人間を辞めたい人間

変わっていると言われる人は、どちらかになりたいと願ったことがあるだろう。普通になりたい、あるいは特別になりたいと。私はそのどちらとも思っていない。最近どう思っているのか答えが出た。どうやら私はそれよりもまず人であることを諦めたいと思っているらしい。

特別にしろ普通にしろ私はわたしであることを辞められない。人である以上は名前を呼ばれて目と目を見合わせて認知されてしまう。個人として認められないためにはどうしたらよいのだろう。透明な存在になりたい。では、そもそも人間の欄外に降りて評価すらされなければいいのではないか。まともに人扱いされないために、近年はなるべく適切な環境に身を置くようにした。人の辞め方は大きく分けて二つのパターンがあった。一つは概念になってヒトを上ること。もう一つは動物になってヒトを降りることである。

まず仕事をうまく出来ているとき、私は私ではない何者かになることができた。あるときは役者をやる。またあるときは案内係をやる。そうして私の名前を呼ばれることがない場で装置や設備のように振る舞うのだ。〇〇さん。と、役柄で呼ばれるとそれに徹した。何かになった。役割はやるべき仕事の数だけあって、才能がある人も普通の人も収まるべきところがあった。私は現場において求められていることがよく分かった。手の足りないところに収まり物語の一部や会場に一部になった。蟻の群れを成り立たせるために働く一匹が目に留まることがないように紛れていた。真社会性の前で私は何か大いなる意志を遂げる細胞の一つだった。私は世界で世界とは私だった。そんな具合に心を手放すと人間をあがることができた。失ったはずなのにようやく幸せのように感じた。

また非言語的なコミュニケーションを取る生き物とそのように関わっているときにも何ものにもならないことができる。相手が動きを見せる。と、自分はそれに適応して動く。ただ繰り返すだけ。勝手に言葉のない会話は始まって気がつけば終わっている。赤ん坊や動物は自分がどのようなもので、自分にとって相手は何者であるなんていちいち考えていない。ただ一緒に何かをやってその場に現象のようにして存在し流れに身を任せれば良かった。ちょっとでも社会性を持つと終わりだった。三者以上の集団と比較し平均的な振る舞を意識する。と、波のように寄せては返すだけの関わりは途絶えてしまう。人間社会において二者関係でいられる場は多くなかったが、そういう場面では私は沈黙を好んだ。あえて言葉を手放すと人間をおりることができた。それで困ることも特になかった。私の行動は話す以上に雄弁であったのだ。

このように私は強く空気になりたいと望む。空気は普通と似ているが全然別のものだ。何もない普通の人間は実は色々ある。まず常識、そして(あるある)を身につけている。その上で嬉しいとか悲しいとか恥ずかしいとか人に認められたいとか、多様な気持ちすらも持ち合わせている。自分にとって、そういうのは邪魔だった。何か思い悩むと行動が淀んで滞る。考えることなく過ごすためには普通ではいれなかった。思えば子供のころは家具になりたかった。家にあって不自然じゃないからだ。なるべく口もきかずに部屋の隅で天井を眺めて暮らす。それが一番心地よかった。何週間もそうやって過ごしていると子どもらしくないと嘆かれた。そんなものの何が楽しいのかと。楽しくなくても意味がなくても良かった。自分の望みが望まれていないのは少し悲しかった。望ましい望みだけを持ちたかった。

自然と過ごそうと工夫をすればするほど不自然になっていく。なぜなら人間は不完全なものだからだ。じゃあ不完全になりたいと思った方がよいのだろうか。逆説に陥って何も望むことができやしない。だから望まない。望まないことをする。私は空っぽだ。でも何もないわけじゃない。残念ながら空虚がある。とても大きな空虚だ。それはある。普通にも特別にもなりたくない。何も望まないために何者にもならないために、全てを望んでいる。たくさんやることがある。人間を辞めたがるということは人間しかできない行為だ。皮肉にも構造的にはとても人間らしいので、ぜひみなさまにもそう見てもらいたいものです。

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