リップを塗り直したら、パンプスを捨てる決心がついた
いつもスムーズに通り抜けられる改札は人でごった返していた。ただならぬ雰囲気にノイズキャンセリングをONにしたイヤフォンを思わず耳から外し、駅構内の放送や駅員と他の乗客が話す内容を一文字ずつ慌てて拾って繋ぎ合わせてみる。人身事故で運転見合わせ。運転再開の見通しは立たない。振替輸送をご利用ください。遠回りしてオフィスへ向かおうか迷ったけれど、今日オフィスで急いでやらなければならない仕事もないわけだし駅を出て近くのカフェへ滑り込んだ。きっと出社前の時間は朝活をするビジネスパーソンで混んでいるのだろうけれど、10:30を過ぎたカフェは人がまばらだった。
ここへ来るのは久しぶりだ。二年前、この近くに住んでいたときはよく君と待ち合わせしたっけ。君が待ち合わせにちゃんと来たことは数えるほどしかなくて、ハニーミルクラテ、夏はいつも氷が溶けて薄くなり、冬はあっという間に冷めた。それすらも好きだった。君はいつだってぬるいハニーミルクラテの味だった。
Macを開き、目と手は仕事を捌きながら嗅覚と脳はしきりにそんな二年前の君の思い出に浸っていた。来れないなら連絡してよ。急に呼び出さないでよ。自分から誘ったくせに。あのとき言えなかった文句は未だに私の喉の奥に引っかかって取れない。すると本当に、妙に喉がイガイガしてきて注文したばかりのハニーミルクラテを一気に3口飲んだ。冷たい。この感覚は初めてで、改めて君が消えた世界にいるのだと悟った。
仕事に取り掛かり始めたばかりだけれど、こんな日だから仕事が終わったら何をしようか考えることに決めた。昨日も行ったけど今日もジョーマローンに寄ってから帰ろう。イングリッシュペア&フリージアのフレグランスキャンドルを買うの。そして家に帰ったら部屋の電気を消して、キャンドルに火を灯し、大好きな香りの中で桃とバニラアイスを一緒に食べながらネットフリックスを観る。そうやって自分の心に接すること。効かない鎮痛剤は飲まない。ワインを飲んでそのままソファで眠る。そしてきっと明日はいつもより早く目が覚める木曜日。
気づくとカフェは混雑していて、とっくにランチタイムになっていたことに気づいた。そろそろ電車も動きそうだしオフィスへ向かおうとPCをバッグにしまってリップを塗り直す。ふと足元に視線を落としパイソン柄のパンプスをじっと見た。君と初めてホテルに行ったときに履いてたパンプス。こないだヒール修理したばっかりだけど、もう捨てるね。
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