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運動否定論3 飛ぶ矢は飛ばぬ ―公孫竜の場合―

運動が物体の継起的位置変化を意味するならば、公孫竜は矢の瞬時的位置変化を示唆することによって運動を否定した。物体が漸次移動するのならば、運動していると言える。しかし物体が瞬時にその位置を変えるならば、換言すれば、物体の位置変化が離散的であるならば、定義からしても実際問題としても、物体は運動しているとは言えないだろう。それはもはやワープであって運動ではない。

では、どうして物体の瞬時的位置変化なんぞが可能なのだろうが。名家によれば、瞬時的位置変化が可能であるのは、まずは論理的には有限から無限への移行が可能だからであり(鄧析(とうせき)の移行の論理)、そして無限の立場からは空間の存在と場所の差異とが否定されるからである(恵施(けいし)の万物斉同説)。

具体的に考えてみよう。のび太が自宅から駅まで両足を動かして歩いていくとすれば、のび太は運動したことになる。これは物体の継起的位置変化である。ところが、仮にのび太が駅までどこでもドアを使って瞬間移動したとすれば、もはや運動とは言えない。これは物体の瞬時的位置変化であり、いわばワープであって、定義上、運動ではあり得ないのである。物体が空間を継起的位置変化してこそ運動と呼べるのであって、空間をまったく使用しない瞬時的位置変化では、もはや運動は存在する余地がどこにもないのである。もし空間が存在しなければ距離も存在せず、もし距離が存在しなければ物体の継起的位置変化も存在せず、従って運動もあり得ないのである。

鄧析(とうせき)の移行の論理とは、有限と無限の間の移行が可能であるということであり、恵施(けいし)の万物斉同説とは、無限の彼方から見ればすべて同じ場所に重なって見える、ということである。上空から見れば東京と北海道は目と鼻の先であり、月から見れば瞳孔と眉毛の先であり、無限の彼方からすれば東京と北海道はピタリ重なっていて一体なのである。つまり、無限よりすればすべての場所の間の距離は消失するのである。

かくして鄧析は無限を発見し、その後継者たる恵施は無限の視点から空間の存在を否定し、その恵施の後を継ぐ公孫竜においては運動すらも否定されることになるのだ。

では、公孫竜の運動否定論を検討しよう。『荘子』天下篇には、次の三命題がある(『公孫竜子』天野静雄、102頁)。

飛鳥の景(かげ)は未だ嘗て動かず。
鏃(ぞく)矢(し)の疾きも、行かざるの時あり。
輪は地を踏まず。

第一の命題について。鳥がどこに飛ぶとしても、距離がないので鳥は運動することはなく、運動しないのだからその影が漸次移りゆくこともない。(なお、『列子』仲尼篇には「影は移らず」という名家の命題が紹介されている。同一命題であろう)

第二の命題について。高速で飛ぶ矢も距離がなければ運動しないので、進まないことになり、「行かざるの時あり」となる。(なお、実際の命題は「鏃矢の疾きも、行かず止まらざるの時あり」であるが、これは誤記であろう)

第三の命題について。これは車が地上をあまりに速く走り、長距離を一瞬で移動するので、車輪が地上を踏む暇もないことを示す。空間も距離もないからである。(なお、『列子』説符篇の伯楽説話ならびに『荘子』徐無鬼篇冒頭の説話を参照されたし)

さらに、公孫竜には次のような話をしたと伝えられている(『列子』仲尼篇)。ある弓の名人が、ある日妻を叱って脅そうとして、妻の目を狙って矢を放つと、矢はあまりに速く瞳に至ったので妻は瞼を閉じる暇もなく、また矢は地に落ちたが塵も揚がらなかった、と。すなわち、名人の矢はあまりに高速であるので、瞳への到達もそこからの落下も瞬時であり、瞼を閉ざす暇も塵の揚がる暇もなかったのである。なぜかくも高速であるかといえば、無限からすれば空間も距離もないので、矢は瞬間移動するからである(厳密には、「高速」と言わずに「瞬時」と言うべきであろう)。

ゼノンは空間の無限分割によって運動を否定したのに対して、公孫竜は空間の存在を否定することによって運動なんぞあり得ないと考えたのである。

https://epochemagazine.org/musings-the-negation-of-motion-3e544c545153


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