「ジャンプ・ガールズ」第2話

 ただいま、と言って、自宅アパートのドアを開けると姉ちゃん遅ぇよー、と弟の和也が不満顔で顔を覗かせた。

 私の後ろから入ってきて、こんばんは、お邪魔します、と頭を下げる竹内を見て、和也が目を丸くする。

 「和也、ご飯炊いた? 味噌汁も作ってある?」

 炊いたし、ワカメの味噌汁も作ってあるけど……と和也が答えた。今度は竹内が目を丸くする番だった。

 「菊ちゃんの弟さん、いくつ!?」

 小学5年生です、と和也が答える。

 「うち、共働きだから、小学校2年生ぐらいから私も和也も包丁握ってるんだよ」

 私は説明した。さてと、と言って帰り道の途中で買ってきたものをスーパーのレジ袋から出す。

 「グラム98円の豚小間肉約220g、216円、玉葱1個、39円。あと、家にある卵、大体1個頭、15円ってとこだから、3個で45円、合計300円」

 和也に、すぐ出来るから炬燵机を拭いておいて、と指示した。

 「そこの座布団に座ってろよ」

 竹内にそう言ったが彼女はううん、と首を振った。

 「作るところ見てていい? 見ていたい」

 別にいいよ、と言って、私は手を洗ってから包丁をとりだした。たまねぎのへたを切り落として薄皮をむき、半分に割ってから縦方向に薄切りにする。

「ねぇ、菊ちゃん」
「何?」
「腕、まくったほうがいいんじゃない?」

まくってあげる、と言いながら、竹内が近づいてくる。

「いい。大丈夫だ」
「でも、ほら、そこ、まな板につきそう」

右袖に竹内の手が、伸びる。体中が総毛立った。

「触るな!」

気がついたときは大声で叫んでいた。
彼女の目が大きく見開かれる。しまった、やってしまった、と思った。
あたりに気まずい空気が流れた。

「……包丁握ってんだぞ。危ないだろ」

苦し紛れの台詞を吐いた。

だが、その言葉は自分で思っていたより効果的だったようで、竹内の表情に納得したような、ほっとしたような色が宿った。

そうだよね、ごめんね、と頭を下げる、彼女の姿に複雑な思いが宿った。

そのとき、和也が「何騒いでんの?」とキッチンにやってきた。

「なんでもない。並べとけ」

言いながら、3人分の箸を和也に渡した。人使い荒ぇなぁ、姉ちゃんは、と言いながら和也はリビングに戻っていく。さきほどの出来事に感づいている様子はない。

一呼吸おいて、気を取り直した。

竹内が見ている前で調理を続ける。先ほどスライスした玉葱を脇にやり、豚小間肉にわずかばかりの塩で簡単に下味をつけた。

 フライパンに薄く油をひき、火をつけて温める。油がさらさらしてきたら、スライスした玉ねぎと下味付きの豚小間肉を菜箸でかき混ぜながら炒める。調理酒をいれて、フライパンをあおると、赤い炎がぶわっとフライパンのなかで踊り、竹内は大げさに喜んだ。

 「すごい、すごい!」

 正直、悪い気はしない。

 市販のめんつゆと水を1:2ぐらいに混ぜたものをフライパンに投入し、軽く炒め煮にする。

 卵は少し考えてから、とき卵にするのはやめにして、そのまま丸々入れることにした。

 フライパンの蓋をして蒸らしている間に、味噌汁の鍋を火にかけ、丼と味噌汁のお椀を食器棚から出す。丼にご飯をよそう間に味噌汁が温まり、次に味噌汁をよそう間には卵がいい具合に半熟になる計算だ。

 使った食器や調理器具はあらかじめ水をはっておいた洗い桶にどんどん漬ける。こうしておけば後で洗うとき簡単に汚れが落ちる。

 フライパンの蓋を開けると、卵には固過ぎず生すぎず、ほどよい加減で火が入ったようだった。

 よそっておいた丼飯の上に具をバランスよく盛っていく。つゆもご飯がべしゃべしゃにならない程度に振り掛けた。

 「出来たぞ」

 声をかける。タイムは作り始めてから十五分。まぁまぁだろう。

 私と竹内と弟の和也と。3人で食卓を囲んだ。いただきます、と手を合わせる。

 一口食べた竹内が叫んだ。

 「美味しい! 何これ、めちゃくちゃ美味しい!」

 こうすると、もっと旨いぜ、と言いながら、私は卵の黄身に箸をつきたてた。薄い膜が破れ、とろりとした黄身が甘い味付けの豚肉と玉葱の間を流れてご飯にしみこむ。

 「うはぁ、本当に美味しい」

 歓声をあげながら、竹内は掻きこむように私が作った豚丼を食べる。

 「お味噌汁も、すごく美味しいよ!」

 和也くんだっけ? 小学生なのにすごいねぇ、と話しかける竹内に、和也は、はい、ありがとうございます、と落ち着かない様子で答えた。今までこんな場面に遭遇したことはないだろうから、当然だとも言える。私だって内心は、そわそわしているのだ。

 「私、菊ちゃんの友達で竹内奈緒っていうの。よろしくね」

 和也が私の顔をちらり、と伺う。私はどんな表情を返していいかわからず、弟の視線からふいと目をそらした。

 「なー坊って呼んでね」

 菊ちゃんもね、とさりげなく、付け足すように私のほうへ向き直って竹内は言った。

 私は曖昧に、頷いているか頷いていないかわからないぐらいの角度で、首を傾けた。

 「竹内さん、って言ったら、怒るからね」

 私は再び、微妙な角度で首を傾ける。

 もう、と竹内が頬を膨らませた。

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竹内が帰ったあと、私が皿を洗っていると和也が近づいてきた。

 「姉ちゃん、友達出来たんだな」

 やったじゃん、と言う弟に、私はさぁね、とだけ答えた。和也の顔が曇る。

 「……友達じゃないの?」

 あの人は姉ちゃんのこと、友達って言ってたじゃん、という言葉に、胸が詰まった。

 「わからない」

 それだけ、答えた。和也が眉をひそめる。

 「和也、母さん達には今日のことは言うな」
 「なんで」
 「期待させたら、可哀想だ」

 新しいお友達できるといいね、と寂しそうに笑った母。
 お前は、本当はいい子だから、と、目を伏せながら言った父。

 「じゃあ、なんで、あの人連れてきたの」

 和也が言う。

 「信用できないなら、連れてこなきゃいいじゃん」

 借りがあったんだよ、と私は手元の泡だらけの白い丼に視線を落としながら言った。

 「姉ちゃんは」

 和也が口を開く。姉ちゃんは。

 「いじめられすぎて、歪んでる」

 いじめられすぎて、歪んでる。

 心の中でその言葉がこだまする。いじめられすぎて、歪んでる。

 「俺には、あの、竹内さんって人、悪い人には見えなかった」

 なのに、あんな態度とって。きっと、あの人、傷ついたよ、と和也は続ける。私は振り払うように首を振った。

 「……とにかく、母さん達には言うな」

 まだ何か言いたげにしている和也に布巾を投げた。今日は私が風呂を洗うから、皿を拭いといて、と言ってその場を立ち去る。

 ――お前は間違ってないさ。

 私の中の私が言う。人を信じたら、裏切られる。いいことのあとには嫌なことが待っている。必ず。

 私は、間違っていない、と、もう一度自分自身に納得させるように心のなかで呟いた。

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 次の日の朝、通学路である豊洲橋を渡る私の足取りは重かった。桜の花びらがそんな自分を笑うかのようにひらひらと舞う。

 ……昨日のことなんて、まるでなかったかのように、無視されたら。

 想定内だろ、と私の中の私が言った。そんなことで傷つくほどお前は弱かったか?

 勿論、そうだ。
 わかっているはずなのに、ため息が出るのは何故だろう。

 五中が近づいてくる。校門へと足を踏み入れたとき、竹内の姿が視界に入り、心臓の鼓動が跳ね上がった。

 竹内は、彼女自身と同じ、植東小学校出身の女子であろう子たちと楽しそうにしゃべりながら中学校へと続く道を歩いている。 

 私はなんだかバツが悪くて、気付かれませんように、と祈るような気持ちで彼女達を追い抜かないように、ゆっくり歩いた。

 そこかしらに朝の挨拶が飛び交っているなかを、私は口を一文字に結んで黙々と彼女達の後を追うように歩いていく。

 ……ふと、竹内が振り返った。

 私の視線と竹内の視線とがぶつかり合う。身を隠す暇もなかった。私は固まってしまう。

 竹内の顔がふわっと、ほころんだ。

 「あ、菊ちゃんじゃん、おはよー!」

 「……」

 私は黙って会釈を返した。

 そそくさと横を通り過ぎて、下駄箱に向かう。あ、ちょっと、菊ちゃん、という声が後ろから聞こえた気がしたが、聞こえないふりをして足早に歩いていった。

 意識しすぎだ。相手の思う壺だ。

 思う壺。
 私はまだ竹内を疑っている。今までの一連の彼女の行動は、いじめへの前哨戦ではないかと。嫌がらせの一種ではないかと。

 しかし、昨日の冷え切った彼女の手と、菊ちゃん、と彼女独特の鈴が震えるような高い声で私を呼ぶ弾む声が頭をちらついてもいる。

 きっと、あの人、傷ついたよ。

 弟の和也の言葉も心に蘇ってきた。自分が一体どんな対応をしたらいいのか、手持ちのカードを並べてみても、まるで見えてこない。

 私は朝から、もう何度目になるだろうかのため息を深くついた。

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