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死ぬと生きるのって同じじゃない?

タイトル通り死ぬと生きるのって同じじゃない?って私が思った理由について書きます。

多分「死ぬ」も「生きる」もいわゆる死ぬと生きるじゃなくて、どちらの言葉も私が勝手にこの文章内で使ってる狭義の「死ぬ」「生きる」です。ただ、狭義なので、広義に含まれる要素を抽出してます。要するにこの文章は、死ぬと生きる、両方の広義に含まれる共通要素とかつながりを見つけたような気がする〜!という私の個人的な学習記録です。おそらく脳内で起きてる仕組み的なお話しをしてしまうと、当たり前やん!ってなるんですけどね。笑

まあ、私は脳科学者でも脳科学に詳しい人でもないので、どうして私が「死ぬ」のと「生きる」のは一緒、もしくは限りなく同じ状態だと思うようになったかを説明します。

もちろん、心臓が止まって、脳波が止まって、身体が冷たくなって、腐って、みたいな色んな医学的定義に基づく死んでいる状態では生きている!なんて感じることも意識することも考えることも出来ないでしょうから、もちろんそういう意味での生きている事と死んでいる事は一緒ではないのですが、医学的に死んだことがない私にとって死ぬとはその医学的な死に近づくことであり、生きるというの生きる喜びを感じる瞬間である時に、死ぬことで生きるので、死ぬのと生きるのは一緒なんていう考えに至りました。

過去に「自殺未遂」を6回くらいとか、他にも私死ぬんじゃないかなって瞬間とかを経験して気付いたんですけど、どれもめちゃくちゃ「生きてる」ことを意識させてくれる経験でした。

あ!私死ぬかも〜〜?うける〜!みたいな他人事な自分から離脱してるような俯瞰してるような、そして何故かコミカルな色の感想を持ったんですよね。

でも、紛れもなく、生きていることを意識する瞬間でした。

他にも、自分が今までやってきた自殺未遂はどれも共通して、「生きたいから」実行してきました。

この生きたいには2種類あって、一つは精神疾患のせいで死にたくないから、もう一つは生きている実感を実感したいから。

一つ目はどう言うことかと言うと、大体私が自殺未遂をしてきた時は精神的にかなりヤバい時で、助けを求めてもがいているけど助けが届いていなくて、このまま放って置かれたら崩壊するか、その前に死ぬ可能性が圧倒的に高い、未遂には終わらない自殺をしてしまうのではないかと、本能的にも、意識としても感じている時であったので、オーバードースっていう死ぬ確率は低い上に医療的介入を自分でも何かしらの方法で呼ぶことで更にその確率を下げるけど、深刻性的には私が求めている介入をしてもらえそうな行為をしてきた、ということです。

二つ目の生きたいというのは、生きてる!!!!っていう多幸感万能感に浸りたい、という欲求です。自殺未遂をしている瞬間は自分の思うように行動出来ているということから感じるユーフォリアと死ぬかもしれないということから感じる興奮で身体・意識・私の存在全てが満たされます。ハイな状態とでも言えば伝わりますかね。幸せで幸せで仕方ないんです。リストカット、その他自傷行為、危険行為をしている時も似た多幸感を感じます。自分の思い通りに自分を操作出来ているから感じる多幸感と、スリルにドキドキします。

生きたいと思うから生きていることを感じさせてくれる行為をする。その行為は自分の命を危険にさらす行為だ。よって、私にとって、生きたいのは死にたいのと同じ。

多分私は人より少しだけ、お日様の心地よい暖かさを長く感じたくて、冷たい麦茶を口に含む瞬間を多く感じたくて、ふかふかな芝生に寝転んで青空を見上げる開放感を長く感じたいだけです。

それだけ、生きる喜びを感じる瞬間の多幸感に浸る欲求が強いから、死に近づいてでも、欲求を満たしたくなるのかなぁ…

自傷行為じゃなくてもいいじゃん!っていうのはごもっともで、たまたま、精神的に追い詰められて、思考力が落ちていて、視野も狭くなっている時に私が生きるためにしてしまうのが自傷行為なだけです。

もっと安全に周囲を悲しませず心配させずに生きてる喜び感じたいのでそこは今の課題です。

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