たとえ世界の全てを嫌いになっても
こんにちは。紗月皐です。自我です。
世界からの私への風当たりが強くない?と思いながら生きています、めっちゃ他責やん。
結論から申し上げれば、それでも生きている自分って偉くない?という話です。
まず序文の他責思考からやめようよということには間違いないのですが、まずそれは部屋の隅っこにでも置いておきましょう。あらためるべきことが多すぎるのは承知の上なので…。
よく聞く言葉だと思うのですが、生きているだけで偉いって詭弁だと思わないですか?僕は割と最近までそう思っていました。
それはなぜか?何もできない自分に対する自己否定や自虐、それによるネガティブシンキングの荒波に揉まれていたためです。今もそうですが。
僕は幼少期から比較的精神が成熟している(達観している)マセガキ風の子供だったので、独特の死生観などが仕上がるのに時間を要しませんでした。そしてその感覚が自分自身を苦しめることもすぐでした。それでもある種の無敵感と実情がマッチしており悩むことは少なかったと思います。
正式に大挫折したのが高校入学後のことでした。地元ではぼちぼちの進学校に通うことになったのですが、希望する進路でなかったことを理由に怠けまくることを決意して入学しました。それでもまだ部活があったので良かったものの、結構な大怪我を機に完全にBADに入り、今度はその状況と先に述べた独特の死生観がマッチしてしまいました。
それ以来紙より薄いような精神耐久力になってしまい、耐えては逃げ耐えては逃げ、苦しみに打ちひしがれながら自分の人生をいつ閉ざそうか、ということを考える毎日になりました。あえて述べますが自分が情けないですね~。しっかりと自責しましょう。
とまあそこまでの流れの中で、やはり生きているだけで偉いと思えなくなってしまったわけです。生きていることはきっと周りの人たちの足を引っ張り続ける行為であるという発想ですね。それくらい卑下することしかできなくなる状態になってしまったわけです。
経緯を長々と書いてしまいましたが話を戻しましょう。
先述したように生きているだけで偉いのです。もっと言えば死ななければ何も問題がないのだ、というわけです。単純な精神病歴で言えば十年ほど経つ私が言うので大丈夫だと思います。知らんけど。
よくよく考えれば、才能が飛び抜けているわけでもなく、学歴もなくて精神的に虚弱、何かをやるにしても組織に属すこともできず、辞めるか辞めさせられるかを繰り返しているのにも関わらず、行く先にある可能性を少しでも手繰り寄せるために諦めない自分はすごくないか?と考えるわけです。
もちろん周りの人たちの支えがあることは重々承知の上ですが、それにしても根性ありすぎないですか?ハードルは下げましょう、いいですね?
生きているだけでもがいていて、呼吸をするために日々空の下歩いていることの何を否定できようか、という結論に至ったので皆さんのことは僕が助けようと思います。救済です。
皆、一緒にハッピーになろうぜ。
たとえ世界の全てを嫌いになっても、そこにいるだけで幸せだと思えるように。