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階上から漂うのは人の気配、桃の香り、まだ終わらない梅雨


「雨、激しくなってきたね」

待ち合わせ二時間前に来たこんなメッセージに言葉以上の深い意味は本当にないのだろうけど、リスケしてって遠回しに言ってるのかな?とか深読みしすぎてしまうくらいには私達の距離は遠くて浅い。年末の伊勢丹の地下でもないと腕を掴んでくっつくこともできない臆病な私はDiorの限定のリップをつけて武装しないと君に会えない。トーキョーピンク。見た目は鮮やかで濃いネオンのようなピンクに星の粉のようなラメがぎっしり詰まっているのに、口唇につけると自然に馴染み、こなれた印象になれるそのリップはまさに東京を愛し東京に住み慣れた、初夏の梅雨明けを切に願う女にぴったりのリップだと思った。やたらリップを褒めてくれる君の下心はうれしい。私がやたら君の首筋を見てしまうのは内緒。

無気力な週末、連絡の来ない週末。一人には広く感じるダブルベッド、ホテルみたいなベッド、冷たく清潔なシーツの上の静かな週末。階上から聞こえる話し声に耳を澄ませるのは遠くで流れるラジオを聞いてるのに似てる。ベッドルームにしか効いてない冷房。ひんやりしてる二の腕。瞼に浮かぶのは君の手の温度。するりするりと掴めそうで掴めない、触われるのに掴めないその手を追いかけて辿り着いたのはいつだって土砂降りの新宿三丁目だった。

一つ一つの関係性に特別な名前と季節を与えたい。私と君の関係を象徴する名前はそう、「初夏の距離」。くっついたり離れたり、永遠に隣のままだったりするけれど、物理的には離れたのに今までよりもずっと君に近づいてると思える。梅雨が明けたら。初夏になったら。夏の匂いがしたら。夕立が通り過ぎたら。アスファルトが触れないほど熱くなったら。立ち止まって存在している触れられない君に私から一歩近づきたいと思っている、梅雨。

怠惰で意志薄弱な大学生だった初夏を思い出しながら桃の皮を剥く。駅のホームのジュース屋さんでバイトしてたおかげでたいていの果物は器用に手早く剥けるけれど、少し熟しすぎたそれは皮を剝こうとするたびに果肉に指が食い込み果汁が手の隙間に滴る。甘酸っぱい香りがキッチンに広がるが、壊れやすく柔らかで、すぐに形を変えてしまうその物体が手に収まる光景に「また雨だね」と残念そうな君の声が耳の奥で鳴り、改札で別れるとき私のキスを避けた横顔が目の奥に浮かび、目と耳の奥の方がツンとなった。君と私のために用意したピンクは色を失い雨と一緒に流れて消えた。



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