花束みたいな恋なんて、もう二度としない。
花束みたいなワンピースを着て
映画「花束みたいな恋をした」を観た。めちゃくちゃ泣くかなあと思って、落ちても気づかれなさそうなグレーのクリアマスカラをして行ったけど、湿っただけで涙は流れなくて、マスカラの心配は無駄だった。むしろクスクス笑った回数の方が多いんじゃないだろうか。誰を思い出すだろうと思ったが、予想通り、4年弱付き合った明大前に通ってた彼氏を思い出した。思い出しただけで、恋しくはならなかったけど、明大前の彼がこの映画を観たら、誰を思い出すのだろうとは思った。
イライラが止まらない
絵を描かなくなった麦くんのペン立てが映る横の本棚が、絹ちゃんと同じ本棚じゃないあたりから、私はイライラしてた。行くまでのわくわくを共有出来ないなら、一緒に舞台なんて行かなくていいし、パン屋さんが閉店したこと、そんな返事をするなら無視してくれた方がマシだと思った。しかも、麦くんは覚えてなかったんだよね、ストリートビューの最後のシーン、麦くんは笑ってたけど、わたしはイラっとした。(落ち着いて)
でも、同時にそのイライラをもう自分ではコントロール出来なくなった時のことを思い出して、ため息が出た。その思い出すら恋しいとか、切ないとかじゃない。ただただ、深いため息を映画館の中でついた。
好きが、遠くなる
好きだったところが、変わってしまったら、好きという気持ちだけ宙に浮いてしまう。少しずつ、話が噛み合わなくなってくる。何を言われてもイライラする。考える時間がどんどん減っていく。そんな風になってしまった恋人たちに、元通りになる術は存在しないのだろうか。
たくさん共感したのに、いろいろと思い出したのに涙は出なかった。この映画の中には確かに私の恋愛の欠片が散らばっていたのに、どこか彼らの来る別れを当たり前のように、冷静に見ている自分がいた。わたしの物語として見るには、時間が経ち過ぎて、気持ちの決着を付け終えていたからだと思う。
枯れた花束が溢れてる
花束みたいな恋ってなんだろう。絹ちゃんと麦くんの5年間が花束みたいな恋ならば、わたしがしてきた恋愛も大きな花束になりうる思い出たちだと思った。少し誇らしく、そう気づかせてくれたこの映画に感謝をしたけど、でも、それをもう一度したいとは思えなかった。
共通点があればあるほど、付き合う前に話が盛り上がれば盛り上がるほど、写真のように切り取られ記憶に残る恋人のふとした言葉の数が多ければ多いほど、恋は楽しいし、幸せだと思う。
でも、その記憶と目の前の恋人がずれていくことって「普通」にある。たくさん持っているそれぞれの顔が変わったり、変わらなかったり、消えたり、増えたりすることが「普通」なんだと思う。わたしはそうだった。違う人がいるなら、いいなあ。羨ましい。ピタッと合っていたふたりの息が、ずっと合っていくことなんてきっと、ありえないんだろうな。そう諦めてしまうほどには、わたしは年を重ねてしまったらしい。
さいごに
吉祥寺のくぐつ草でカレーと強いコーヒーを飲んで、パンを買って帰った。まだまだ思い出の中を泳ぎたくて、両耳で音楽を聴いて、無理やり昔のことを思い出してみたら、付き合う前に電車で酔ったおじさんの鞄をそっとよけてくれたこととか、誕生日に吉祥寺でもらったひまわりの花束のことを思い出して、胸がじんわりした。
また観たい。次は、同じような趣味の人と、あーだこーだ言いながら観たいな、そう思えた映画は初めてかもしれない。
あとさ、うまく話せなかったのに、もう自分の人生に関係のない人だと決めた途端に昔みたいに楽しく話せるあの現象。誰か名前をつけて、わたしに教えてください。
おしまい