「ジャンプ・ガールズ」第3話

ホームルームの前の空き時間に竹内がまた私の元へやってきた。

 「菊ちゃん」
 「……おう」

 ぶっきらぼうな返事を返す。彼女のほうをちらり、とみると、ぎょっとした。目が、険(けわ)しい。怒っている人間の顔だ。

 「なんで挨拶しないの」
 「……」
 「『おはよう』って私は言ったでしょ?」

 なのに、なんで? と、彼女は続ける。

 「……」
 「黙っていたら、わかんないよ」

 口がついてるんだから、話さないと、と竹内は言う。

……私は重い口をひらいた。

 「ほとんど、したことないから」

 竹内の眉間に皴がよる。なに? と言うように。

 「……やり方がわからない」

 最後に人に挨拶をしたのがいつだったのか、私は思い出せない。

 保育園児の頃は先生に、友達に、自然に元気よく、挨拶をしていたような記憶がある。

 けれども、小学校からいじめにあうようになって、私が声をかけても無視されたり、冷たく笑われたり、挨拶のときの声の調子なんかを、からかいのネタにされたりするようになってから、私は誰にも挨拶が出来なくなってしまった。

 「どういうタイミングで、どれぐらいの声の調子で、どうやって挨拶したら不自然じゃないのか」
 よくわからない、と私は下を向いた。

 そっか、と竹内の声が私の頭の上から降ってきた。

 怖くて竹内の顔がまともに見られない。

 下を向いたままでいると、担任の一宮が教室に入ってきて、ホームルームの始まりを告げた。

 自席に戻っていく竹内のセーラー服の後姿を見ながら、失望させただろうか、などと考えた。

 おはよう

 おはよう

 「もう一回!」

 放課後の教室に竹内のソプラノの声が響く。

 「……おはよう」

 「声が小さい!」

 私は、竹内から『特別指導』を受けていた。 指導の内容は『挨拶の練習』だ。

 (なんで、こんなことに?)

 「最初から、やり直し!」

 ぴしゃっと厳しい竹内の言葉に私は、とぼとぼと教室の外に一旦出る。

 ガラガラ、と教室のドアを開ける。

 「……おはよう」

 「間、空けすぎ。不自然!」

 これがマスターできたら、校門あたりですれちがったときのシチュエーションも練習するからね、と竹内は言った。

 「はい、菊ちゃん、もう一回、教室の外に出て」

 「あと、もっと声大きくね。ぼそぼそ言うとかえって悪目立ちするから」

 竹内の『指導』にしたがい、私は何度も何度も「おはよう」を繰り返した。だが、竹内の目からみて、なかなか満足のいく出来にはならないようだ。

 「もうちょっとなんだけどなぁ」

 いい加減疲れてきた私の様子を見てとったのか、そろそろ休憩しようか、と竹内は切り出してきた。

 二人で窓際の椅子に腰掛ける。日暮れ始めた太陽の日差しが暖かい色をして教室のなかを染めている。

 竹内がのど飴をくれた。

 「……ありがとう」

 うん、今の挨拶はいいね、と竹内は笑った。

「ハニーレモンソーダの冒頭じゃないんだからさ……」

思わず愚痴った私に竹内はぷっと吹き出して

「あの漫画、面白いよね」

「うん、まあな」

現実味がなさすぎるけど、と言おうとして私は口ごもった。今の自分の状況がまさに漫画みたいだから。おまいう状態ってやつである。

「ところでさ」

 窓の外を見ながら、竹内が言った。

 「菊ちゃん、朝から一度も私のこと、名前で呼んでないよね。竹内さん、とも、なー坊とも」

 ギクリ、とした。気付かれていた。

 「おう、とか、うん、とかで誤魔化して」

 もしかして、名前で呼ぶの避けてるの? と、問いかけられて、返事に窮した。

 どういう風に答えようか考えあぐねていると、教室のドアが音をたてて、開いた。

「あ、まだ人がいたんだ」

 ひとつ三つ編に古めかしい鼈甲眼鏡をかけた大人しそうな女子が教室の中に入ってきた。

 「あ、上倉さん」

 と竹内が言う。

 私は二人を見比べた。
 同小の友人なのだろうか?だがその割にはさん付けだし……。

 実はねぇ、と竹内が上倉さんと呼んだ女子にむかって話しかける。

 「菊ちゃん、挨拶苦手だって言うから教えてたの!」

 顔がかぁっと熱くなった。言葉にされて改めて言われると、ものすごく恥ずかしい。中学生にもなる自分が小さな子供のようになった気がしてくる。

 上倉さんは、そうなんだぁ、とのほほんと笑った。

 「菊坂さんだったよね?」

 あの自己紹介にはびっくりしたよぉ、と、上倉さんは朗らかに言う。
 そのとき、私ははじめて、上倉さんが同じクラスだということに気がついた。

 再び、頬が熱くなる。

 「上倉さんは、こんな遅くまで何してたの?」

 竹内が上倉さんに問いかける。上倉さんはうんとねぇ、と一拍置いてから、

 「部活動の下見に行ってたんだよー」

 と、言った。

 「部活動の下見? あ、そうか。ホームルームで一宮先生、興味ある部活があったら見学に行きなさいって、言ってたもんね」

 どこ部を見てきたの? と聞く竹内に上倉さんは美術部、と答えた。

「でも人がわんさかいてさ。ありゃ、多分抽選になるね」

 明日は絵画部を見に行こうと思ってるんだ、と言う上倉さんに、竹内は、へぇー、絵が好きなんだねぇ、と応じている。

 私はそんな二人を黙って眺めた。

 「ね、上倉さん、明日私たちも一緒に絵画部の見学についていっていい?」

 え?

 驚いて、竹内を見ると、面白そうだし、行ってみたいな、と上倉さんに繰り返す彼女がいた。

 上倉さんは、いいよ、一緒に行こうか、と頷いている。嫌そうな雰囲気ではない。

 ……私『たち』って言ったよな。

 「上倉さん、OKだって!」

 私のほうをみて竹内が笑う。

 戸惑う私を横において、楽しみだねぇ、と竹内は暢気に笑っている。

 「上倉さん、じゃなくて、下の名前の絵菜でいいよ」

 上倉さんはそう言ってにっこりと歯をみせた。竹内は、嬉しいー、じゃあ、絵菜ちゃんって呼ぶね。 私のこともなー坊って呼んで! などと打ち解けている。

 ……もしかして、この二人はグル、とか。

 という考えが浮かんだが、流石に馬鹿馬鹿しい、と打ち消した。私一人をへこませるために、いくらなんでも、そんなに手のこんだことはしないだろう。シンプルに嫌がらせをするほうが、面倒くさくなく、ずっと即効性がある。

 「絵菜ちゃん、この子は菊ちゃんって呼んであげて」

 私の肩に手を置いて、竹内が上倉さんに向かって言う。

 「菊坂千尋だから、菊ちゃん。ちーちゃんでもいいと思うけど」

 ――いきなり、何てことを言いやがるんだ、こいつは。

 眩暈にも似た感覚が湧き上ってきた。いきなり、そんな……。相手の感情も考えろよ。

 だが、上倉さんは、あっさりと

 「菊ちゃんね、よろしく!」

 と、言って爽やかに笑った。

 あれ?

 一体どういうことだろう。これは。

 予想外のことが起きすぎて、頭がついていかない。

 ……もしかして。

 私は思う。受け入れられた、のか?

 わからない。信じられない。一体何が起こっているのか。

 ゆっくりと夜に近づいていく教室の中で、竹内と上倉さんの楽しそうな話し声を、私はまるで水の中で外の世界の音を聞くように、ぼんやりと遠くに、感じていた。
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 繰り返し、私を訪れる悪夢がある。火のついた煙草を持ったクラスメイトが私の方へ、ゆっくりと近づいてくる。煙草の臭い煙が鼻を衝く。

 ――そっち持てよ。

 私はもがく。助けて、やめて、お願い。

 手で口をふさがれた。涙が落ちる。

 ――うわ、汚い。生ゴミの汁だ。

 生ゴミ。それが、私の小学生時代のあだ名だ。

 ――汚いのは、我慢しろよ。

 汚物を始末する係なんだから、仕方ないだろ? という言葉に男子も女子も、その場にいた全員がどっと笑った。

 赤い小さな火が、目の前に近づいてくる。どこかで煙草の火は千度近い熱を帯びると聞いたことがあった。高熱を帯びた火はちらちらと輝いて私の視界をかすめる。

 私はもがいた。助けて、誰か。

 ――こら、生ゴミのくせに、暴れんな!

 私を羽交い絞めにする男子の腕の力がさらに大きくなる。

 嫌だ。嫌だ、嫌だ、嫌だよ。

 私が何をしたか、私にはわからない。

 ここまでのことをされるような事をしたのか、私にはわからない。

 ――汚物は消毒だぁ!

 男子が未だに有名な、少年ジジャンプの古い漫画「北斗の拳」のキャラクターの真似をしておどける。

 泣いても叫んでも、誰も助けてくれはしない。

 ドン、と背中を押された。

 強烈な感覚が背筋を駆け抜ける。火というより電流に触れたかのような激しいショック。

 「――!」

 声にならない悲鳴をあげて私は飛び起きた。

 枕もとの時計を見ると、時刻は午前2時を回っていた。

 私は息をつき、汗でびしょびしょに濡れた自分の体を自分で抱きしめた。体がまだガタガタと震え、喉はからからに渇いている。

 私が、たまに、こんな風に夜中に飛び起きることがあることを両親は知らない。
 言う必要を私は感じない。

 ふと、思う。現実に起こったことの記憶の再現でも、夢と呼んでいいのだろうか?

 繰り返し、何度も私の眠りをノックする光景。悪魔の赤い舌のような火の記憶。大人が誰も来ない廃工場の片隅で起こった出来事。

 私を見下ろして笑うクラスメイト達。その中心にいる『あの女』の陰湿な笑顔。

 家族を起こさないように忍び足で台所に立ち、水をくんだ。

 竹内。上倉さん。

 瞼の裏に浮かぶ、二人の笑顔を私は心のなか、黒で塗りつぶす。

 忘れろ。忘れろ、忘れろ。

 墨をかけるように何度も私は自分の心に命令する。

 耐えられなくなる前に、離れなくては。

 私は水を飲みながら、大きく息を吐いた。

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