練習と実践
以前、「練習ってしないんですか?」
みたいなことを言われたんだけど(違う言い方だったかもしれない。けど忘れた)
一瞬意味が分からなくて、「ん?アーサナのこと?」と聞き返した。
どうやら私がクラスで、あまり前で一緒になって動かないことから、この人ほんまにヨガやってる人なん?て思われたらしい。笑(金子マヤなんか偉そうだけど、それ、そのポーズできんのか?みたいな)
そして彼女にとっては、フォトジェニックなヨガポーズをキメられることや、そのtutorial(なんか知らんがややこしいポーズのHow to 動画とか?)をSNSにたくさん上げて評価をもらうことが価値あることなんだそうな。
苦笑いするしかなかった。
“練習練習”言うけどさ、それ何のことなのだろう?
アーサナの、身体的な練習で言ったら、ぶっちゃけ私は毎日はしていない。日によってまちまち。3時間みっちり動く日もあれば、1時間、30分の日もある。15分だけストレッチや太陽礼拝で終わる日もあれば、全く何もしない日もある。うん。
毎日何時間も?そんな暇ない。いや、暇は作ろうと思えばできるし、やろうと思えばできるのだろうけど、そのエネルギーがない。パン達がもう少し小さい時は(0歳2歳とか)、ヨガとか自分の事に気を向ける精神的余裕が清々しいほどなかった。向いてるベクトルが違うというか何というか、マット敷いて10分だけでも動こう!ママになっても自分時間!みたいな気分にならなかった。
目の前のタスクに全集中して、余計なこと考えず、誰とも比べず、とにかく今を全力で生きて「パンたち今日も生かしました神様ありがとう」ってこれもうヨガってことでいいよね?笑
毎日きっちり練習する人たち(例えばアシュタンギ)を否定したいのではなく、「ヨガはアーサナだけじゃないよ〜」ってのを、練習しないことの言い訳にするのでもなく、ヨガの道は人それぞれ。広い視野と、長い目で見た時にその人の中でちゃんと辻褄が合っていればいいのだ。
病気や怪我で身体の動きに制限がある人や、歳とともに以前のような動きができない人はヨガの“練習”ができないのだろうか?否。プラナヤマや、メディテーションもある。哲学や思想への探究を深めることもできる。
毎日とにかくマットに向かうことと、それを何年も続けることから見えてくるものももちろんあるだろう。だけど私にとってヨガは日常の延長にあり、暮らしに合わせて変化してゆくものだから、あまり特別視していない。ヨガのために生きているのではなく、ヨガのある暮らしを自分らしく生きたい。
前置きが長くなったけど、「練習」と「実践」は同じようでいて少し違う。
練習には人それぞれの意味合いや、想いがあるだろう。多くの人にとってそれは規律や身体的な鍛錬を意味するかも知れない。一方でヨガの実践とは、切り取ったどこか一部分を指すのではなく、日常、いや人生そのものも含む。マットの上で披露する素晴らしいポーズや、人を魅了するHow to 動画(「開脚できない人これやって!」とか「ハンドスタンドこうすればできる!」とか)は、切り取られた一部分だということを忘れてはいけない。それだけを見たら「すごい!」となるかも知れないけれど、それが90分のクラスだとしたらどうだろう?その人は前後にどんな動きを持ってくるだろう?そのクラスにはどんな影響力があるだろうか?
ヨガの実践(教えることも含む)には思考や、言動や、その人の言わば人となりも全て反映されるから、私はやはりマットの外の日常をヨガとリンクさせたいし、言動に一貫性を持っていたいとずっと思っている。マットの上で見栄を張ったり取り繕おうともしないし、教えることも自分が経験・実践したことと必ず同一線上にある。
いつの時代も自分の眼でしっかりと物事を見定める、ヨガの実践者でいたいと思っている。
・・・てかそもそも人に物を教えるのに「なんもしてない」なんてあるわけないじゃんね?笑
「練習してますか?」って、あなたの言う“練習”と私の“実践”とで解釈の違いはあるかもだけど、なんもしてなかったらクラスなんて教えらんねーっつの。
“Mere logic never moves us; there must be something transcending the intellect.”
- D.T.Suzuki
“単なる理論はけっしてわれわれを動かさない。そこには知性を超えた何かがなければならぬ”
- 鈴木大拙
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