「ジャンプ・ガールズ」第1話
川岸に咲く満開の桜を横目に、もうすぐ13歳になる私は暗惨たる気持ちでとぼとぼと豊洲橋を渡っていた。
おろしたての紺のセーラー服。手にまだ馴染んでいないクラリーノの学生鞄。
どうせ、中学でだって、ひどくいじめられるに違いない。
自宅のある豊洲から中学校のある越中島へと向かう間、ずっと、そんなことを考えていた。ため息をつくと、桜の花びらがあざ笑うかのように美しく舞い、豊洲運河の黒い水面に、はらはら落ちる。
進学先は、通っていた花平(かへい)小学校のすぐ隣にある佃島(つくだじま)第五中等学校、通称、五中だった。
小学生の頃、無視や暴力に耐えかねて、校舎の裏へと逃げ込むと、通路のように狭い裏庭とも呼べない年中日陰のそこから、五中の校庭がフェンスを隔ててよく見えた。暗く、じめじめとしたこちら側とは対照的に、五中の校庭は明るく、たくさんの中学生がスポーツを楽しんでいた。
学校同士の距離が近く、学力レベルも平均よりやや上の五中には、同じ花平小学校出身のいじめっ子達が、確実に進学しているであろうことを示していて、それも憂鬱の原因の一つだった。
また、耐える日々がはじまるのか。
いや、今回はそうはならないように、やるだけのことはやらないと。
勝算は0に近いだろうが、自分の身を守るために、足掻かなくてはならない。そのためには最初が肝心だと気を引き締めた。灰色のコンクリート・ロードをなでるようにピンクの花びらが地面すれすれを通り過ぎていった。
その日は最初の授業の日。慣れない同士が四十人近く、「三組」の冠がつく教室に出席番号順に着席した。同じ小学校から来た同士を除いては、互いにどんな人間かは今のところ全くわからない。皆、少なからず緊張している様子だ。
私はというと、同じ花平小の面子は周りにちらほら見受けられるものの、幸運にも、いじめっ子のリーダー格やその取り巻きクラスの厄介な面子がいないことに、胸をなでおろしていた。
授業前にはホームルームがある。初めてなので長めに時間をとると、担任は告げた。
「まずは、自己紹介からはじめるか」
私が所属する一年三組の担任は一宮、という苗字の社会教師だった。眼鏡をかけているが肌は浅黒く、社会教師というより体育教師といったほうがしっくりくる印象だ。
「出席番号順にやるぞ。5分やるから、言うことを考えろよ」
自己紹介。私はその言葉を心の中で反芻(はんすう)した。思ったとおりの展開だ。だが、うまくいくかどうか。
のるかそるかは分からないが、ファースト・インプレッションに賭けるのは、今の私に出来る一番の方法に思えた。
綾瀬成美です。趣味は音楽を聴くことです。よろしくお願いします。
内海竜司です。中学ではサッカー部に入りたいです。よろしくお願いします。
みんな簡単に、二、三言で自己紹介をしていく。自分の順番が来るのを私は手に汗を握りながら待った。早く来て欲しいような、ずっと来て欲しくないような、複雑な心境。心臓の鼓動が早まり、喉は握りしめられたように息苦しくなる。
――もう、決めたことだ。やるしかない。
改めて決心した私の順番がやってきた。前に立って、という一宮の言葉に促(うなが)され、私は黒板の前に出る。手の中の紙を広げると、どよめきが起こった。みんな原稿なんて用意せずに自己紹介をしていたから、当然と言えば当然だ。
「花平(かへい)小学校出身の菊坂千尋です。ご存知の方もいるかと思いますが、私は、いじめられっ子でした」
どよめきが大きくなる。教師の一宮が眉をひそめた。でも、止めることはしない。様子を伺うつもりなのだろう。私は続けた。
「最初に皆様に言っておきたいのは、私は皆様と仲良くするつもりなんて、さらさらないということです。その代わりに、嫌なことをしたり、害になることをしたりするつもりも、全然ありません。だから、どうか私に近づかないでください」
みんな、あんぐりと口をあけ、信じられない、といった風に私を見つめていた。一宮が苦行僧みたいな表情を浮かべ目を閉じた。
「窮鼠(きゅうそ)猫を噛む、という言葉を知っていますか。追い詰められた鼠が猫に噛みつくように、弱者も逃げられない窮地に追い込まれれば強者に必死の反撃をして苦しめる、という意味です。力がない私でも、なりふり構わず噛み付くぐらいのことは出来ます。自分の血の色が赤だということを今更確かめたくもないでしょうし、私に噛み付かれた、という理由で、菊坂菌に感染した、と言われる恐れもあります。そんなリスクを犯すメリットは一つもありません。ゆめゆめ、馬鹿な真似はしないことです」
教室は水を打ったように静まりかえった。
一宮が何か言おうとでもいうように唇を開きかけたが、その口を封じるように、私は頭を下げた。
「自己紹介は以上です。ご静聴ありがとうございました」
そのままスタスタと自分の席に戻った。
両隣に座る同級生が私から少しでも身を離したいのか、やや仰(の)け反(ぞ)り気味の体制をとる。
私は指先が震えているのを周囲に悟られないよう、手を机の中にいれて、平然とした顔をつくった。うかつに関わると危ない奴、という印象をより強くするために。
「……自己紹介を続けるぞ」
一宮が言い、私のほうを向いた。
「菊坂。放課後、職員室に来なさい」
はい、と私は答えた。見て見ぬふりをすれば楽なのに、一宮という担任には何とかしようとする気があるらしい。
比較的、まともな教師なのかもしれないな、と私は思う。ま、どうせ、最初だけで、そのうちに匙(さじ)を投げるんだろうけど。小学校のときの担任たちと同じように。
自己紹介はどんどん続いていく。私は全く興味を抱けずに、次々に前に出て行く同級生の姿をしらけた目で眺め続けていた。
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チャイムが鳴って、休み時間がやってきた。 黒い学生鞄を開け、新品の教科書を取り出す。どうせ一番初めの授業なんて自己紹介や雑談で終わるのだろうけれど、いちおう準備をしておく必要はあると思った。
同級生の中には遠巻きに私を見て、ひそひそと何か囁きあっている人間もいる。それでもまだ、いじめが始まりそうな剣呑な雰囲気ではない。どちらかというと私のことを怖がっている。又は気味悪がっている、といった様子だ。
作戦はひとまずうまくいったようだ、と私は心の中でニンマリする。
そのとき、ねぇねぇ、鈴を転がすようなソプラノの声が聞こえた。近くの誰かに話しかけているのだろうが、耳障りだな、と、思っていたら、ふいに肩をたたかれた。びっくりして、叫びそうになったが、何とかこらえる。振り返ると、見知らぬ女子がニコニコと満面の笑みを浮かべて立っていた。
「菊坂さんてば! 呼んでるじゃん!」
そこに立っていたのは、ボブカットヘアの、私より頭一つ分、身長の低い少女だった。 表情は明るく、少し小さな鼻とふっくらとしている唇が甘ったるい印象を与える。そして、何はともあれ――いきなり、ものすごく馴れ馴れしい。
可愛らしい部類に入る子だった。紺のハイソックスを履き、スカートの丈をほんの少し短くしているのが洗練された印象を与える。
「……誰?」
なるべくドスの効いた声になるように、低い声音を使った。
ひどーい、と目の前の女子が大げさに声をあげる。さっき自己紹介したじゃん。
「聞いてなかった」
そう切り返すと、じゃあもう一回、自己紹介するね、と、胸をはる。何のつもりかはよくわからないが、注視しておく必要がある、と判断して、私は彼女を見つめた。
「植東(うえとう)小学校から来た竹内奈緒(たけうちなお)です、趣味は……」
「言わなくていい」
私は無機質な声を作って竹内、という女に告げた。えー、聞いてよー、と甘えた声を出すこの女が気味悪くてしょうがない。
一体、何を企んでいる?
そのとき休み時間の終わりと授業のはじまりを告げるチャイムが鳴り響いた。あーあ、時間がきちゃった、と残念そうな声を竹内はあげたが、最後にパッとこちらを見た。
「菊坂さん! さっきの自己紹介だけど……」
やっぱり、それか。私はぐっと身構えた。鬼が出るか蛇が出るか。小学校時代に言われたありとあらゆる罵詈雑言が頭をよぎる。
だが竹内はそのどれとも違う言葉を発した。
「ものすごく、面白かった!」
……。
……は?
一瞬、何を言われたのか、わからなかった。
面食らう私に彼女はニコニコしながら、
「次の休み時間にも来るからね!」
と、言って席に戻っていった。
なんだ。
なんなんだ。
全く予想外のパターンから攻められて私の頭が混乱する。
だが、そこで頭に閃くものがあった。
そうか、あれか。友達になってやるという餌をちらつかせながら、ネチネチいたぶる、という手か。
実際、その手で責められたことがある。友達になろうね、と言って擦り寄ってきて、友達だからお金を貸して、と、金をせびったり、友達だからいいでしょう、と私の物を盗ろうとしたりする。
しかし、と私は考える。それは仕掛ける側のリスクも大きな手だ。
人間関係がある程度固まり、自分のクラスでの地位も確保して、『あれは、本当は仲良くしているのではなく、いじめの一環で罠にかけているだけなのだ』という認識を周囲が持っていないと当人まで、あおりを食って巻き込まれる可能性が高い。今のこの状況で切るべきカードではない。
私はちらり、と竹内のほうを盗み見た。よっぽど自分の意地悪の手腕に自信があるのか、単に頭が悪いのか、それとも私に思いつかないほどの深い狙いがあるのか。
私の視線に気がついた竹内がにこりと笑って。
教師が、気がつかない程度に、こちらに小さく手をふってくる。
私は慌てて目線を外した。君子危うきに近づかず。相手の狙いがわからない以上、関わらないようにするのが一番良いかもしれない。
自己紹介という名の、数学教師の自己アピールを聞き流しながら、私は出来る限り想像力を働かせて、いろいろな状況を頭のなかで、シュミレーションしていた。
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二時間目が終わると、また竹内奈緒が私の席にやってきた。
「ねぇねぇ、あの自己紹介って全部、自分で考えたの?」
「そうだけど」
「漫画とか、小説とか、そういう物の言葉じゃなくて?」
「……そうだけど」
すごーい、と竹内が歓声をあげる。
何が、すごーい、だ。頭が痛くなる。
「『自分の血の色が赤だという当たり前のことを今更確かめたくもないでしょうし』」
さきほどの私の自己紹介を楽しそうに諳(そら)んずる竹内。改めて聞くと、格好つけすぎた言い回しかもしれない。頬がかぁっと、熱くなった。
「ハードボイルド映画の台詞みたいだった」
すっごく、クールだよ! 竹内が上気した頬で言う。
はぁー……。私はため息をついた。
「あのさ」
なに? という顔の竹内の真後ろを指差す。
「見られてるぜ」
指差した先にいたクラスメイトたちが慌ててひそひそ話をやめて、てんでばらばらに目線を逸らす。
竹内は一旦、後ろを向いたが、すぐに私に向き直り、「だから?」と聞いてきた。
だから? じゃねぇよ。と、思ったが、そこまでは口に出さず、代わりに
「うかつなことすると、あんたまで、同類に思われるぜ」
と、言ってやった。
竹内はきょとん、とした目で私を見た。
まさかとは思うが、こいつ、本当にわかってないで、やっているんじゃないだろうな。他人事ながら、不安になってきた。
「いじめのターゲットにされるってことだ」
そう補足してやると、竹内が驚いたように目を見開いた。
わかった、じゃあもう近づくのは止めとく、とか、あんたをいじめるために接近してんのよ、とか、そういった類の言葉が降ってくるだろうと身を固くして構える私の耳に届いたのは信じられない言葉だった。
「優しい!」
優しい? だって?
頭の中が疑問符だらけになる私の手を竹内がとる。教室中がざわっとする。
「あたしのこと、心配してくれるんだー。面白いだけじゃなくて、いい子なんだね」
面白い? いい子?
頭の中がぐちゃぐちゃになる。なんだ。なんだ。これは一体、どういうことだ。
ねぇ! 竹内は手を握ったまま、私の顔を覗き込む。
「あたし、菊坂さんと友達になりたい! あたしと友達になろうよ!」
からんからーん、という乾いた音が聞こえたと思ったら、誰かが、床に鉛筆を落とした音だった。
竹内に握られた手から、柔らかい温もりが伝わってくる。小学校6年間、冷たく払われることはあっても、誰にも握られてこなかった手。
呆然としてしまう。竹内がどんな一手を指してくるのか、二時間目をフルに使って、ありとあらゆる手を考えていたつもりだったが、こんな展開は予想外だ。
キーンコーン、カーンコーン
二時間目と三時間目をつなぐ、通常より長い20分休憩が終わりを告げた。
適当なところで切り上げて、トイレに行こうと思っていたのに、行けなかった。
また後でね、と手を振りながら自分の席に戻っていく竹内を複雑な気持ちで見送った。
三時間目は、理科だった。理科教師は自己紹介を終えると、これから一年の授業の流れの説明をはじめた。
やばい。先ほどまでのこととトイレに行きたいのとで、話が全く頭に入ってこない。
ノートを開き、とにかく黒板の文字を全て書き写すことに終始する。
仰け反るようにしていた両隣のクラスメイトは、心なしか今は前かがみになって様子を伺うようにこちらを、ちらちら見てくる。
そりゃそうだ。こんな面白い見ものがあったら、私だって見る。
教室中の好奇の目を感じて何とも居心地が悪い。
いじめられるのも辛いが、この状況も勘弁だ、と思う。これがいじめの前哨戦だとしたら大した趣向だな、とも思う。もっとも、それ以外の可能性なんてないと思うが。
――思う、じゃないだろ、ないって断定しろよ。
心の中でもう一人の自分が囁く。
――人を信じたら、裏切られる。いいことがあった後には、必ず、嫌なことが待っている。そうだろ?
――ああ。そうだな。
自分の内側の声に返事を返す。心の中でのひとりごと、とでも言うのだろうか。こんな風に自問自答するのが、癖になってしまっている。6年近い、いじめられ期間をそうやって乗り切ってきたのだ。でなければ、とっくに気がおかしくなっていただろうと思う。
もう一人の自分と対話したら大分気持ちが落ち着いてきた。
私は一息つくとシャープペンシルを持ち替えて、理科教師の説明に耳を澄ませた
三時間目が終わった。理科教師が教室を出て行くのと同時に私は席を立ち、教室の出口に向かった。
竹内がやってきた。
「どこ行くの?」
「……トイレ」
「あたしも一緒に行く!」
「あのなぁ、」
私は言った。いい加減に、と続けて言おうとしたときだった。
「なー坊!」
女子生徒の大きな声がした。
そちらのほうに視線をやると、女子が五、六人で固まっていた。皆、不安げな眼差しで私と竹内とを交互に見ている。
多分、竹内と同じ植東(うえとう)小学校から上がってきた女生徒たちだろう、と私は予測した。仲間の無謀を見るにみかねた、というわけだ。
「なーに? 麗(れい)ちゃん」竹内だけがこの教室の中で、一人、暢気な顔をしている。
「ちょっと来て」
麗、と呼ばれた女子が竹内に向かって手招きをする。ちら、と私を見る眼差しには敵意に似たものが感じられた。
私はくるりと背を向けて、黙って出入口に向かった。ぴしゃっと教室のドアを閉めたとき、中から、もう、なー坊ったら何考えてんの? という声が聞こえた。その続きが聞きたくなくて私はさっさと歩き出す。
これで、ジ・エンドだ。
肌寒い廊下を一人で歩きながら、ふと、あいつは、なー坊って呼ばれているんだな、と思った。
竹内奈緒(たけうち なお)だから、なー坊。
可愛いあだ名は周りから愛されている証でもある。私の小学校時代のあだ名は……。
――余計なことを考えるなよ。
私の中の、私が言う。
――それとも何か? 変な期待でも持っていたのか?
もう一人の私はたまに私をからかうようなことも言う。自分で自分をからかって、自嘲して、全て自分の中で完結させる。誰からもほとんど話しかけられず、話しかけられることがあれば残酷な言葉ばかりが浴びせられる時間を過ごした私が、自然に身につけた自己防衛のテクニックだった。
放課後、私は職員室にいた。
二列で向かい合うようして並ぶ教員のデスク達。お茶が入った湯のみがその上に乗っている。
「どうして、あんな自己紹介をした?」
担任の一宮は私に尋ねる。眼鏡を外して、ジャージを羽織っていると、やっぱり体育教師のように見えるな、と思いながら、私は答えた。
「どうしても何も、思ったことを思ったとおりに言ったまでですが」
あのなぁ、一宮が指先でこつ、こつ、とデスクを叩きながら言う。
「お前、学校を何だと思っているんだ」
「勉強をするところでしょう」
「それだけじゃない」
一宮は回転いすを回して、私に向き直る。
「人間関係や、社会常識を学んだりする場所でもある」
「それなら、小学校で散々学んできました」
「俺には、とてもそうは見えないがな」
一宮が椅子に座っているので私たちの目線は二人とも同じくらいになる。私は口を開いた。
「強い者が、弱い者を叩く」
なに? と言うように一宮の目が光る。私は続けた。
「親や教師が子供にいろいろな理想や課題を押し付け、ストレスが溜まった子供は、クラスの中の弱者にそのはけ口を求める。私にとって学校はそういう場所でした」
一宮は唸った。何かを考えているようだ。
「私、知っています。大人になっても、そういう事象はいくらでもあること。会社でも、趣味のサークルとか、そういう集まりでも、どこででも。そうですよね?」
「確かにそういう側面も社会にはあるかもしれない。それは認めよう」
一宮は、だけどな菊坂、と続けた。
「それは世界の全てじゃない。あくまで一つの側面だ。まだお前は世界というものを知らな過ぎる。結論を出すのは早すぎると思わないか?」
「思いません」
「だったら、何の救いも、この世界にはないじゃないか」
救いはあります、と、私は言った。
「強くなればいいんです。強くなれば傷つけられずに済む。好きなことをして生きていける」
そう言って一宮の顔を見る。一宮は何とも言えない表情をしている。
「私は、学歴や知識を身につけて、それを武器にしようと思っています。だから、学校は休みません。問題を起こすようなこともしません。ご安心ください」
一宮は目を閉じた。溜息が口から洩れる。
「先生、私の夢をお教えしましょうか」
言ってみろ、と、目を閉じたまま一宮が言う。私は続けた。
「お金持ちになって、誰も来ないような山奥に大きなお屋敷を建てて、好きなものに囲まれて、一人で心安らかに暮らすことです」
職員室に沈黙の幕が下りてきた。暮れはじめた窓の外で烏がカァーっと鳴く。時計の針の進むカチコチ、という音さえ聞こえてくるようだった。
ふいに、その沈黙を破るように、コンコン、というノックの音が室内に響いた。
一宮がため息をつき、席を立った。私の横を通り過ぎ、職員室のドアを開ける。
「竹内じゃないか、どうしたんだ」
驚いて振り返ると、確かにそこに竹内奈緒が立っていた。両手で体を抱きしめるようにして、震えている。
「菊ちゃんを待っていたんですけど、寒くて……」
菊ちゃん?
その単語がうまく飲み込めないでいる私に、竹内が笑顔で手をふる。
「菊ちゃん」
そのとき、初めて気付いた。
私の名前が菊坂千尋(きくさか ちひろ)だから、菊ちゃん……。
一宮の視線が、私と竹内の間を行ったりきたりする。
「寒いから中に入っていいですか?」
一宮は、しばらく考えるように顎に手をあてていたが菊坂、と私の名前を呼んだ。
「竹内と一緒に帰れ」
はい! と私ではなく竹内が元気よく返事をする。
「菊ちゃん、一緒に帰ろう!」
返事をする前に竹内に手を掴まれた。びっくりした。氷のように冷たい。
……手がこんなに冷たくなるまで、廊下で待っていたのか。
「菊ちゃん、早くおいでってば」
引っ張るな、と言う私に竹内は耳打ちした。先生の気が変わらないうちに、帰ろ?
「先生、さようならー」
「ああ、さようなら。廊下は、走るなよ」
はーい、と元気よく返事をして、竹内は私をぐいぐいと引っ張る。私は竹内に引きずられるようにして昇降口へと向かった。
「……いつまで、手を繋いでるつもりだ」
階段を下りきったところで、私が言うと、あ。ごめん、と言って、竹内は手を離した。
下駄箱で靴を履き替えて、校庭に出た私たちを待っていたのは綺麗な夕暮れの空だった。 上のほうは深いコバルトブルー。中層は菫(すみれ)の花のような紫色。地平線の近くは滲んだ赤い色をしている。
桜の花が夕闇のなかで青ざめて見える。私は足元に散った花びらを蹴りながら、「借り、イチだな」と、呟いた。
借り? と竹内が軽く笑う。
「菊ちゃん、面白いことばかり言うね」
面白い、というよりかは、どこか寂しげな表情で彼女はぽそりとそう言った。
そんな顔をされると、何を考えているとか、たくらんでいるのか、などと問いただす気が失せてしまう。私は口をつぐんだ。
何にしろ、こいつは廊下で待っていた。手が氷のように冷たくなるまで、私を。
そのことについて深い理由や意味を考えるのは、今は止めておこうと思った。どちらにしろ辛くなる。
――……どちらにしろ?
私の中の私が面白そうに茶化す。
――そうでない可能性なんてあるわけがないだろう?
何のたくらみもなく純粋に友達になりたい、なんて。
ありえない。
そんなことをしても、彼女に損になることはあっても得になることなど、ひとつもないのだから。今はそれに気がついていないとしても、気がつけば、きっと私から離れていく。
校門を出たところ、五中の向かい側に蕎麦屋がある。かぐわしい蒸気が店の煙突からもうもうと、上がっていた。
「うぅー。食欲をそそる匂いだねぇー」
竹内がお腹のあたりを手で押さえながら、お腹すいたなぁーと、言う。
時刻は17時か、18時くらいだろうか。いつのまにか周囲は暗くなっていた。
今日、お母さんパートの日で遅いんだよねー、と言いながら、ため息をつく彼女を見ていたら、ひらめいたことがあった。
「借り、返すよ」
え? と、こちらを見た竹内にポケットに入っているお金を見せる。300円、今週号の少年ジャンプを買うためのお金だった。
「温かいもの食わせてやるよ」
いいよ、いいよ、と竹内は首を振る。中途半端にカップラーメンとか食べたくないし、と言う彼女に、私はニヤリと笑った。
「ちゃんとした料理に決まってるだろ」
怪訝な顔つきになった竹内に、私は言った。
「ジャンプ1冊分の価値ってのを、教えてやる」