ゴッホミュージアム/兄弟
アムステルダムのゴッホミュージアム。
前回のnoteの続きを書いていく。
ミュージアムの最初の展示室は自画像のみ。
自画像を沢山描いたのはモデル代を支払う必要がないという経済的な理由に加え、画法を実験したり表情を研究したりする理由もあったそう。たしかにそれぞれの自画像にそれぞれのゴッホがいて、全て別人であるかの様。
もし自分が画家であれば、自画像を何枚も書くと言うことは自分の核を掴む様な行為に等しいと思うので怖いだろうなと想像する。
何度も何度も、時間をかけて自分と向き合うのは凄いと思った。
私の中のゴッホ像は、原田マハ『たゆたえども沈まず』に大いに影響を受けていると思うが、ゴッホは描くことに関して、ストイックという形容とは違った、ある種の狂気があると感じる。
それ故に弱さやネガティブな感情も含め、内なる自分を抉るように観察して描いていたのではないかと思った。
一方これら二枚は自画像でありながら、中盤に展示されている。
フィンセント・ファン・ゴッホを語るには弟であるテオについて知ることがほとんど必須であると思う。(これ以降兄弟の識別のためにフィンセント、テオと書く)
他にも兄弟はいたが、フィンセントとテオはお互いを支え合う親友のような関係性だったらしい。現代アーティストに例えるとビリーとフィネアスのような感じかなと思った。
端的に言うとテオは画商として成功しフィンセントのパトロンを担っていた。
フィンセントは自分自身を田舎の人という認識をしていたため、右の絵のように麦わら帽子と共に描かれた自画像が多いらしいが、左の絵はどうだろう。中折れ帽子といういかにも都会的でブルジョワ的な人物。兄弟二人は見た目が似ていたため、これはフィンセントかテオか見分けがつかないらしい。(左端に見える作品名も曖昧である)
フィンセントらしい作品だと思った。
小さいサイズ感も相まって祭壇画の様に並んだ神聖な自画像だと思う。
弟と自分を重ねていたのか、単純に弟を描いたのか、その真意はわからないが、兄弟が特別な関係性であったことがこの二枚の絵画から伝わる気がした。
ミュージアムと小説を享受して、ゴッホが最も好きなアーティストの内の一人になった。
作品を通してアーティストの脳内を覗いたり当時の状況を知ったりすることに幸せを感じる。