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「♡は可愛い」は対物性愛。

 こんにちは。酷い残暑の中いかがお過ごしでしょうか。昔はお盆になったらみんな帰ってくるものでしたが、現代ではそんな常識ありませんよね。昔よりもうんと暑くなりましたし。暑くなったと言えば、今年初めて電車が暑さの所為で遅延しました。こんなもので地域バレしますかね。小学生の頃暑さのせいで鉄道の線路がゆがむと聞いて、あちらの国の話だと他人事のように思っていましたが、最初驚いたのが小学校の帰り道、二月の昼間でした。友達と二人で帰った道の、暑いこと暑いこと。まず直射日光が冬のそれではなかった。突き刺すような太陽の光線が友達の茶色い柔肌に反射していた。額にべったりと前髪がくっついているのを見て、暑いねと言ったのを思い出す…。まだ二月なのにこれじゃ夏だよと会話したのが眼前に思い出される…。ずっと前から異常気象は続いているのに何も変わっていないんですね。いつか人間の偉い科学者が地球温暖化を始めとしたあらゆる異常気象を解決してくれると信じていますが、どうなってるんでしょうね。そもそも人間が地球に干渉することは間違っているから何もしないのが賢明だとか言っている人たちは馬鹿ですよね。人間によって絶滅した種の数々、地球を掘り起こしまわり穢しまわった事例の数々、これらについて何も思わないのなら、人間も地球の一部だとするのなら、地球に干渉する人間も地球の一部なら、異常気象を解決しようとすることに尽力をするべきなんだと思います。傍観主義の人間どもが嫌い。ヒトは野生から逸脱する存在なのだと信じている人間の傲慢さが嫌い。
でも表面上は何をしているのかわからないから心配になる人がいてもおかしくない。そんな人たちを馬鹿にする人たちが地球を動かしているから地球は滅ぶ。自分の利益のために何が最善なのかを考え行動するという人間の素晴らしい生存本能が斯様に働くのは遺伝子さんも想定していないだろうね。人類にとって価値のある人間は地球を捨ててどこかへ行って種を繁栄に導くかもしれない。でもそこに僕たちはいない。大半の人間が価値のない人間だ。大半どころか80億人の99%も価値が無いんだろう。生まれた時点でどうなるか決まっているなんて面白い話ですよね。明日にもそんな話になることを怖がっているわけではないのですけどね。人類が(国民が、もっと言えば妻子が)存続するために何が最善なのかを考えた時末端の人間のことを考える余裕なんか微塵もないのでしょう。そこが大統領と高校生の言い分の違いなのでしょうな。

そんなことはどうでもいいんです。時計を見つめるくらい、考えても仕方がないので。

「かわいい」と「かわいそう」が不思議な言葉だと考えたことはありますか?


「たのしい」
ように見えることを「たのしそう」

「おいしい」ように見えることを「おいしそう」

「こわい」ようにみえることを「こわそう」と言いますね。

その規則性に則ると、
「かわいい」ように見えることを「かわいそう」になるのですが、僕たちが普段使う「かわいそう」は「かわいい」とちょっと違う意味ですよね。「かわいい」がポジティブとすれば「かわいそう」はネガティブとでもいいますか。全く違う言葉のようですよね。
 今記事は全て僕の妄想だと捉えてもらってほしいのですが、きっと「かわいい」と「かわいそう」も他の用例と同じものなんだと思うのです。
「かわいそうな子」が時々「かわいく」見えることありませんか?僕はあるんですが、多かれ少なかれ皆あると思うんですよ。
「かわいい」「かわいそう」と感じた時、次には庇護欲を覚えるものだと思います。二つの本質は「守らなければならないものに感じる感覚」なんですよ。それってつまり子供や老人や女など、非力な存在。一見力になりなさそうな存在のこと。「かわいい」「かわいそう」は非力な存在を守るためにある重要な社会性動物的本能なんですよ。

僕が言いたいのは、
「かわいい」=「庇護欲を掻き立てられるね」
「かわいそう」=「庇護欲を掻き立てられそうだね」

ってことなんですよ!

多分違いますよね。はい、わかってます。
でもそういうことなんじゃないかな~って思ってます。そうだったら面白いですよね。無意識的な本能の部分が言語に現れているとすれば不思議ですよね。
もしこの仮説が本当だとするならば
本来同じ種に対して、人間に対してだけ感じるべき感覚なのですよ。僕の仮設では「かわいい」「かわいそう」は人間が生き残るためにあるものですから。でも違う。人間は犬や猫を「かわいい」と愛で、人間の利益になり得ないアザラシなんかも可愛がり、殺されようとしている人間以外の動物に対して「かわいそう」だと感じる。本来の機能とはちょっと違うように思えますよね。でも現代人はハート♡という何でもない記号にすら「かわいさ」を覚え、今となっては形式的な感覚にすら相成っている。一部の人は鉄の塊に「かわいさ」を覚えたり、臓物に「かわいさ」を覚えたりするのだからますます不思議だ。「かわいい」は人間以外にも感じる感覚になっているんですよ。僕の仮定が正しいとするならば、この感覚が長い年月の間で少しづつ変わっていったり、人間が動物を利用するようになって変わっていったり等と考えられる。なんだか僕なんかは性愛と同じように思えるんですよね。本来種を残すためのセックスをするのに恋愛という感覚があるが、対物性愛等を抱く人もいるのが事実。僕はただの高校生なんで真に受けないでほしいのですが、性愛は「かわいい」「かわいそう」という感覚になっていくのではないのかなと思うんですね。何百万年という年月を経て。 思っちゃったことは仕方がないんで世迷言だと思ってください。

最終的に人間の感情ってどんどん複雑化していくんじゃないかなって思うんですよね。今まで淘汰されてきた価値のない人間がこうやって生きていられるんですから、洗練というよりも多様化するんじゃないんですかね。いつどうやって人類の大量絶滅、若しくは人口減少の終点が来るのか、楽しみなんです。人間の極致って何なんでしょうかね。それを考えるのが文芸家の仕事なんですけども。とりあえず地球温暖化では絶滅しなさそうですね。


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