織笠志桜里と
藤椿まよね
ある晴れた朝にゴミ出しのために外に出た時だった。ごみ置き場にはゴミ袋をあさっている女性がいた。なんとなく雰囲気で同じアパートににお住いの女性、と判断して、無言でゴミを置くわけにもいかんだろうと声をかけた。
「おはようございます」
女性は大げさに感じるほど驚いてしりもちをつき、手にしていたゴミ袋をひっくり返した。「あれれ」何か後ろめたい事でもしていたのだろうか。生ごみにティシューなんかの生活ゴミが散らばる。
よく見れば、彼女はごく薄手のゴム手袋をしている。脇に、栄養ドリンクの瓶が二本、並べてあった。
燃えるゴミの袋に混入していた瓶を取り除いていたのか。ゴミ当番ということだろう。
赤面しきりの女性に手を貸して立たせ、そしてふたりは見つめ合って固まった。目が大きいひとだ。ん?誰かに似てる?ていうかこの、女性と見つめ合うこの感じ・・・。
「さかえりぜ、くん?」
突然名前を言われて理世は驚いて彼女をまじまじと見つめなおす。目が大きい。南方系?この感じ。・あれ?「しおりさん?おりがさしおりさん?」
織笠志桜里は、ぼく榊枝理世の初恋の人だ。僕が十二歳織笠志桜里が二十歳の頃だけれど。よくある、教育実習にやってきた大学生に惚れちゃう小学生男子。
ところが、縁は異なもので、理世が中学三年生の時、新卒で赴任してきたのだ、新米教師、クラス副担任、織笠志桜里。
これにもう一度ひとめぼれした。私学の中高一貫校だったから、この学校には小学校の同級生はひとりもいなくて、学校の中でただひとり、榊枝理世だけが織笠志桜里を知っていた。
十五歳中三の子どもだったけれど、それを言えば織笠志桜里だってまだ二十二歳だった。緊張に引きつるような毎日の中で、織笠志桜里にとって安心できる場所であることを榊枝理世は目指した。ただ、チカラになりたい、という一心だったが彼女にとってすがるには充分な島だったのだ。
秘められた。
まさか織笠志桜里の側に教え子と関係を持つつもりはなかっただろう。だが、榊枝理世は十五歳だ。あわよくば織笠志桜里とセックスするような関係になりたい、そんな願望はあった。確実にあった。それは同級生の間の恋ならば照れて隠しがちなものだけれど、相手が年上の織笠志桜里であれば表に出すことに照れはなかった。
織笠志桜里にしても、年頃の男子中学生の匂うような剥き出しの欲望が教室の半分、と言う中に放り込まれて戸惑いながら、それでも慣れていったのだろう。だからもちろん、榊枝理世のこともあしらっていたのだ。
だが、教員という職が合わないのかこの学校が合わないのかあるいは人間関係が合わないのか、だんだんと織笠志桜里から笑みが失われていく。それに付け込んだわけだが、それをわかってしているわけではなかった。ただ、恋する織笠志桜里が苦しい思いをしている、それを感じ取った榊枝理世の、なんとかチカラになりたいという思いだった。
織笠志桜里だって年頃の女性だ。大学生活で恋もしたろうし、恋人だっていたのだろう。降りかかる火の粉を上手にかわすすべだって会得しただろう。だが、織笠志桜里は余裕をなくし、鎧を身に着けられなくなって、立ちすくんでいた。
実際、織笠志桜里が上席の教員に誘われて困っているところに、さも偶然を装って榊枝理世は現れて、彼女を逃がしたことが再三あったのだ。
いつから、秘められたのだろう。榊枝理世には定かではなかった。ときに理科準備室、ときに体育館の放送室、ときに地域連携準備室、ときにPTAの資料室、ときに郷土資料室。
「サカエリゼくん、手伝ってくれる?」
そのうち、自分の名前を呼ぶ織笠志桜里の、微妙な発音の違いを聞き分けてさえいた。サ、と、リ、に軽くアクセントがあるのが普段の織笠志桜里が「榊枝理世くん」と呼ぶときの発音だが、気持ちがつぶれかかった彼女がSOSを出している時には、もっと平たく「サカエリゼくん」、だった。
部屋に入って、織笠志桜里が鍵をかける。背中から、榊枝理世は彼女を抱きしめた。立ったまま、あるいは床に座って、ある日は椅子に座った彼女を。
自分の胸に回った榊枝理世の腕の袖をつまんで、織笠志桜里は涙をこらえて小さな声で泣いた。
何が苦しいの。どうすれば助けられるの。そんなことは一切訊ねなかった。それができるのならともかく、十六の少年にできるとは思っていなかったから。ただ、ふさぐ織笠志桜里を抱きしめながら、榊枝理世は小学生の時、教育実習にきた織笠志桜里の思い出を、自分がどんなに好きだったかを、実習が終わってどれだけ喪失感に苦しんだかを、この学校にやってきた織笠志桜里を見たときの驚きと喜びを話し続けた。
いま、織笠志桜里を抱きしめてどんなにうれしいか、毎朝毎朝、ただ織笠志桜里を見かけるだけでどんなに心が飛び跳ねるか。恋をしている少年は、自分はいま、猛烈にあなたを恋してますよ、それだけを切々と語り続けたのだ。
ほかに何ができただろう。
あるときキスをしてくれた。腕の中で振り返るように首を伸ばし、その腕が榊枝理世の顔を捕まえて、キスをしてくれた。
天にも昇る気持ち、だった。だが同時に、織笠志桜里は硬く勃起している榊枝理世の陰茎に手をやって、「ありがとう、サカエリゼくん、けどこれには応えてあげられない。わかって」そうくぎを刺した。
胸に触れようとした榊枝理世の手をピシッと打ち払い、「それを求めるなら二度と君には頼らない」かすれた悲鳴のように織笠志桜里は声を振り絞った。それに素直に従う以外の選択肢は榊枝理世にはなかった。
結局、高等部に進学しても、榊枝理世と織笠志桜里のあいだに肉体関係はできなかった。榊枝理世は高校二年の時、彼女が出来て、高3の夏休みにそのコとセックスした。織笠志桜里に隠すことはできそうもなかったから、訊かれればすべて話した。カノジョと関係を持ったことも。
「先生が、リゼくんに応えてあげられなくてごめんね。うれしいよ、君がそうやって健康な交際をしてくれて」
それでも、ときに榊枝理世は求められるまま織笠志桜里を抱きしめたし、問わず語りに話をしたし、それにキスをもって返してくれた。
今までだって慎重に秘めていたのだが、榊枝理世のカノジョに悟られぬように、と、さらに秘す努力をすることがふたりには快感だった。
卒業の時、榊枝理世には付き合っている彼女はいなかった。一方で織笠志桜里は普通の会社員と半年ほど交際をしていた。
そうしてふたりは、もう会わない、とお別れを約束して卒業したのだった。
あれから四年。榊枝理世は大学を卒業してこの町の小さなシステム管理事務所に勤め始めた。
まさか、また再び、会うとは。いや、会えるとは。
「元気そうだわ、リゼくん、お化粧してなくて恥ずかしいな」手のひらをかざして榊枝理世の視線をさえぎる。それからはっとしたように、手のひらを上にして小さな腕時計を見て、「リゼくん、会社遅れちゃう、わたし今、休職中だから暇なの。305よ、会社終わったら来て」
そう言ってゴミの袋を受け取ると、織笠志桜里は榊枝理世の背中をポンとたたいてアパートへ戻す。「待ってるわ、サカエリゼくん」
そのアクセントは、平坦だった。
会社が引けると、自宅に戻る前にとにかく織笠志桜里を訪ねた。
「あら、早かったわね、待ってた」
ドアを開けた織笠志桜里を見つめた。今度は化粧をしている。記憶の中の彼女とたがわない姿に感じる。ニッと笑みを見せた織笠志桜里に瞬時にして学生時代の恋心がよみがえる。あの頃、どんなにかこの人を欲しかったことか。
「何ぼんやりしているの、はいって」手を引かれて部屋に上がり込む。
榊枝理世の部屋と同じ八畳のワンルーム。あの頃は、織笠志桜里の家を訪ねていく事を夢想して、その先の展開を妄想して、悶々としてたっけ。
あれ、という声が漏れてしまうほど殺風景な部屋だった。女性らしい住まい方がどんなか説明しろ、と言われても困るけれど、少なくともカーテンだのカーペットだのや、家具なんかに女性らしさは多少は出るものではないのか。大学時代に付き合った女性の部屋はそうだった。
「そこ、座って」小さなテーブルの前に腰を下ろす理世。
女性っぽさがない、と言うよりも何か違和感を感じる。ミニマリストなんだろうか、まず、モノが少ない。
「志桜里さん、ここに住んでどれくらいなんですか?」織笠志桜里が声をあげて笑った。「第一声がそれ?へんな子」
トレイのお茶のセットを降ろして理世の正面に腰を下ろす。その湯飲みだってそこらのスーパーかホームセンターで適当に買ってきたみたいな代物だ。来客用の気どりすらない。
未だに開梱していない段ボール箱がふたつみっつある理世の部屋と変わらないそっけなさ。希薄な生活感。
「まだ、一年にならないわ。離婚協議中なの、あたし」その笑みに宿るさみしい感じはだからなのか。ただ、理世の記憶の中の織笠志桜里は、いつでも苦しげで寂し気な新任教師なのだ。
「お元気そうで何よりです」理世の言葉に織笠志桜里が噴き出すように笑った。「おっかしい、サカエリゼくん、ヘン」
その平坦なアクセントに、朝も平坦だったアクセントに、理世の心がきゅーっと震えながら小さくなる。同時に四、五年の空白が抜け落ちる。織笠志桜里に、あの頃と同じ希求感を感じて見つめる。
その理世のまなざしに呼応するかのように織笠志桜里が立ち上がる。すぐに理世のカラダも立ち上がって、飛び込んできた志桜里のカラダを受けとめる。
理世の腕の中で向きを変えて背中から抱かれる志桜里。織笠志桜里が発する髪の、シャンプーの香り、シャワーソープの香り。仕事帰りの理世の汗のにおい、理世の腕の、手の甲にてのひらを重ね合わせてすがりつく志桜里の震えが、理世の体も震わせている。
あごを志桜里の首筋につけて、その耳に頬にキスするようにして志桜里のにおいを探す理世。振り返るようにしてうつむいて、理世の脇に鼻を向けて理世の体臭を吸い込んでいる志桜里。
伏せられた顔が持ち上がると志桜里の手は理世の頬を迎えにゆき、あの頃と寸分たがわぬキス。
吐息。
「あ、ごめんね。時間が、戻っちゃった、わたしは、サカエリゼくんのこの抱き方とこの匂いでしか、安心できないみたいだ。あ、なんだか、とってもほどけてく、ああ、そうかぁ、今までこんなに固まってたなんて、気づいてなかった、わぁ、ほどけてく、気持ちいい」織笠志桜里の足の力が徐々に抜けてきて、理世が抱き留めている。
「なんだか、志桜里さんの匂いを嗅いでたら、やばいよ」「まぁ、高校生じゃないんだから」笑いながら理世を床に引きずりおろす志桜里。向き合う形でキスを交わしながら理世のシャツのボタンを外し始める。
「初恋のオンナを、いっくらスッピンだからって見分けらんなかったくせに。すっかり忘れてたくせに。あたしは、忘れてなかった。だから、十年越しの大願成就だね」とまどったままの理世のシャツを脱がせて薄い胸毛を見つけるとなでるように触れ、そしてくちびるをつける志桜里。
「あ、ごめんつっぱしっちゃった、いい?しても」
見つめ合う。たくさんの言葉が、織笠志桜里を抱きしめては掛けつづけてきたたくさんの言葉がよみがえり、新たな言葉があふれるように理世から湧き上がってくちびるを取り合って、結局どの言葉も音にならない。
「多分君が私としたいと思ってたのと同じくらい、私だってサカエリゼくんと、し、た、かっ、っった、あ、の、こ、ろ」音に合わせてまくり上げるようにワンピースを脱ぎ捨てる。
「ごめんね、こんなおばさんになってからで」
理世の動きがとまったままなのに気づいて、ん?という表情をする志桜里。「やなの?」
「そうじゃあなくって、だって、まだ、人妻でしょう?」また、噴き出すように志桜里は笑った。「離婚が、不利にならないかなって」指先で理世のカラダを撫でまわす。
「人妻ってとこに、グッとくる?」理世も笑った。「結局、惚れてないのに結婚してしまって、セックスも合わなかったの」聞いてることに答えてないじゃん、と理世は黙っている。
「この協議中、つらくて何回もきみを思い出してたよ。サカエリゼがいてくれれば、きっと肩を抱いてくれただろうにって。それにしても、三度目の偶然?出来すぎまぐれ当たりだ、運命かしら織笠志桜里と榊枝理世。だからしたいのきみと、あたしのサカエリゼと。離婚が不利になっても」
そこまで言われれば、理世も応じる以外ない。織笠志桜里の首に手を回して引き寄せて、キスをすると、そのまま織笠志桜里が理世を床に引きずりおろす。まったく躊躇なく初めてだというのになれ合った仲のように、ふたりはつながった。
「信じらんない。くたばっちまえお前なんか」
長距離恋愛になってしまうがそれでいいのか?うん、がんばる。さみしいけど頑張る。名古屋へ移ってくるときにそう言って約束を交わした女性には、初恋の人と再会して、恋仲になった、と話して別れた。
それが榊枝理世の真実、と思ったからだ。
だがもちろん、相手にしてみれば青天の霹靂、信じがたい裏切りだ。そして、ぱぁん、とホテルのフロアにいたすべての人が振り返って注視するほどのいい音と見事なフォロースルーでもって頬を平手打ちされた。新幹線で名古屋に帰る途中、人がみな振り返るのでそんなに赤いのだろうかとトイレの鏡に映してみれば、ひりひりする頬にはまるでマンガか何かのように赤い手形がついていた。
その頬のまま、織笠志桜里に付き合っていた女性と別れてきたことを報告にゆくと、受けまくって大笑いした志桜里はこれまた漫画か何かのように床を転げまわる始末だ。
泣きたくなってへたり込む理世。すると今日は志桜里が後ろから理世を抱いてくれた。「別れなくてもよかったのに。でも、そいいう義理堅いサカエリゼくんがたまらなく好きだよ」
初恋のひと織笠志桜里とお付き合いできることは無条件にうれしい。とはいえイマカノと別れてダメージがないかといえば、そこまで無神経ではない。気持ちが沈んでいく理世を、追うことなくただ抱きしめている織笠志桜里のぬくもり。
「その、離婚調停中、だからお仕事、休んでるんですか?」
理世は特に意味もなく訊ねた。だが、織笠志桜里にとってはどこかがセンシティブな話題だったようだ。動きを止め、そしてため息をついた。
「サカエリゼを卒業で失ってから、織笠志桜里は鬱になったんです。先生になってから五年もの間、あたしただサカエリゼに頼り切って心の平安を保ってきたのにいなくなると、メーター振り切れちゃうから」
織笠志桜里はまるで熱のある子どもにするように、理世の額に手を当てる。「お熱が出て、起きられなくなっちゃって、退職して結婚しました。逃げたの。学校で子どもたち、子どもたちと向き合う力がなくて」
理世は笑って、からかうように軽さを言葉に込めた。「じゃ、サカエリゼを手に入れた織笠志桜里は、また学校に戻れるかな?」
額に当てていた手もそのまま、強い力で志桜里が理世を、理世の頭を抱きしめる。締める、という感じの強いチカラに思わず「痛い」ともらす理世を無視してきつくきつく抱きしめ続けている志桜里。理世はここでようやく志桜里のつらさに触れた気がした。志桜里の手に手を重ねて、黙って待ち続けた。
チコチコと小さくリズムをとる時計の音に呼吸を数えて待つ、その一周がいかほどのものか、ようやく志桜里の力が緩むと、志桜里を自分の膝の上に引きずり下ろす。そして充血している志桜里の目に、くちびるを寄せようとして、志桜里が笑いだした。
「ごごめんん、ひたい、にも手形、あたしの手形」笑って言葉が出ない。鏡を見るまでもなく、理世にはわかった。「いいいろおとこ、サカエリゼ、ふたりのオンナに手の跡つけさせて、モテますなぁ」
アクセントが、サ、と、リ、にあった。
復職はかんたんにはいかなかった。小学校中学校、ともに教員の空きがない。公立校だけではない。もともと志桜里が勤めていた私立でもそうなのだ。現実の厳しさに打ちのめされて帰ってくる志桜里は、ただただ、榊枝理世が帰宅するのを待つ。理世は帰宅するとまっすぐ志桜里の部屋へ寄って志桜里を抱きしめる。
何か話すわけではない。今日の出来事など、他愛のない話題をとりとめなく話しながら十分、二十分もだきしめていると、いいかげんくたびれたころに志桜里が復活してくる。
「何が起きてるの、このとき、志桜里さんのなかで」理世が尋ねると、小首をかしげる志桜里。「わかんないよ。けど、ね、ほどけてくの。きみに、サカエリゼ、君の何かの力にあたし、ゆっくりほどけてくの。そうするとさ、ダイジョブになる。ふふ、よくわかんない」「ぜんぜんわかんねー」振り返ってキスをして、志桜里は小さく吐息をもらす。
「榊枝理世、これなしには生活できんなぁ。なっさけない、志桜里」自嘲の笑いも小さくもらして、理世の手のひらをひっかく。「おなかすいたよ、サカエリゼ、何食べようか」
無事に離婚が成立して、晴れて織笠志桜里に戻った。それがよほどうれしかったのか、その日理世が帰ると、志桜里は自身の姓名を揮毫していた。
「おめでとう、それじゃあ、悪いけど今度は榊枝志桜里って書いてくれますか」「やあだ、結婚しなくちゃでしょ」「じゃ、しましょう、ぼくと。榊枝志桜里になってください」
手をとめて、志桜里が振り返る。「いま、なんて言った」「一緒になりましょう、榊枝志桜里になってください」
じっと理世を見つめて、そしてひとこと言った。「まじ?」
「まじめですよ」
織笠志桜里がぶわっと顔を赤く染めた。「おばさんバツイチだよ、からかっちゃやだよ」そう言いながら、志桜里は新しい半紙をひろげて筆に墨をつけた。
「サカエリゼくん、きみには年増バツイチと一緒になるメリット、無いでしょう、どうなの」理世は志桜里の胸に触れた。「無料セックスパートナー」榊枝の榊を書きはじめる。「そんなん、今だってさせてんじゃん、つーか、あたしがしてもらってる、かもだし、いや、いくらでもさせっけどさ、ちゃんと復職出来たら、そりゃやっぱりその、家事だって手抜きになっちゃうしさ」
「はい」
仕上がった書を持ち上げる織笠志桜里。
榊枝志桜里。織笠理世。
「いいじゃないですか。おりがさりぜ。違和感なし、字の感じもああ、これもアリだなぁ、織笠、いい苗字と思ってたんだ」
「ほんとに、どっちの姓を名乗るかも、話し合ってくれる?」
「もちろん、いいですよ、おりがさりぜかあ、考えもしなかったなぁ」
半紙を横に置くと、志桜里は正座して、三つ指をついた。「織笠志桜里をよろしくお願いいたします、このオンナ、サカエリゼ依存症なもので、大変と思いますが」ぽたぽたと音がして、フローリングに涙が落ちた。
慌てて理世も正座して応じた。「こちらこそよろしくお願いいたします」「はい、こちらこそ」
織笠志桜里が顔をあげて榊枝理世をまっすぐ見つめる。その瞳には何かが宿ったような怪しい光がある。
「プロポーズは、さっきのじゃあ、駄目。しかるべき場所でちゃんとプロポーズ、して欲しいの」今さっき、こちらこそって、オーケー出したやんけワレ、と思いながら理世はうなづく。「はい、いいですよ。なんどでも志桜里さんが気のすむまでプロポーズするよ」
織笠志桜里の望みは、ふたりが出会った小学校のあの教室で、だった。ところが、訊ねてみれば廃校になっていた。校舎は地域の生涯学習施設として利用されていたので、中へ入ることが出来た。
理世には黒板といい窓の外の案外変わらない風景といい、懐かしい教室だが織笠志桜里には違うようだった。
「あれ?ってカンジ。大学三年のすごく熱かった頃なのに、二週間以上ここへ通ったのに」ほとんど記憶にとどめていないのだという。
「じゃ、榊枝理世との出会いだって、覚えてないんじゃないの?」そうからかわれて頬を膨らませる志桜里。「きみが、あの、年端もゆかぬ少年のきみが、実習生の織笠志桜里に恋をして少女マンガみたいにアタックしてくる。そのときあたしは、ちゃんと教師になることを決心したんだ。男子児童に惚れられちゃうなんて、女のコしててジョシ抜けてねーからだ、そんなの教師としちゃダメダメちゃんだ、少年の淡い恋心なんぞひとにらみで一蹴できるよな、強い教師になろうって」
ため息をつく志桜里につられて理世もため息をつく。「遠いねえ、志桜里さん。おまけに教え子に手、つけちゃうし」また頬を膨らませて抗議する志桜里。
「だから、君が卒業した時には、あとを追わなかったでしょ、そこ、評価してよ」「で、好きでもない男と結婚した、と」「ケンカ売ってる?」
志桜里を無視して、理世は黒板にチョークで何やら書きはじめる。
「榊枝理世は、かつての教育実習生の先生、織笠志桜里と結婚します。つら見てーというやつはリツイートしてくれ」書き終わると画像をツイッターとインスタにあげた。
「そんなの、誰が見るの、だいいち、何人に見てもらえるの、あの頃のクラスの子に」「最低三人は」
笑う志桜里の手を取って、理世は言う。「結婚してください。そして、教え子たちに囲まれるってのは、割にいいアイデア、思いません?」
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