同じ説明を使い回せない現象に、知的生産はどう対処できるのか?(ご意見を募集しています)
今回は Obsidian のハック的なことを書く記事ではなく、最近の知的生産に関する悩みを書いていきます。
知的生産という言葉は、しばしば、ドイツの社会学者・ルーマンが提唱した Zettelkasten とリンクされます。
この Zettelkasten は、情報をパーツと捉えて、それを相互にリンクさせることによって知的生産を促進する仕組みとして、現代でも愛用者の多いシステムです。
Zettelkasten を実践するためのツールは多く、Obsidian のほかにも Scrapbox や Notion などが挙げられます。
はてさて、この考え方を取り入れて結構な月日が経ちました。メモ同士のリンクはいい結果をもたらすことも多いので、助かっています。
しかし他方でこうも思うのです。
「このノートとこのノートは確かにリンクしている。でも、そのままの形や文章でリンクさせると、なんかしっくりこないな……」
ある物事に特化した表現や説明をリンクさせると、違う物事にはフィットしない、なんてことはよくある話です。
例えが的確かわかりませんが、友愛と恋愛と家族愛は同じ「愛」のカテゴリーに含まれていながら、それぞれまったく別の性質を持っています。男女の友情は成立するのか? なんてまさしく、意味のギャップから生まれていますよね。
そうした事象に同じ説明を使いまわしても、なんだかうまく説明できないし、納得感も生まれません。
かといって、そのために違う説明を書くほどに違う事象かというと、そうでもないんですよね。章立てすれば、アトミックにはなりえないですし。しかしながら事象の論拠を切り分けすぎてもなんのこっちゃわからない。
現状、お手上げ状態です。
現代の知的生産メソッドで、こうしたことを解消できる手立てはあるのかどうか、みなさんのお力を貸していただきたいなと思っています。
もしよろしければ、コメント欄などでご意見をいただけると助かります。