しーっ、というジェスチャーをしてから、西木野花恋はけらけらと笑った。「顔は撮ってねーし」

「フツー、カレシの前じゃしないんじゃないの」いきなり西木野花恋が真宵の顔をのぞき込む。まるでキスするかのような近さ。

「妬いてる?うれしい。ちったー惚れてくれたね」そう言ってくすくすと笑う西木野花恋。

 「けどさ」ふぅーうぅ、とため息をついてちら、と真宵に視線を投げて注目をうながす。「がっかりさせるけど、レイヤーの裏垢じゃ、木の香の脱ぎたておパンツが買えることはみんな知ってるの」

 真宵の手を握って、頭を真宵の肩にのせる。小さな声。「でも、あいつらにくれてやるのは、画像とおパンツ、だけ。パンツの中身は、よかったら、真宵くんにあげるよ」

「花恋君」

「やだ」西木野花恋がごんごんと頭を真宵の肩にぶつける。「やだ、やあだ、かれんちゃん、がいい」

 西木野花恋相手だと、始めから終わりまで一度としてこちらが先手を取る趨勢にならないなあ、と真宵は思う。いやべつに、将棋と違って後手後手でも気持ちいいけどね。

 電車の座席で、くっついて座りながら、花恋と真宵のあいだにあった隔たりは失せて、ふたりはカプセルで包まれているかのように感じた。



 学校では相変わらず西木野花恋は村八分だった。ここで彼女のことに関してしたり顔でちょっかいを出して巻き添えになる心の準備ができていないから、真宵はアニメ好きの同級生から情報を得ることにした。

 すると、昨日の西木野花恋が扮していたコスプレのキャラクターは人気のあるゲームのキャラ、ということはすぐわかったのだが、驚いたことに昨日会場に来ていて「木の香」の画像を撮っているものさえいた。

 真宵が「木の香」の周辺にいたことには気づいていないようだった。

 「木の香」の画像を見せてくれたそいつは、木の香エロかわいい、ポーズの注文にもこたえてくれるしいい子だ、と言うのに、木の香が西木野花恋だということには疑いさえ持っていない様子だった。

 そう感じて気をつけて彼女を見れば、教室の彼女はことさらダサく見える。ダサさをあえて演出しているのではないか、ツインテールの髪はピンクのイチゴの飾りのついた小学生でも使わないようなゴムでまとめているし、制服は例の継ぎはぎだし、黄緑色のソックスが明らかに浮いている。

 もう少し情報収集すると、西木野花恋がコスプレで停学になったのは入学してすぐのことで、まだお互いをよく知らない頃だったせいで、今じゃ誰が停学になったのかさえ覚えていない、その程度の認識だった。

 そして、中学生は中学生のパンツを裏垢で買ったりしないから、「木の香」のパンツが買えることまでは知らない様子だった。

 西木野花恋がぶっ飛び過ぎなんだ。

 しかし、西木野花恋は別に学校では知らんぷりでいいよ、とラインしてくる。

 ひょっとして、女子は西木野花恋が木の香だと知っていて嫉妬して無視やいじめになっているのでは、とも考えて情報を集めたがそれもない様子だった。

 今まで「なんか将棋やってる子」くらいの認知度で影が薄い存在だったのに、真宵からいろいろなひとに話しかけたせいで、白波瀬真宵くん、この頃アニメとか目覚めたみたいだよ、という噂が立って、同級生からわけもなく話しかけられたりして、迷惑でもあった。

 こんなで将棋が疎かになってもまずいと感じて、数学の授業をサボって図書館で詰め将棋を解いていると、隣のクラスだという女子が邪魔しにくる。

 「だって、白波瀬くん学校に来ない日も多いし、来ててもホームルームのあとすぐ帰っちゃうし」サボってるみたいだ、とクラスの女子からラインがきたのだという。「数学でさぼるでしょ?なんで?数学きらい?」

「あ、いや、数学は自分で勉強して取り返すの楽だし」すると彼女は真宵に抱きついて言う。「さっすが頭いい!天才!ね、白波瀬くん今フリー?」

 言っている意味がさっぱり分からずに、真宵ははてなマークを飛ばしていたのだろう、彼女は真宵の隣の椅子に滑り込んできた。真宵にもたれかかるようにして、再度問う。

 「だーかーらー、彼女いるかって聞いてんの」

え?いや、いるよ、花恋ちゃん、けど言うのはまずいよな、いじめがエスカレートしたりこっちに向かってくるのも困るな、どうするかな。

 「いないんだ?あたし四方田恵里佳、じゃ、付き合っちゃおうか」

 いやそれはない、と感じて即座に真宵は否定した。「学校の子じゃないんだ、カノジョ、あ、その、奨励会の、将棋の会の子で」

四方田恵里佳は驚きもせずニヤリとして「ぜんぜんオッケー、じゃ、学校カノジョはあたしね」と言い、スマホを取り出して「早くぅ」と言う。「はやくぅ、らいん」

 仕方なくライングループをつくる。

 「さて、いい?四方田恵里佳が白波瀬真宵くんのカノジョだかんね。学校カノジョね」「いやちちちちょっと待って」いきなり真宵の頬にキスをすると「じゃ、放課後」そう言うと図書室を出ていった。

 先の読めない展開の速さに翻弄されて、しばらくぼーっとしていた真宵は、我に返って慌てて西木野花恋にラインした。

 「いま、人目を欺くのに学校カノジョ、ということにした子がいる」

「三組のよもだえりか」

 いくらもしないで返信があった。

 「またさぼってるんだ?」

「四方田り、けど気をつけろあれ、エロ女だ」

「キスされた」「おこ」「ほっぺだよ」「でもおこ」「ごめん」「あたしもしたい放課後」「よ、と約束」「だめ、か、とだろ」「よ、振るから平駅で合流」「り」

 「ちょっとーお」四方田恵里佳の声を背中に聞きながら、真宵は駅まで走った。電車に飛び乗って平駅で降りる。

 何故平駅かと言えば、詰め将棋を解くのに向いている、静かで人目につかないカフェがあるからだ。

 「タイファン、地下で待ってる」

地上フロアもあるカフェだから、地下、と書かないとわからないだろう。ラインを打って一息つく。コーヒーを舐めつつ詰め将棋に没頭していて、ふと気づくと、背中に西木野花恋が立っていた。

 「それそんなに面白いの?」「え?」「五分くらい気づかねーし」「あ、ごめんね」

 真宵が立ちあがると、いきなり西木野花恋がくちびるを重ねにきた。真宵が少し引いた身体を腕でとらえて腕を巻き付けて抱きしめてくちびるを吸う。

 「いやちょっと花恋ちゃん」

 オーダーを取りに来た店員の女性があきれて立ち尽くしている。真宵は赤くなって「このコにもコーヒーを」と伝えて席に沈む。西木野花恋も隣の椅子に腰を落とす。

 ひそひそ声になって、何組かいるほかの客の注意を引かないようにする。「たのむよ、花恋ちゃん」「あー、びっくりした、あたしこんなに大胆なヒトだなんて自分で思ってなかったよ、嫉妬嫉妬嫉妬」

 顔を寄せて、ふたりは小さく笑った。「もいっかい呼んで」「花恋ちゃん」ふうぅわあぁ、と声にならない声で破顔して、その笑顔に真宵は心臓の音が大きく響いた気がした。

 「んー、真宵くん、ちょっとベロ短いんかな?」「え?」西木野花恋がふふふっと笑う。「かれん、れ、の音が英語のアールの音だ」「花恋ちゃん」「ほおら」

 ふんふんふん、と鼻に抜ける音で静かに笑う西木野花恋。

 頬をピタ、と真宵の頬につける西木野花恋。「あたしのが、なんぼもエロか、あいつより」「四方田より?」

 顔を離して、一度じっと真宵を見つめると、真宵の左手を握り腕で身体を引き寄せるようにして真宵の胸に頬をつける。真宵の心臓がさらに高く打つ。「あ、真宵くん、すごい」「え?」「ドゥクドゥクいってる心臓」

 だって、女の子と抱き合うなんて、生まれて初めてなんだ、真宵はそう思いながらあいていた右手を西木野花恋の肩に回した。

「ねえ」びくっと驚いた真宵の身体にくすくすと笑う。頬を付けたまま聞き取れないほどの小さな声。「あたしでいい?」

 女子、話がとぶから何言ってるやらわからない。「ん?」

 西木野花恋の表情が見たくて、身体を離す。紅色に染まったはな、頬、潤んで震えているひとみ、まつ毛、半開きのくちびる、見つめ合うには近すぎてどっちの目を見ていいのやら、と左右のひとみを交互に見てしまう。

 西木野花恋のはながふくらむ。「真宵くんの童貞とあたしの処女をあげっこしよう」意味を理解するのに時間がかかる。「でないと、あたし、死ぬに死にきれないじゃん」

 口を開いて時間稼ぎに、おれたちってまだ中学生だよ、そう言おうとした真宵のくちびるを人差し指でとめた西木野花恋。くるんとひとみが回って、真宵のまぶたを手で包んで目隠しをする。ちょん、とキスをして、「ちょびっとずつ、ね」

 もう一度西木野花恋は真宵の身体を抱き寄せる。柔らかい西木野花恋のカラダの感触。痛いくらいに真宵はいきりたっていて、気づかれたらいやだな、と思う。

 こんな、色仕掛けで迷いそうだな、今度の順位戦予選、大丈夫かな、不安を感じる真宵だった。

 カフェを出て、公園通りを並んで歩きながら、真宵は感じてきた疑問を西木野花恋に生でぶつけた。

 「花恋ちゃん、さっきも死ぬに死ねないとか言うし、初めて会ったときも呪いの魔法解いてあげたいとか言ってたし、どういうこと?」

 西木野花恋が仲の良い恋人同士のように真宵の腕にしがみついて、顔を寄せてくる。

 「だって、死にたいでしょ、お年頃の中学生なら。菅野たちみたいなリア充ぽい奴らだって、実際どうなんだろ?死にたいんじゃない?」

 髪に手をやってふぁさふぁさと拡げる。「真宵くんはさ、将棋で充実!な感じをイマイチ感じなくてさ。だからさ」

 公園のベンチに引きずり降ろされる真宵。真宵の膝の上に頭をのせて空を見る花恋の、色のないくちびる。

 「今は、死ねない。まだ、充分に有名じゃないし。きみの魔法を解いてあげたいって言ったのはさ、真宵くんにあたしを見守るっていう役目をあげようかと思ってさ」西木野花恋が指先で真宵の顎を撫でる。

「コスプレイヤーのおねいさんおにいさん達はさ、なんで死ななかったのって聞いたら、恋をして、恋人が悲しむかなって思ったら死ねないとか、後輩のレイヤーに色々教えたり新しいイベントの立ち上げしたりしてるうちに忘れた、とかさ。ひとって、役目があると死なない、役目があると呪いは解けていくんだなって」

 突然ぽろぽろと西木野花恋のひとみから涙がこぼれる。「ほんとは、すぐにでも終わりにしたい。もういい。つらい。・・・わかれよわかってよ、真宵くん彼氏だって言うんなら」

 おんなってなんでこんなに突然、感情的になるんだ。とてもついていけない。女心と秋の空というけど、秋の空ほどの気持ちよさは感じないぞ。

 どうすればいいんだろ。

 真宵はその額に手のひらを当てた。見つめ合うひとみ。手の上に手を重ねてくる西木野花恋。真宵は次の一手を思いつかず、なんとなく西木野花恋のもう片方の手を取る。指を絡ませる西木野花恋。

 いきなり西木野花恋のひとみから涙があふれ出て、ぐふぅー、というような唸り声で泣きはじめた。いつものアニメ声とは違う、獣のような泣き声。

 西木野花恋が何か言うがしゃくりあげながらだから、何を言っているのか聞き取れない。

 今度は本格的に泣くし。どうすりゃいいんだ。途方に暮れて真宵はただじっとしていた。それが結果としては良かったのか、少しづつ泣きやんでいく落ち着きを取り戻していく西木野花恋。

「あたし、きみに出会えて、良かったよ真宵くん」

 ベンチの前を通り過ぎていく通行人。涙をぬぐい、洟をかむ。だらしなく腰かけていた西木野花恋が、きちんと座り直して真宵にぴったりとくっついて座る。

 「傍から見ればさ、あたしだってコスプレイベントに夢中になってる女子中学生じゃん。将棋に一生懸命な真宵くんとおなじ。じゃ、そういう子が死なないかって言えば、違う、死にたいじゃん。なんかね同じ空気を感じたの、人間てそういう空気を嗅ぎ分ける生き物なんだね」



 学校カノジョ、というものをよく知らずにオーケーしてしまったのは失敗だったかもしれなかった。いや、その前に西木野花恋と付き合っていることが失敗かもしれない。

 自称学校カノジョの四方田恵里佳はひっきりなしにラインしてきて、返信してやらないと授業中でも文句を言いに教室に乗り込んできそうな勢いだ。

 しかもラインの内容の半分以上は真宵にはさっぱりわからない友達の噂話だったりする。既読だけつけてほとんど読まない。

 四方田恵里佳と一緒にいる時も一方的にひっきりなしにしゃべっている。西木野花恋はラインでもこういう無駄話はしなかったなぁ、などと思いながら頭の中で詰め将棋を解いていれば、上の空禁止!などと言ってつねられてしまうし。

 それでも学校が終わって、じゃ、ここからは本命カノジョと、と言えば案外あっさりと「じゃ、明日ね!」と引き下がる。

 今度は下校途中で「奨励会の道場に行く」と西木野花恋にラインすれば「一緒に行きたい待ってて連れてって」などと言い出す始末。「相手できないから連れてかない」と返信すれば「おこ」「ベリーおこ」「スーパーデンジャラスおこ」「鬼おこ」「悲しいおこ」「くたばっちまえおこ」「返事しろおこ」と、延々と非難のラインが続いてしまい、真宵は辟易するばかりだ。

 四方田恵里佳にしろ西木野花恋にしろ、将棋にとってはマイナスにしかならない。しかも、むこうから節操なく送ってくるラインだけでも厄介なのに、頭の中を西木野花恋のカラダの柔らかさの残像がめぐり、手に腕に西木野花恋の柔らかな感触がよみがえる。

 耐えかねてトイレでオナニーをして振り払おうとするが効果が長続きしない。

 そんな一週間を過ごして焦燥した真宵は、週末デートを主張する四方田恵里佳を断って、土曜朝から西木野花恋と会った。

 「ごめん、花恋ちゃん、別れる。僕が一方的に悪いんだ、ごめん、将棋に集中できなくてつらい」

 相向かいで手を取ったまま、三白眼で藪にらみする西木野花恋。

 つやつやとしたごく薄い生地のワンピースの下の胸のふくらみ。腰回りに張り付いてる生地には下着の線もない。腸骨稜からフレアしてひろがりやや長い膝上十五センチまで。ハイサイソックスは黒。

 「あいつのがいいてこと?」低い声。まるで、ジー、という擬音の描き文字が添えてあるような西木野花恋の視線。

 「はぁ」小さくため息をひとつついて間をおいてから、真宵はかぶりを振る。「四方田なんかはなから相手にしてねーし。あのねえ」言いつつぐっと顔を寄せると西木野花恋はひるまず受け止めて見つめ返してくる。

 「花恋ちゃんのせい、だよ」

「・・・」無表情のまま。

「離れないんだよアタマから、ずっと、僕のアタマからずっと花恋ちゃんが」

 まだ無表情の西木野花恋がこくりと首をかしげた。やや開いて上を向いたくちびる。

 「花恋ちゃん、の、カラダが、やらかい感じが」言ってから恥ずかしくて顔が火照る。「なんか性欲猿なんだ」うつむく。

 「だからゴメン別れる。もう会わない」「なんで」「だ、だから」手の汗を、西木野花恋に悟られてしまいそうなのに手を離せない。見つめているまぶたの、少し淡く赤く色づいたあたりは、地なんだろうかメイクなんだろうか。「花恋ちゃんが僕のアタマの中にいっぱいで、将棋が入ってこないんだよ!困ってるんだよ!」強めに吐き出した。

 ニッと笑みを浮かべて小首をかしげた西木野花恋がくちびるを突き出すようにして目を伏せる。

 いやいやいや、ここでチューしたらだめだ。「だめ。別れる」西木野花恋の手を振り払った。「じゃ」

 きびすを返して歩き出したそこにあわせて声が降ってくる。「君に振られたらあたしどうなっちゃうの?」その声の弱弱しさについ振り返ってしまう。

 ゆれているひとみ。

 「いいじゃん、ずっと一緒にいれば慣れてきて普通になるよ、一緒にいれば大丈夫、将棋のあいだは静かにしているし」

「だめだ。気になって。花恋ちゃんに触りたくなるんだ。僕はドスケベエッチな中学生なんだ」顔を真っ赤に染める西木野花恋。一歩下がる。

 笑みをみせる。

 「そう言われると、好きな人に言われると、うれしいんだね。でも、なんでか、ハズイよ」うつむく。

 あ、だめじゃん。と、真宵は感じる。かわいい、花恋ちゃん、シャイな少女するとすごくかわいい。

 西木野花恋が歩み寄って、真宵の袖口をつまむ。「とにかく、別れるとか言わないで。真宵くん、あたしにやっとできた彼氏、だもん、やだ、嫌わないで、こんなキモ女でパンツ売っぱらってお金稼いでコスプレしてる、こんなののカレシなんてなってくれるやつ、いるわけねーって思ってたのに、彼氏してくれたじゃん、やあだ、別れない、こんな死にたいっていうオンナと、それわかってくれるやつなんていないもん、やだ、別れない」

 「ごめん」

 言ってからどっちの意味のごめんなんだ、真宵は自問する。

 西木野花恋の、妙に赤い髪。ごめん別れよう。つまんねーこと言ってゴメン、忘れて。うつむいていた顔をあげて何か言おうとした西木野花恋を制するように、もう一度繰り返した。「ごめん」

 一度驚いたように目を見開いた西木野花恋は、ゆっくりとかぶりを振り諦観の表情でため息をつく。

 「困らせてごめんね。だよね、きみの生きる糧、だよね将棋。しかもこれから、いっぱい戦って強くなんなきゃだよね。わかんなくてごめん。自分の事だけでいっぱいいっぱいだから、ごめん真宵くん」

 西木野花恋が泣き出してしまうのではないか、と真宵は思って手をつなぐと歩き出した。

 強い風にどこかに避難しよう、建物に入ろうと思った目の前にゲームセンターが現れて迷わず中へ入った。

 騒々しい電子音が響く。店内には案外人が多い。外の往来よりも多いのではないか。薄暗い一角はストゥールがあるゲーム機のコーナーだ。そこにペアーベンチのあるゲーム機を見つけて、ふたりで座った。

 「まだあたしと付き合ってくれるの?彼女でいいの?」照れ隠しかカチャカチャとコントローラーを動かす西木野花恋。

「うん。・・・」隣の、黒いつやつやした生地のワンピースのカラダ。これが欲しいだけじゃないのか?それとも、魂のかたち、みたいなのが近い、そういう感じがするこのコと一緒にいたい、のか?

 両方か?

 じゃ、この勃起してるおまえのモノは何だ?処女と童貞をあげっこしようというワンピースの下の柔らかいカラダ、それに目がくらんでるだけじゃないのかよ。

 西木野花恋のパンツを買う、あの汚いおっさんとどう違うんだ白波瀬真宵。お前は何が違うというんだ。「やりてぇ」一緒じゃん。

 ・・・わかった。しない。しないけど、一緒にいたい一緒にいてドキドキするこんな感じを続けたい。

 僕はパンツのおっさんとは違う。くそ、やめろよ、パンツ売るの。

 「付き合い続けるのなら、パンツ、売るのやめてほしい」

「パンツ売るのはさ、たぶん、あと一年くらい。こういうのって、あたしが女子中学生、十四歳、だから買うやつがいるの。十五になったらガタンと値が落ちて、そのうちやつらの触手は別の、新しい中学生に移っていく。何回も見てきた」

 音がうるさくて聞き取りづらくて、自然と身を寄せていく真宵。それに気づいて耳元に口を寄せて話す西木野花恋。「パンツ売れなくて、オナニーしてるとこの動画売るようになって、そのうち中身、売っちゃう。何人か見てきた。あたしは、ボク、木の香は季節限定商品、なんだ」

「そのあとは?」何気なく訊ねると西木野花恋はびくっと体を震わせた。真宵に向き直って、表情のないまま真宵の肩に頭をつける。

 「ないよ。ない。カラダを売るようになたら、もうコスプレには来ない。真宵くんたちのようにその先を読んでるわけじゃないもん」震える声、左手が真宵のシャツをつまむ。右手が髪の毛先をもてあそぶ。

 「なんか、芸能人ていうか、T.Vにでる、みたいななんかにコスプレってつながっていくんかと、思ってた」「なわけないじゃん」「だって、アニメキャラとか、ゲームとか、そういうひとをやってきたわけでしょ」

 顔をあげた西木野花恋が不思議そうに真宵を眺める。

 「だってファンサイトだよ?」

「?」

「当日版権て知ってる?二次創作、は?」

「ごめん。T.V見ないし」「そだよね、将棋で忙しくしてるもんね、ガッコけっこう休むしね」声に出して笑い、ため息をひとつつく。

 「パンツ、売らないとお金ない。こっそりやるから、気づかないよにさ、将棋だって邪魔しないし、ききわけのいい子、とくいだよ?」

「けど、奨励会はさ」西木野花恋のカラダに視線を落とす。「花恋ちゃん、いるだけで気が散るから」

 両手でドスドスと真宵の肩を殴る。「そんな冷たいこと言わないで。だってどうすればいいの」

 答えは、ふたりには見つけられない。

 「おとなになっても、コスプレ続けてる先輩がたくさんいるでしょう?」西木野花恋とクレーンゲーム機のあいだを歩く。「もちろん、きちんと社会人になって結婚だってして子どももいて、ていうひともいるけど、ダメダメちゃんも多いんだよ。三十過ぎてもちょっとバイトしてコスプレ代稼ぐだけで親の金で生活してるひと。あたしなんか、その道まっしぐら。あたしはそうなる前に自分に決着つけたい」

 スカートをひらひらさせて、とあるクレーンゲーム機に駆け寄る西木野花恋。

 「あたしこれ好きなんだ、チェシャ猫」そう言うと小銭を投入してプレイを始めた。ピンク色の猫のぬいぐるみ。

 「だってこいつ、何者なのかわからない、不思議な猫」

 真宵にも百円玉を出させて5回ほどチャレンジしたが失敗に終わった。

 「真宵くん知ってる?ディズニーの不思議の国のアリス」

「観たことない」

 西木野花恋はスマホの動画を真宵に見せた。「へんてこな冒険、夢の中の冒険に出てくる道を指し示すものなんだ、この猫」

 西木野花恋はいきなりコツコツコツとリズムをとると、歌いだす。「こぉの俺はぁ~摩っ訶不思議ぃ~魔力を持ったネっコさー、そっこらぁーのーやっつらとわぁー、偉さがぁ~チぃガウーよっ!」

 放心したように動きを止める西木野花恋。

 ぼんやりとしている西木野花恋にスマホを返すと、その定まらないまなざしのまま、真宵に問う。「真宵くんはどうなの。将棋のプロになるの」

 頭を掻く。

 「どこまでやれるか、わからないからさ。藤井君みたいな天才じゃないしね。プロになるのに年齢制限もあるから、学校をおろそかにしないって、親と約束してるし」

「サボってるくせに」

「いや、試合の時だよ。成績は花恋ちゃんよりいいよ?学年31位だし」

「だけど彼女も必要だよ?放課後カノジョ、将棋の邪魔はしないから、社会性保つのにも必要だよ?」

「どんな社会性」笑いながら問う真宵に不満げな表情で立ちあがる西木野花恋。

「コスプレだってさ、パンツ売ってるのだってさ、真宵くんにとって知らない世界だったでしょ」

 真宵と手をつなぎ先に立って歩いてゆく西木野花恋。

 「あの四方田のが美人だからあっちにする、とか、他に好きなひとがいて告ってみたらオッケーだった、てんならまだあきらめの理由になるけど」

 ぶんぶんと手を振って歩く。

 なんだかんだ言っても、このコといると楽しいんだもんなぁ、真宵はそう思って、手のぬくもりを味わった。



 結局押し切られて、奨励会の道場についてきてしまった西木野花恋は、スマホで小説を読んだりしながら真宵を待つ。

 それが別に苦ではないようだ。

 学校で待ち合せると、学校カノジョの四方田恵里佳がうるさいだろうから道場で落ち合う。すると帰りの道すがらでしか話ができないわけだが、それでも毎日話をしていれば今までとは親密さがちがう。お互いを理解し合うには充分な時間だった。

 さらには当たり前だが、奨励会の道場の事務方や通ってくるほかの塾生たちにも顔が売れて、真宵の彼女、一途でかわいいなどとちやほやされ出す。

 「花恋ちゃん、いいなあ、ちょーかわいいよ」などと真宵にも冷やかしがとぶ。

 そして、真宵は西木野花恋に会うたびにその胸元やミニスカートの生足に勃起したものだが、慣れてくればそうは感じなくなる。学校帰りは例の目立つ継ぎはぎの制服だし、休日に家から直接道場にやってくるときにも、おとなしいごく普通な感じのワンピースで、さほどセックスを感じさせない。

 それに、ふたりはキス以上の関係にはならなかった。手をつなぐけれど、カラダの接触は並んで座るのが関の山だ。中二だからそんなもん、と言えばそうだし、その先などと考えれば真宵は袋小路に入って西木野花恋から抜け出せなくなってしまう。

 こないだはブラウスの胸元にブラのカラー刺繍が透けていて、真宵が盗み見していることに気づいた西木野花恋は、「きれいでしょ、桔梗の刺繍だよ、パンツもセットなんだ、ちょっとだけ見してあげる」と言うと、ブラウスの胸元を少し開いて、右胸のブラを半分ほど露出させた。

 どう?と、「ん?」と言いつつ上目づかいで真宵を見る。

 きれいだな。

 ふと、手がのびて真宵の指先がフルカップブラの美しい桔梗の刺繍に触れたその瞬間、ひゃぁー!というような声をあげて西木野花恋は腕で払いのけ、はっとしたように真宵を見つめる。

 「・・・ごめん」真宵の声に、ふわぁっと紅く染まってゆくへの字に結んだ口もとの表情の西木野花恋。

 「ごめんね、ちょっと油断した」下まぶたが震えている。目をあえて見開いているような不自然な表情。「厭じゃないよ、触ってほしいよむしろ、けど、ちょっと心の準備が」言いかけてやめ、顔を伏せて真宵の胸に頭をつける。

 「死ぬ前にセックスはしてみたいよ。しないで死ぬのは、や。するなら今は真宵くん以外に相手いないよ。おじさんに売ったりはしないから。ね。ちょっと、待ってね」

 真宵にとっても、性、というものを現実として意識するのは西木野花恋を前にしている時だけだ。その西木野花恋も、イベントでレイヤー「木の香」としてJCエロに関わっている時とは違うキャラクターになっている。

 そう、自らの身に肉体のふれあい、として降ってくればやはり怖くて反射的に拒絶してしまう、そんな感じはふたりとも同じなんだ、そう真宵は安堵する。

 一方でイベント会場にいる時の「木の香」になっている彼女は立ち振る舞いや言動がおとなびてセクシーで別人なのだ。

 真宵にとって、出ようと思えばほぼ毎月だって出られる数のイベントがあることも驚きだが、参加するコスプレイヤーの多さも驚きだし、カメラマンも人気のある人がいて、ということだって驚きだ。SNSフォロワーを多く抱えるカメラマンさんに撮影されるときにはつい、サービスしちゃう、などと話す。

 ヌーブラ着用とはいえ乳房を見せることに西木野花恋はさほど抵抗はないようで、真宵は嫉妬すら覚える。「だって、水泳選手とか体操選手とか、水着やレオタードでいることが普通だから、恥ずかしいも何もないでしょ?同じだよそういうのと」

 パンツを売ることは相変わらず続けていて、真宵もそれは黙認することにした。そうでないと「木の香」としての活動費が捻出できないのだ。

 そんなふたりの交際スタンスが決まってきて、すると真宵も西木野花恋に過剰反応しなくなり、奨励会での成績も上がり始めた。

 なんとなれば、負けが続いて真宵が不機嫌になると西木野花恋でも慰めにはならないからだ。すると西木野花恋も不機嫌になる。ふたりして不機嫌だと一緒にいる意味がない。

 さらに、早く対局を終えて西木野花恋とおしゃべりをしながら帰りたい、という真宵の思いは、早読み早指しの傾向になる。それがいい結果になってもいた。深読みし過ぎて自滅するケースが多かった真宵には、プラスに働いたのだ。



 だが、ふたりの関係が密接になり安定してゆくと、これを学校で隠し通すことは難しくなった。

 決定的な場面がやってきた。学校カノジョ四方田恵里佳が、ふたりのクラスにやってきて真宵にちょっかいを出していた。席替えがあって、真宵と西木野花恋は隣の列前後ひとつ違いという近さだったのがまずかった。

 「いいじゃん、ねーえー」

四方田恵里佳が無理やり真宵の膝の上に座って首に腕を回して甘えているのを、西木野花恋は口をへの字にしながら横目で見ていた。

 こういう言動は、このグループの女子たち、男子とお付き合いすることしていることを周囲に見せつけること、が学校生活において最重要と考えているグループの女の子たちに特有のものだった。いわば、わざわざ教室内で周囲に見せつけることでステイタスを得ているのだ。

 四方田恵里佳が、何をもって真宵をひけらかす対象の彼氏として選んだものか真宵には測りかねるが、エスカレートする接触に真宵はうまく対応してやり過ごしていた。

 「まだ触らせてねぇの?」

「まじめなお付き合いなんすよ、あたしたち」

「そういうやつこそ、陰でなんぞやらかして中絶カンパとか回してくんだぜ」「いるよねー」

「別にこだわりはないよ、ただ今までなかっただけで」

「じゃあ、今やって」「そうそう、いまいま」

 西木野花恋のすぐ目の前で、四方田恵里佳の手が、真宵の手を取った。その手が、ブラウスの乳房の上に導かれて重なった。「な?、こんくらいフツーだって」「おっパブかよ」「は、れ、ん、ち!」

「馬鹿言わないで、こ、い、び、と、ど、う、し、ならフツーでしょ」

 ガタン、と音がして皆が振り向く。西木野花恋が椅子を倒して立ち上がっていた。

 「どーしたん、かれんオカルト」

 四方田恵里佳が自分の胸をひけらかすように突き出してみせ、「うらやましい?あんたも」次の瞬間西木野花恋がいきなり四方田恵里佳を突き飛ばして、真宵を胸にかき抱く。食いしばった口もとと震えている肩、涙目の左右をにらみつけているまなざしにしばし無音になり時間が止まる。

 「ざけんなよ痛ってぇーなぁー」四方田恵里佳が立ちあがる。「ふざけんじゃねーよオカルトてめぇー」

意外なほどどすを利かせた大きな声で「真宵君はあんたみたいに腐った女には渡さねーよ」と西木野花恋が叫ぶ。

 真宵は、恐ろしいほどの音と共に高鳴る西木野花恋の心音を聞いていた。ひゅう、ひゅう、ひゅう、と大きく息をしている。風の音のように鳴っている。

 「はっ?なんだそりゃ、うわさどーりオカルトも白波瀬が好きなのか?身の程もわきまえず?離せよ、ひとの彼氏抱きしめてんじゃねーよ」正面からにらみ合うふたり。「こんなビッチには渡さない」

 西木野花恋の腕に手をかけて引き剥がそうとした刹那、西木野花恋が四方田恵里佳に頭突きをした。ふたたび倒れこむ四方田恵里佳。

 真宵は逡巡を振り払った。

 「なんだこいつ」「気ぃくるったんちやうか」「こええぇ」

ようやく呆然として動きのなかった教室がざわめく。口々に西木野花恋に罵詈雑言を浴びせ始める。震えながらきつく真宵を抱きしめて、真宵にすがりついた西木野花恋のあまりに速く打っている心臓。

 真宵が手を西木野花恋のお尻を撫でるように回すと、はっとしたように腕が緩んだ。今度は真宵の腕が西木野花恋の身体を捕らえて、抱きしめるようにして真宵は身体を抱えて立ち上がった。西木野花恋の足は宙に浮いているから、真宵にすがりついている。

 再び教室が沈黙する。

 「あんだよ白波瀬真宵」「どした、誘拐すっか」「そんなん誘拐せんでもえりかちゃんさせてくれるってよ」

 大きく息を吸った。

 「西木野花恋は、僕の彼女だ。四方田じゃない。四方田は嫌いだ」

 ざわめく。

 真宵が西木野花恋を抱えたまま歩きはじめると、四方田恵里佳の仲間たちがふたりを取り囲む。

 「すっかしてんじゃねえぞ、この将棋野郎」

 抵抗むなしくあっという間にふたりは引きはがされて床に押さえつけられる。「そんなにお望みなら、おまえのちん〇、この女のま〇こに突っ込んでやんよ、むけ、剥いちゃえ!御開帳だ!」

 西木野花恋のスカートが破かれる。真宵のベルトが外される。

 「なにごとだ!」

 教員が三人ほど教室になだれ込んできて、わっと人が引き、真宵と西木野花恋が取り残される。

 教員を一瞥しただけで真宵は、スカートを破り取られた西木野花恋の、そのスカートを拾って掛けてやると、真宵にしがみついてすすり泣き始める西木野花恋。

 こうしてふたりは、学校で居場所を失った。



 「すっごく、うれしかったです。今まで生きてきた中で、いっちばんうれしかった」

 その日の夜、西木野花恋はそう言った。「思い出すと泣けちゃう。辛抱できないでまずいことしでかしてんの、あたしなのに真宵くん、みんなに西木野花恋は僕の彼女だって宣言して、ゾクゾクして快感でもうなんも思い残すことない、って」 真宵の手を取って頬ずりし、「おっぱいくらい、いつでも触らしてあげるから。いい気味だった、四方田のやつ」

それから、泣きべそ顔になる。

 「今度は、真宵くんが村八分だ。ごめんね。きっと変なあだ名付けられて、無視されるし、画びょうとかカバン隠すとか給食わざとひっくり返すとか、典型的なやつからいじめが始まるよ」

 真宵は逆に西木野花恋の手を引き寄せてキスする。

「大丈夫。わかってるよ、心配ない」

 けれど西木野花恋は不安げに空を見上げ、真宵の胸に頭をつける。「好きだよ真宵くん。あたしは君に言葉ひとつで買われた奴隷だ」そして再びべそをかきはじめる。



 学校側の事情徴収でも、何か新しいことが起こるわけではない。西木野花恋は問題児で、四方田恵里佳はそうではない。白波瀬真宵はたぶらかされそそのかされたのだ。

 まったく今までと変わらない処分。西木野花恋は二週間の停学処分をくらい、他のものは注意のみ。

 当然、四方田恵里佳のメンツをつぶした真宵が、新たないじめのターゲットになる。その最初のいじめ、ずたずたに引き裂かれた教科書、という定番の内容に対し、真宵は美術準備室から持ち出してきた膠(にかわ)、という日本画に使う糊の一種を教室の中にいたクラスメイト全員に無差別にぶちまける、という荒業で対抗した。

 べたべたとして簡単には取れない粘着性。制服から髪の毛から、教室中がべたべたに糊まみれになった。

 結果、白波瀬真宵も停学処分になった。

 親にだってしこたま絞られた真宵だが、ずたずたに引き裂かれた教科書を見せ、事情を説明し、道場で待っていた西木野花恋に引き合わせ、破かれた制服を見せ、「いじめは、黙っていればエスカレートする。それは、花恋ちゃんがいじめられてきたのを傍観してきてわかっていた。だから、僕はただ黙ってやられっぱなしじゃないよ、というアピールが、過剰なくらいのアピールが必要だったんだ」そう訴えて親を納得させた。

 停学中もふたりは道場で逢瀬を重ねる。といっても行き帰りとお昼以外は顔を合わせはしないのだが。

 「観たかった。あたし、真宵くんが糊ぶちまけるとこ見たかった、見る権利あったよ、残念」

 道場の人たちはすでに西木野花恋贔屓だから、真宵のしでかしたことに「花恋ちゃんのあだ討ち」的な意味づけを勝手にして、拍手喝采を送る始末だ。

 西木野花恋のうちは、公団住宅だった。父親と二人暮らしだ。兄がいるらしいが、兄は別れた母親に引き取られたのだという。

 西木野花恋の父は長距離トラックのドライバーで、一週間のうち二日ほどしか娘と顔を合わせない。家ではたいてい眠っている。起きだせばパチンコか競輪に出かけていく。

 生活費は、ひと月分、ぎりぎりの金額を毎月もらって、西木野花恋は生活していた。家賃光熱費などの引き落とし手配もしていた。コスプレ以外では案外質素極まりない生活は、たんに使えるお金、お小遣いがないからだった。

 停学処分中、真宵は毎朝決まった時間に西木野花恋を迎えに行った。三十分くらい待たされてやっと降りてくる。ふたりはまず公立図書館へ行って、自習をする。真宵が両親に課された自主学習2時間、だ。

それに、せっかくだから西木野花恋をつき合わせたのだ。朝起きるのが一苦労の様子だが、それでも厭とは言わない。一緒に行く、待っていて先行かないで、と言ってついてきた。

 真宵の母が、ふたり分のお昼の弁当を持たせてくれた。道場に行って、一緒にお弁当を食べる。それが楽しかった。

 停学処分が明けても、ふたりはその生活を続け、そのまま不登校になった。

 教員も含めての学校挙げての村八分に、ふたりは通う理由を失ったのだ。



 「して欲しい、あたしと」

 真顔で西木野花恋が真宵に言った。この言葉を口にするほど思い詰めて苦しんでいること、それを真宵は理解しているから、首を棒に振った。

 「しない」「なんでよ」

 西木野花恋は意外なほど穏やかな表情で、部屋を出ようとした真宵の進路をふさぐ。西木野花恋の、アニメのポスターが四方に貼られた部屋。

「片付けたんだよ、真宵くん、真宵くんを家に呼ぶために。あたしは、真宵くんとセックスしようって決めて、そしたらけっこうウキウキで、ドキドキで楽しくて、そのためにお部屋きれいにしたんじゃん。乙女心わかれよ」

 そう言うと西木野花恋は真宵に抱きついて押しやる。仕方なく下がった真宵はベッドに押し倒される。

「女から言い寄られて押し倒されて、幸せじゃん真宵くん」

 そう言ってキスしようとした西木野花恋を押し返す。「いやだ。しない。だって花恋ちゃん、もういいって思ってる。もう死んでもいいやって、思ってるだろ、だからしようとか言い出してる。僕は厭だ。もっともっと、花恋ちゃんと一緒にいたいよ」

 額を真宵の胸につけて、西木野花恋は震えている。その頭に手をやって髪を撫でるようにしながら、真宵はつとめて冷静な声を装う。「お父さんにきちんと、説明して、転校しようよ」言いながらその言葉の無力感に打ちのめされる。真宵は彼女の苦しみがわかる。この状況をどう説明して不登校になっている現状に理解を得ればいいのか。

 「もういいの」「よくない。僕がよくない、花恋ちゃんとはもっといっぱい、遊びたい」「ごめん、もう無理」頭を真宵の胸に擦りつけるようにしていやいやをして、うぐっうぐっと嗚咽をもらす西木野花恋。

「だめだよ、僕は花恋ちゃんとは死なない。死なせない。助けるよ、こうやって、あったかい花恋ちゃんを抱きしめてつかまえてる」真宵が肩を抱く、それを払うように起き上がる西木野花恋は真宵も引き起こした。

 「逃げて。どっか遠くに一緒に逃げよう」

「何から逃げるの」

 真宵は、小刻みに震えている西木野花恋のカラダを、勇気を出してそっと抱き寄せる。もたれかかってくるカラダを膝に抱えて抱きしめた。

 「あたしには、未来なんてないから。どこかで、終わらなくちゃいけないの」震えているカラダ。鬱につかまっているんだな。苦しいこの時期、気持ちが気分が好転してくるまでただじっと待たなくちゃいけなくて、つらくて耐えらんないんだな。

 何を言っても励ましにはならない、そう思いつつ真宵は声をかける。「もっと先だよ、花恋ちゃんの終わりの時は。大丈夫だよ、僕がずっと一緒にいて見張ってるから、花恋ちゃんをしっかり捕まえて逃がしやしないから」

 西木野花恋の手が、真宵の手をつかまえて胸元に抱きかかえる。涙が流れて嗚咽が収まる気配はない。

 「笑ってよ。えくぼ見せてよ。来週またイベント出るんでしょ?何なら僕がオタ芸やってあげるよ、歌ってよ花恋ちゃん」

 コスプレイヤーの中には、アイドル歌手ばりに固定ファンを引き連れていて、踊ったり歌ったりする者もいて、それに合わせていわゆるオタ芸で盛り上げる一団もいて、それがまた素人の真宵の目にはとても上手に見えたのだった。

 何を提案したら、西木野花恋元気出してくれるんだろう。とにかく何か、花恋ちゃんの気を惹く何かないのだろうか、そう真宵が思案していた時、顔をあげて真宵をじっと見つめる西木野花恋。

しゃくりあげつつ、「真宵くんもコスプレして」という言葉に即座に拒否を伝える。「やだよ」

聞こえなかったかのように「スマホとって」と言い、スマホはベッドに投げ出されていたから手を伸ばして拾い、手渡した。

 さらさらと操作して、画面を真宵に見せる。ゲームキャラかアニメキャラのアニメの絵柄。王子と姫?それに従者の女戦士?

 「このキャラの男のほう、やってよ。衣装、リセさんが持ってて背格好が真宵君合うよ、着れそうだよって話してたの」

 スマホ画面の下の西木野花恋と目が合う。キラキラしてさっきまでの鬱はどこへやらみじんも感じられない。「なんで僕まで」「あたし、真宵くんの世界知りたくて将棋習ってるじゃん、遊びで対局くらいできるようにって。レイヤーって、その道じゃない彼氏彼女のひと、多くてカミングアウトしてないひともいっぱいいるの。木の香ちゃん羨ましいカレシと来てるなんてッ、て言われてそーいやカレカノ同伴、今日はボク以外見かけないなぁ、ノンケカレシ、なかなかついてきてはくんないよなぁ、て思ってさ。したらリセさんがルートレンドのシャギーとルウ持ってるよルウのスーツ、真宵くん似合いそうじゃん?貸すよって言ってくれて」

 生き生きとまくしたてている西木野花恋にホッとする。いいや、コスプレに付き合うくらいでこんなに元気出るなら。

「あっ」がば、と西木野花恋が体を起こして立ち上がる。真宵の横ベッドの上にあらためて座り直す。「来月あたし誕生日じゃん、来月のビッグサイトまでで、たぶんパンツ売るの終わりだから、コスもなかなか行けなくなるの。だから、誕生日コスプレしてよ一緒に真宵くんも」

 眼の光にまったく濁りがない。マジで言ってるな、と真宵は感じて仕方ない、と思う。ぺこ、と頭を下げて西木野花恋が上目づかいする。「おねがい、来月ならシャギー借りてサイズ直し間に合うし」

 ため息の真宵。「ずるいよ、断れないじゃん」「そのあとお祝いに貫通式しよう」「カンツウ?」手指でセックスを示し笑う。「したいっしょ?」「したいのは花恋ちゃんでしょ」

 顔を赤く染める西木野花恋。かわいい。「はずいでしょ。言わないでよ。ふたりで、したいんでしょ。きめきめ、じゃ、決定だよ?」

 小首をかしげて返答を迫る西木野花恋。えくぼがカワイイ。僕、花恋ちゃんに惚れてるなぁ、喜んでると嬉しいもんなあ、と思いながら真宵はうなづく。「わかったよ、オッケー」

 ひゅう、と口笛を吹く西木野花恋。

「リセさんにラインしとこ」

 その西木野花恋の頬に涙のあと。感情の起伏が行ったり来たり、おんなのコって、みんなこんななんだろうか、と思いながら真宵はその頬に指先で触れてみた。



 来年は中学3年生。ふたりとも進路を決めなければならない。真宵は都立中に転校して都立高校を受験するつもりで、その段取りに特に障害はない。転校予定の都立中は道場にも近いし、道場に通っている中学生がほかに3人いるのだ。

 一方で西木野花恋ときたら中学を卒業するつもりもない。一応、毎朝真宵と一緒に勉強しているけれど、それは単に一緒にいたいから、というだけのことだ。

 停学中に、西木野花恋は校長や担任の先生と父親と、停学についてや進路について3者面談をした。

 先生を含めて学校全体からいじめを受けていると感じている、そう父には話した。父はその件に関して学校の説明を求めたが、調査中、と言うだけでろくに説明せず、逆に同じく停学中の白波瀬真宵君とお付き合いがあるようで、中学生としての風紀を逸脱していなければいいのですが、などと余計なことまで話し出す担任の先生。

 わかっていたけれど改めて絶望を感じて、西木野花恋はただだんまりを決め込んで何も話さなかった。

 中学は卒業したいけれど、この学校にはもう通えない、そうはっきり言うと、父親は特に驚くこともなくうなづいた。

 この話を聞いて、この宙ぶらりんの状態に不安ではないのか、と真宵が問うと「別に」などと他人事のような態度だ。

 課題のプリントを自習して、郵送でも提出してさえいれば、成績はつけるが卒業のためには出席日数が足りない、という。

 保健室登校は?と尋ねても、やだ、と繰り返すだけ。何か考えがあるの?と問うても特に考えもない、と答える。こんな西木野花恋の主体性自主性のなさに真宵が業を煮やし、じゃ、僕と一緒に都立中に転校する?と聞けば、偏差値高すぎてあたし頭悪いからついてけないよ、とかえす。

 ただ、何も手を打てないまま西木野花恋の不登校は続いていく。



 西木野花恋に言われるがまま、衣装を着てみるとほぼサイズは合っていた。手足が少し短いけれど、「二、三センチ出せるから大丈夫、真宵くん手足長いんかな?」と満足げだ。

 一方で西木野花恋はぶかぶかで、「タッパ足りねえから詰めて、胸やら尻やら詰めて、ががっと大工事だこりゃ」と笑う。それでも楽しそうな空気は同じでそれほど苦にしている作業ではない様子だ。「じぶんでするの?」「もちもち。お直しさん頼むお金ないし。そんなにセンシティブな寸詰め丈直しじゃないよ」と笑みをみせる。

 こういうのが、花恋ちゃんのほんとの姿なんだな、と思う。コス着てイベント会場にいる時よりも、こうやってコスの衣装を手に詰め方を思案している時の方がいい顔をしているようにさえ感じる。

 「出来あがったら寸劇の練習ね。ほんのふたつみっつ、セリフゆってはい決めポーズ!カメラがバシャバシャ、だかんね」「うん?」

「んで、かのーせい五分なんだけどコスプレ仲間がサブキャラのコス借りて参戦、ゆってるからひょっとして現地で三人に変更、セリフもポーズも変更かもしらん」

 僕にできるのかな、と思いながら真宵が「ちょっと恥ずかしいな」ともらすと、「クラスのあの連中招待してやろうか」と言って笑った。

 今は、スマホで動画を撮ってSNSにアップする人も多いから、コスプレイヤーにアクションは必須なのだという。そう言われれば「木の香」もキックしたり太極拳のような動きをしたり、「月にかわってお仕置きよ!」みたいなセリフを吐いたりしていたっけ。

 とりあえず、西木野花恋が死んでしまいたいからセックスしたいと言って迫ってくる心配は、当面はなくなった。新学期を待たずに真宵は転校して、都立中へ通い始めた。西木野花恋といえば、学校は不登校のまま、真宵よりも先に道場に来て、大きなボストンバッグに入れて持ってくるコスプレ衣装を、チクチクと直す作業にいそしんでいるようだ。会議室の一角に場所まで作ってもらっていた。

 ごたごたがあったにもかかわらず、真宵は順位戦に勝ち、段位昇段までもう一息というところまで来ていた。



 そして、東京ビッグサイトでのアニメ&ゲームイベントのにぎやかし役のようなコスプレイベントで、真宵は西木野花恋とともにキャラを演じてコスデビューした。

 恥ずかしい、という反応をしている暇などなかった。なにしろカメラの前で次から次へと途切れないカメラリクエストに、応じ続けなければいけないのだ。ポーズは「木の香」に合わせる形でなんとなくやっていたが、ふたりの決めポーズがが決まるとシャッターが途切れない、ことがわかって工夫するようになった。

 与えられた場所は控室から遠くて、休憩がとりづらかった。

 「木の香ちゃーん、こっちよろしく!」などと目線、ポーズ正面を求める声の多さにあらためて、「木の香」というコスプレイヤーがなかなかの人気者であることを知らされる。

 真宵は、西木野花恋が「木の香」である名づけ方にならって、白波瀬真宵から「せま」、を取り出して「世摩」というレイヤーネームで自己紹介プレートをつくっていた。「木の香&世摩」だ。

 途中で「ルートレンド」というゲームのもうひとりのメインキャラ、「ルトラ」役の少女が合流し、ルトラ&シャギー&ルウになった。そのせいで振り付けとセリフをいきなり変えられたりして、真宵はとまどったものの何とかやり切った。

 昼休憩の一時間弱をはさんで午後の三時まで出ずっぱり立ちっぱなしで活動して、そのハードさに疲労困憊だ。

 時間終了で控室に戻れば、メイク落としに着替えのコスプレイヤーたちでごった返している。慣れた様子で頭からすっぽりかぶったシーツの中でさっさと着替え、すぐにメイクを落とし始める西木野花恋。メイク落としで落とした上に簡単にメイクを整えてからやっと、真宵も衣装を脱がせてもらった。

 会場を出て、歩道の端すいているところで休憩。西木野花恋にスマホでもうあがっているツイッター画像などを見せてもらい、ぎこちないポーズの自分に赤くなる。

 馴れてきて「木の香&世摩」として決まりはじめてきた頃の動画などは、「いいじゃん、真宵くん超イイよぉ」と、西木野花恋も笑みがこぼれる。

 「世摩、誰?きゅんちの別名復活?」といったツイートが何件かあり、真宵の演じたルウは、かつて活動していたきゅんちという人気レイヤーに似ているらしいことが話題になったりしていた。

 「どう?気持ち良かったでしょ?はまりそう?」

 にやにやとしながら訊ねる西木野花恋に首を振った。「いやーもういい、いっかいで十分。疲っかれたよ。こんなんしてたら、将棋なんてできないよ」

「ま、ずっと立ちっぱなし、だしね」

 目の前を人々が駅に向かって移動していく。さっきまであれほど注目されていたのに今はもう見向きもされない。手に紙袋をさげた男女様々な年齢の人たち。

「さ、帰って汗流そう」



 その日の夜、西木野花恋のうちでシャワーを使った後、ふたりは西木野花恋の十五歳の誕生日を祝った。といってもコンビニで買ったプリンデザートと家にあった缶チューハイだけれど。

 「今日、パンツ売ってっていうディーエムあったけど無視したよ。今日のボクは、あたしは真宵くんのカノジョだから」そう言って真宵をまっすぐに見つめる西木野花恋の少し紅が入った気のする目尻。

「ありがとう、もう売らないって約束だよ」ゆっくりと表情が崩れて微笑みになる。えくぼ。染まる頬は潤むまなこはやっぱり缶チューハイのせい?

 「うん。じゃ、カノジョにご褒美に、チューしてよ」

 このまま座って肩を抱いてキスすれば、抱きしめて押し倒してセックス、みたいな流れのような気がして、真宵はあえて西木野花恋を立たせてから、キスをした。

 期待感。十四歳の男子のカラダは、あわよくば初めてセックスできるかも、という期待で満ちている。ともすれば男性としての攻撃性が真宵を乗っ取りそうな勢いだ。

 すでに真宵の陰茎は勃起して痛いほどだ。

 それでも真宵は西木野花恋とセックスするわけにはいかない。

 そんな、自分の欲望だけで突っ走ってしまうことはできない。

 だって、花恋ちゃん、ほんとに、死んじゃうかもしれない、感じるんだよ花恋ちゃんから終わりにする合図を待ってるみたいな、終わりにするきっかけを探してるみたいな何かを感じるんだ。

 生きててほしいなら、セックスなんてしちゃだめだ。願いをかなえてあげちゃだめだ、明日へ、一日一日、生きていく事を選んでもらわなくちゃ、明日になれば叶うかもしれないって、将棋だってそうなんだ、一日一日一局一局一手一手、それをただ迷い考え選び反省しながら続けてくしかないんだ、花恋ちゃん、魔法はないんだよ、さいころ振って一気に五マス飛び越えたりはできないんだ。

 柔らかな西木野花恋のくちびる、柔らかな背中。

 西木野花恋の手が、真宵の身体を撫でるようにつかまえにくる。自らの魔法の世界に真宵を取り込もうとでもするかのように、西木野花恋が腰を抱いて自分の腰を密着させてくる。

 ああ、勃ってしまっているのが、もうバレてしまった。

 腰を抱く手に力が入って、西木野花恋が勃起している真宵の陰茎にみずからの恥骨を擦りつけてくるような動きに、ますます硬くなっていく。

 「なんかまだ信じらんない」片足立ちになって片足を真宵の腰に絡ませて、屹立する陰茎に頬を上気させて陰部をこすりつけている西木野花恋。「こんなあたしにカレシができるなんて」

 目元から滲んでこぼれる涙は、悲しい涙ではない。真宵を盗み見るように目をやりそれを見つけられると自らの行為にはにかんでさらに色づく、十五のかんばせ。

 「死ぬとか言い出さないから、したいな」

「だめ」「カレカノ、することっていやひとつじゃん?」「いや」「したいでしょう真宵くんだって、ああ、こんなになってんだもん」「したいよ」「じゃ、相思相愛じゃん、しよう」「だめ」「なんでさ」

 問答を続けながら、なまめかしく動いている腰が、より強くより速く動きを増していく。真宵のカラダで陰茎で自淫しているようなただ自らの快感だけをむさぼるような妖しく誘う表情に羞恥を混ぜてさらに色づいていく、熱い吐息を真宵の耳元で吐きつづけて少し口臭のする甘い石鹸の匂いの、そんな西木野花恋。

 「真宵くんの、理性?なにが問題だっての、カノジョがしたいってゆってるのにしないって、そんなんカレシ意味ないじゃん、なにが止めてんの」荒い息の合間から切ない小さな声をもらしさらになまめかしく動きを速めていく西木野花恋の生き物のような腰。背を肩をつかむ指がきつく真宵をとらえて離さない。

 「ああ、・・・、だめだ、真宵くん真宵くん、抱きしめて」額を真宵の首筋に押し付けるようにして身体を震わせる西木野花恋。

 射精した。



 「なんかごめんね真宵くん。真宵くんがやってくんないからだよ。どうせならあたしとしてあたしんなかに出してくれてよかったのに」

真宵はかぶりを振ってにらむ。「んなこと、だめでしょ」真宵のパンツを洗う洗濯機の音。下半身バスタオル一枚、の真宵。

 「いま、お父さんが帰ってきたらどうする?」いきなり問いかける西木野花恋に動揺してしまう。「あたしがそのバスタオル取っちゃう。で、あたしもパンツ脱いで床で脚広げちゃう。したらお父さん、責任取って結婚しろとか真宵君にゆうかな」笑う。「やめてよ笑えないよ」

 くすくすと笑っていた西木野花恋が急に表情を失う。

 まるで電源を失って停止したかのように固まってしまう。

 まつ毛の先だけが小刻みに震えている。声をかけて西木野花恋を現実に引き戻そうとして、真宵は躊躇した。見とれる。

 美しい頬の隆起。鼻の稜線。ほんの少し開いて歯がのぞけそうなくちびる。うなじから鎖骨へまとわりついている髪。鎖骨下からゆるやかに盛り上がって張りつめたあと流れ落ちるようにブラウスのなかへ潜りこんでゆく乳房のふくらみ。かすかにゆっくりと上下する胸郭。

 「おわって、よかったのに。でも、真宵くんと生きていたいなあ、って、生きていっぱいセックスしていっぱいコスイベント行ってなんかそーゆーリア充みたいなことできる、と思うと死ぬの惜しくなるんだね、ひとってバカみたいだね」

 いきなり復帰して電源が入り笑みを真宵に向ける西木野花恋。



 そして西木野花恋は失踪した。

 白波瀬真宵は特に動揺することなく、失踪を受けとめた。それが失踪なんかではなく、自死なのだ、と理解していた。

 朝、迎えに行った西木野花恋は家から出てくることはなく、ラインに既読もついてなくて、奨励会の道場へ顔を出して顛末を話したら、いつのまにか失踪、という騒ぎになっていたのだ。

 ああ、終わらせたんだ。昨日は、ほんとに僕とセックスしたかったんだな。最後の日と、きっと、もう決めていたんだな。

 花恋ちゃん、自分の死期を決めていたんだな。そこに向けて生きてたんだ。僕のようにいきなり前触れなく死にたくなるような、そんなあやふやな衝動じゃなくてささやきのよなやさしい声じゃなくて、もっともっと痛くて悲鳴をあげて逃げ出したくなるよなキリキリとした断固たる声に追い詰められて、決められた日に決められたやり方で自分を殺してしまうよりほかになかったんだな。



 誰に何を話したか、覚えていない。たくさんの人に同じことを何度もねほりはほり尋ねられて、その都度感情の入らない答えを吐き出した。

 気づけばもう夜になっていて、父と母が真宵を自宅に連れ帰ろうとしていた。それに抗って真宵は道場に残った。

 そして真宵はメモ帳を見つけた。二、三日前に真宵が着ていたジャケットのポケットに、入っていたメモ帳。真宵のではない。

 それは、西木野花恋が使っているメモ帳だった。なんとかいうアニメのキャラクターの絵がはいったメモ帳。ただ、新しいもので何も書きつけられていなかった。

 花恋ちゃん、なんでこれをわざわざ僕のポケットに入れたのかな、と思いながら真宵はパラパラとめくって白紙を確認した。最後の何ページかに、それは書かれていた。西木野花恋の、丁寧な文字で、サインペンで黒々と。


 アナタがワタシを愛している

そのコトをココロから信じています ダカラ

ワタシのココロもカラダもきっと同じだけ

愛しそして大切に思ってくれているでしょう

ダカラ コソ

 その愛するヒトのカラダを

こうして痛めつけ苦しませ助けも求めず

タダ棄ておこうというワタシが憎いでしょう

 それでもアナタにこそ見ていてほしい

湯気をあげ匂いたつ赤い血の吹き出すその様を

そのすぐ目の前で眺めていてほしい

 アナタの愛するワタシが

みずからの血の池の中でもがき苦しみ

命が消失していくそのさまを

 その 生きてすらいないモノ

えたいの知れないナニかの手で死んでゆく

その一部始終をのがすことなく

 鋭いよく研ぎだされた輝くヤイバではなく

ところどころ欠けてさえいるなまくらな

斧のようにチカラまかせにブツ切るような

そんな刃物で今

 ふたつに三つに四つにぶち割られて

引きちぎり引きずり出し踏みつぶされ

おびただしい血液が

もはや液体ではなくドロリと固まりかけた

ぬるぬるとした生温かな匂いたつ

暗く沈んだ紅色のものとして拡がり

四方へ流れはね散ってゆくなかで

 命乞いの間も与えられず

ただ苦しみもがき

耐えられぬ痛みに叫ぶ声さえ奪われ

震えることも握りしめることも

食いしばることもできぬまま今

消失していこうという命を

 かつてアナタの愛した

その名を呼んだイトシイひとのココロと

それを宿していたカラダがいま

ただのグロテスクな潰れた肉たちと

鈍い紅色の液体や塊になってゆく

そのさまを

 アナタに

ただ何もできぬまま眺めていてほしい

 うらみや憎しみや絶望ではなく

たんに終りをむかえるにあたって

続けていくコトをやめるだけで

わけなんてなくて

ただの土くれとなり消えていくコトを

よろこびで選んだワタシをただ

アナタに見ていてほしい

 溶けていく血のなかでさらに

カタチの残る塊をちぎり押しつぶし

それがかつて

生きていたことをも信じられぬくらい

その者は奪っていくだろう

 ワタシを

アナタに愛されたよろこびと

手にしたものは失われるそんな不安を知った

片隅のワタシを

生きることをやめて消えてゆくワタシを

 そしてアナタは

ワタシがいたことを心に宿したまま

これからを生きて続けてゆくのです

目の前の光景を宿したまま

新しい朝を続けてゆくのです

                     K.NからM.Sへ ×××



 あけて新しい朝、日の出をむかえてすぐに、崖下から西木野花恋の遺体が見つかった、と連絡を受けた。

 新しい朝を迎えることなく、彼女は真宵をおいてたったひとりでいった。

 それが、白波瀬真宵に新しい魔法をかけてしまうことなのだと、はたして彼女は気づいていてそう仕向けたのだろうか。

 いやもちろん、そう仕向けて魔法をかけていったのだ、メモ帳の散文詩という魔法を、読み返すたび新たな呪文となって白波瀬真宵を絡めとってゆく魔法を。

 そうなのだ、これから先何があろうといかに辛かろうと、あとを追わずに新しい朝を迎え続けろ、という呪いを。

 西木野花恋は「木の香」アカウントに「あたしはもう行くけど、ひとりでもさみしくないよ」と言葉を残していた。

 添えられていた画像は、真宵とつないだ指先、恋人つなぎの部分を切りだした画像だった。


                終



 

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