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死奏


 しとしとと初夏の雨が降っていた。車椅子を走らせるアスファルトからはチリチリと砂利が弾け飛ぶ音が時折聞こえた。


「先生、傘を差していただけますか。」


 男は車椅子を押しながら車椅子に乗ってる女に話しかけた。


「傘を差してもね、私は濡れずに済むけれど。君だけがこのまま私の家まで雨に打たれ続けなければいけない。」


「僕は平気ですよ。」


男が言うと、女は深い皺と血管の浮き出た手で折り畳み傘を広げる。


そして、「とんだ恥かかせだ。」と女は呟いた。


 アスファルトから匂い立つ微々たる土の香り。垣根から覗く青紫の紫陽花の花。その奥からはピアノの音色が聞こえてくる。たまに手を止めながらも、しっかりと音を奏ででいた。


「素敵な音色ですね。」

と、男は呟いた。


女は「ここは私の教え子の家だよ。でもあの子はもっと上手かった。

…でも昔の話さ。おそらくこの音はあの子の娘か誰かだろう。」


「親子でピアノですか、いいですね。」


「あぁ、教えた甲斐があったってもんだよ。しかし、娘もまさかピアノを弾いてるだなんて。」


男は白髪の女の小さい背中を見つめながら車椅子を押した。


「その教え子は生まれつき体が弱くてね。音大もやっとのことで卒業したんだ。本当は海外も考えてたんだがな。病気がちでね。……子供が出来たと聞いた時はそりゃあ驚いたが。…そこから音信不通でね。」


「そうなんですか?ご実家なら電話の一本でも……」


男がそう言うと女は笑った。


「そうだな、私が死んだときにでも電話してみることにするよ。」


男は「またご冗談を。」と呟き玄関の鉄格子を開けた。


「いつも送ってくれてありがとうね。今、一曲、弾きたい気分になった。客人として聴いて行ってくれないか。」


「ええ。……しかし僕でいいのでしょうか。ピアノ音楽の知識なんてからっきしで。」


「何もわからぬ若僧に聴かせるのも、たまにはいいものだ。」



男は女の両手を取りピアノ部屋に連れて行った。

女はハンカチで手を拭きピアノに触れた。そして覗いた鍵盤に手を這わせる。


「モーツァルトの名前ぐらいは知ってるかね。」

「はい。」


女はゆっくりと体を揺らしたと思うと、ピアノに取り憑かれるように物語の中に身を沈めた。


男はその優しい音色に静かに涙した。


しとしとと降り注ぐ初夏の雨もまだ止む気配はなかった。

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