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スピノザ的な自我のがいいなぁ…

デカルトが支配してるこの世界では、個人とは孤立していて、自立していて、身体的な枠の中に収まっている存在なのが当たり前。

対してスピノザは近代西洋思想において珍しく、個人や自由意志はなく、みんな大きな何か(スピノザはこれを自然とか神とか呼んでる)の一部で、影響しあって、呼応しあって、交ざりながら、重なりながら存在しているという。

私はスピノザの方が真理に近いと思うし、もしそうでないとしても、スピノザ的な自我の方が好きだ。

というのも私は好きな人や特定の人と長時間共に過ごすと自我が歪んだり混ざったりする不思議な感覚に陥る。

自分と相手の境目が曖昧になって安心もするけど、なんだか不安にもなる。

柔軟性が低い部分だけ残るけど、柔軟性の塊みたいな私は周りに影響されやすい。

家族。毎日学校で一緒に過ごす友達。ディベートのパートナー。寮のルームメイトや大学の親友。セフレ。恋人。ロールモデル。同志。

みんな私に何かしらの影響を及ぼしてる。近くて濃くて好きなほど大きな影響を受けた。

でも、なんだかこれは良くないとか、個人は自立してるべきとか、そんなメッセージに揉まれて育ってきた気がする。

共依存メンヘラはヤバいぞ!そもそも依存はやびゃいぞ〜!自立できないと1人前じゃなーい!そんなに相手との心理的な距離を近づけたいの?そんなにお互いの全てを知り合いたいの?きもちわるぅ〜

的な、ね。

目では見えないかもしれないけれど、私たちは溶け合って混ざりあって生きている。それが当たり前というか、人間間で起きる現象の適切な説明ですよ〜と言ってるスピノザがもっとパワフルな世界だったら良かったのになぁ〜


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