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アラインメントって正義なの?

ヨガの世界に“アラインメント”という言葉は非常によく登場します。alignmentとは整列することを意味し、転じてヨガのアーサナを整えるためのガイドラインとして認識されるようになりました。アーサナを取る上で整えるべき身体のあちこち、“正しく”物事が執り行われるための注意、決まり、ルール・・・そんなふうに少しピシッとした「やるべきこと」として、昨今のヨガの世界にアラインメントはかなりの存在感を持って存在しているのだと思います。

しかし、そんなアラインメントの概念が暴走して「ルール」や「正義」になってはいないでしょうか?

思い返せば私にもそんな時期がありました。
ヨガは決して楽で心地良いものではないはず。怠けた下肢を強化しなければアサナの安定はない!安定のないところに快適さはない!長年蓄積されたパターンはちょっとやそっとの取り組みじゃ変わらない!
・・・かなりうるさく厳しく、重箱の隅をつつくかのように細かなアラインメントまで、ああしろ、こうしろ…それがヨガのアサナを練習する基本的な姿勢であり、信念だと思っていました。信念はやがて正義になり、「こうあるべき」という頑なさや他の排除、視野の狭さを生み出しました。

教えている生徒さんが「変わった!」とか
(人が自分のおかげで変わったとか思うのホントおこがましいよね)
「アサナが深まった!」とか「初めてトリコナアーサナを理解できた気がします」とか言われたら、ますますアラインメントの正義を振りかざして「正しい」道を突っ走ることになるのですよね。痛い。

もっと目の前の「ひと」を見たら、自分の正義感なんて取るに足らないものだと気づくでしょう。

大前提として、アラインメントはルールではありません。
流派による解釈は微妙に違い、そこで経験することも様々だからです。

そもそも、目の前の生徒さんはあなたの熱を上げているものを同じ熱量で求めてはいないかも。

物事のあるべき配置(本来のアラインメントの意味)はとても大事だと思います。けれど、それは見た目の形の正しさやアサナの深さ、出来映えといったものよりもう少し深いところで探るものです。

アラインメントアラインメントって口うるさく言ってきた私ですが、実はアラインメントを教えるのにはもうひとつ熟練が必要だったんだな、とここ数年で気付きました。

意味を持った序列や配置であるためにはどうすれば?その人の日常は?人生は?

物事のいろんな繋がりや関係性なくしてヨガは成り立たないのだと気づくと(そしてそれはVinyasaの大切なコンセプトでもあるのですが)なにか大きなものにひれ伏したくなるような気持ちになるのです。

“The art of teaching is tolerance.
Humbleness is the art of learning.”
− B.K.S. Iyengar
“教える側は寛大であれ
学ぶ側は謙虚であれ”
− B.K.S.アイアンガー

#humbleness
#ヨガティーチャーのひとりごと
#信念を持つことと頑なになることは違う
#教えることはむずかしいのです

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