80年代の浜田省吾から見えたもの
80年代の浜田省吾
素晴らしいロックコンサートだった。
浜田省吾 100% FAN FUN FAN 2019 "Journey of a Songwriter" since 1975 Welcome back to The 80’s Part-1 終りなき疾走 ALL FOR RUN
会場は名古屋国際会議場センチュリーホール。
かつて体験したことがないほど長いタイトルだが、浜田省吾ファンクラブ会員限定のコンサートで、全国24箇所を回るものだ。
この前に、同じくファンクラブ会員向けに彼の70年代の楽曲に絞ったコンサートが開催され、今回はその80年代版となる。
さらに、Part-1と区切られており、アルバムとしては、『Home Bound(1980)』『愛の世代の前に(1981)』『PROMISED LAND~約束の地(1982)』の3作品が対象となる。
(こう書いて、この頃は毎年アルバムがリリースされていたことにあらためて驚く)
彼のコンサートに参加するのは、前回のツアー以来だが、いつもと同じ浜田省吾がいた。
80年代といえば、自分が最初に"浜田省吾"の音楽に触れた時期と重なる。
年齢としては15歳~24歳。まさに青春と呼ばれる時期だけあって、どのアルバムも多感だった日々の自身の想い出と共に胸に刻まれている。
青春の蹉跌と怒り
この頃、浜田省吾の歌の世界は「怒り」だと思っていた。
初期の作品「壁にむかって」の歌詞にみられる日々の蹉跌、青春の蹉跌に怒りを感じる姿。
この曲で彼は、"ドアの外は今日もどしゃ降り"で"嵐の中では皆ずぶ濡れさ"と世の中を比喩している。
※この曲は70年代のもので、今回のコンサートでは歌われない。
1980年リリースの『Home Bound』収録の「東京」では、視線を自分の部屋から大都市・東京へと移し、世の中の貧富の差を切り取って見せる。
だが、真の意味で貧富の差が描かれたのは1981年リリースのアルバム『愛の世代の前に』収録の「丘の上の愛」ではないか。
この曲には、"丘の上に住む誰か"が登場する。
つまり、嵐の中でも平気な場所に暮らす階級が存在するということを示した。
自分の中に渦めく怒り、社会へのどうしようもない葛藤。そこへ、階級、格差という社会の構造が登場する。
彼の「怒り」は少し形を変えたことがわかる。
『愛の世代の前に』と『約束の地~Promised Land』
「愛の世代の前に」では、その視線は日常の世界を遥かに超え、「核」というテーマに行き着く。
雑誌のインタビューで彼は、”愛の世代"というのは"核がすべて廃棄された時代"を指すと語っている。
続く『Promised Land~約束の地』では、このテーマが色濃く反映されている。
この作品の最後を締めくくるのが「僕と彼女と週末に」だ。
冒頭から"この星がどこへ行こうとしているのか もう誰にもわからない"と始まり、ソングライターの視線で今の世の中(政治?)を憂う。
そして、"恐れを知らぬ自惚れた人は 宇宙の力を 悪魔に変えた"と歌う。
この歌詞の部分に本人が言及したインタビューを目にしたことはないが、"宇宙の力"は原子力・核を指し、"悪魔に変えた"は、原子爆弾を作り保有してしまったことを指していると取れる。
「壁にむかって」で描かれた恐らく4畳半か6畳のアパートの世界は、ここで一気に宇宙へと広がる。
アルバム全体が優秀な映画のような構成になっている『約束の地~Promised Land』。
人々の日常をいくつかの視点で切り取り、最後に「僕と彼女と週末に」が置かれる。
何気ない日常の背後に、とてつもない危機が迫ってきてしまっていることを見事に描いたと言える。
しかし、核の脅威や、怒りや、憤りを声高に主張するのでなく、芯のある作品へと昇華させる。
ここにソングライターとしての浜田省吾の真骨頂を見て取れると思う。
"約束の地"というタイトル自体は、当時彼が愛読していたというロバート・B・パーカーの作品名の影響も多少はあったかと思うが、ここに込められた思いも非常に気になるところだ。
アルバムジャケット上部には英語でこうも記されている。"THE GATE OF THE PROMISED LAND"。
"約束の地の門”というわけで、我々人類はけしてまだ約束の地、愛の世代の両方にたどり着いてはいない。
けれどまだ努力すれば、門を開き、愛の世代を迎えることができる。
こう解釈するのは深読みしすぎだろうか。
怒りから祈りへ
「僕と彼女と週末に」の後半は"君を守りたい" "人の心の 愛を信じたい"といった歌詞で埋められる。
冒頭で触れた浜田省吾の歌の世界、「怒り」はここで「祈り」に変わったのだと思う。
この曲の後も「A NEW STYLE WAR」「J.BOY」「詩人の鐘」「裸の王達」といった骨太の楽曲がリリースされており、怒りの表現も具体的になってはいるが、アジテーションの要素はまったく無く、自身の祈りを歌詞に込めているように思う。
怒りと祈りは同じメッセージ
そんなことを考え今日のステージを観たのだが、中盤から少し考えが変わった。
怒りも祈りも、根底は同じなんじゃないかと。
怒りと同時に、常に祈りがある。
怒りの根底に、祈りがある。
それが、浜田省吾のロックンロールなのだろうと。
それをファンは十分にわかっている。
だからこそ、こうして何十年もの間にわたって支持され続け、ファンの年齢の幅も広がっているのではないだろうか。
会場で突き上げられる拳は、浜田省吾とファンの間で交わされる「約束」に違いない。