「求められる」ことの影
休日に仕事関係の連絡を受けるという状況があるとする。ある人はそれに対して、自身のプライベートな時間を割いているため休めないから疎ましい、と感じる一方、ある人はそれを「自分が必要とされている」とポジティブに捉える。どちらが健全な考えなのだろうか。
まぁ、全ての物事は二元論で語れるはずが無く、どちらの捉え方にも良い点・悪い点があると思うが、私には前者の方が健全な考え方なのではないか?と思う(自戒を込めて)。
前者の考え方は、仕事と自身のプライベートな時間をしっかりと分けて考えている。自分自身の休息の時間を重視し、そこに他者の存在は関係ない。しかし、後者はその認識が行き過ぎると、自身のやりがいを他者に委ねすぎてしまうように思える。自分の就業時間外の時間を差し出さなければ、他者から必要とされているように感じないのか?そもそも、「他者から必要とされている」という感覚そのものに頼り切っているのではないか?
私は、後者のような傾向が非常に強い。夜中でも相談の連絡があれば受けるし、「メイさんだからお願いするんだけど」みたいなことを言われて何か依頼されたら喜んで引き受けることが多い。仕事を任されることに自分の存在意義を感じるのである。だから、またそう言ってもらえるように、自身に課された仕事については過剰なまでに完璧を求める。速さも求める。「仕事ができる」「頼れる」「任せておけば安心だ」……こういった言葉が最高の賛辞に思える。
でもそれって、結局は自分のことを自分で評価していないことの裏返しだ。自分の存在を、他者に依存している。自分の足で立てていない。そうして、自分で自分の人生を生きることが出来ないままに、静かに疲弊していく。こういうことに価値を求めすぎることは、漠然と「よくないこと」だという認識はある。
それでもなお、他者から必要とされること自体に、喜びを見出してしまう。それを絶対的な評価に据えるのではなく、プラスアルファのものとして捉えられれば、きっと少しは健全さが増すのかもしれない。
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