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ラストパイ、織山尚大。

松本じろさんのラストパイを聴きながら目を閉じると、今ならまだ、あの美しい空間に戻ることができる。

19歳。
頬のまるみに幼さが残っていて、身体の線もまだ大人の男性のものでは無く細い。
けれど踊るための筋肉をまとった身体は逞しくもある。
まだ何も知らない子供のように澄んでいて綺麗なのに、でも、何かを悟っているような瞳。
なにもみてはいない、けれど、じっと「なにか」をみつめているような、矛盾するような瞳が本当に印象的だった。

アンバランスさの上に成り立つ、美しい美しいラストパイ。
ひたすらに踊る姿が、浮かんでくる。

でもきっと時間が経つにつれ、日常に戻るにつれ、鮮明な記憶はだんだんと薄れていくから。

だから此処に、とどめておこう。

何年か後も、この気持ちを鮮やかに思い出せるように。


2023315日。
真っ暗に暗転した空間にくりかえし鳴り響く

ド、タ
ド、タ

という、心臓の拍動のような、地を這うリズム。
やがて聴こえてくる地を踏みつける音。
暗闇の中で、ああ、もう踊っているんだ、と気付く。

突如、ぴかぴかと雷のようなフラッシュ光に、踊る彼が鮮やかに浮かぶ。

息をのむほど美しかった。

ここから40分間。

40分の過酷な時間は、ゆるやかに始まるのかと思っていたけれど、そんなことは無かった。
はじめから全神経を集中させて踊っていることが、一目でわかった。

しばらく観ていると、いくつかの振付が繰り返されていることに気付く。
繰り返される振付、倒れ込み、やがてまた起き上がる。
次第にそれは苦痛の表情を帯びて、観ている自分も息が出来なくなるような感覚を覚えた。

黒田さんがYouTubeで、

「観る方も過酷な舞台」

と言っていた意味がわかった気がした。

中盤以降は、本当に倒れてしまったのかと不安になるくらい、苦しそうに倒れ、胸で大きく息をしていた。
それが踊り続けることによる真実の反応なのか、振付なのかは分からない。
けれど倒れてもふたたび立ち上がる姿は、ほんとうに美しかった。

ラストパイについて、多くの方が体感10分くらい、と言うのは、演者さん全員が素晴らしいからなのはもちろんなのだけど、この作品の構成によるのかもしれない。

ド、タ
ド、タ

というリズムは、40分間を通じて一度もリズムが変わることなく、途切れることなく繰り返される。
松本じろさんが紡ぐギターと歌もまた、変化はあるけれども、3/4拍子のリズムから逸脱することは無い。
心臓の拍動のようなそのリズムと、規則的なメロディー。

いつくかの繰り返しの振付を踊り、倒れ、立ち上がる姿が繰り返される。
それを観ているうち、だんだんとおかしな感覚になってくる。
ずっとずっと以前からこの空間に居たような、反面、つい今しがたこの空間に立ち入った
ような、訳のわからない時間感覚が麻痺していくように、構成されている。
観る人は目の前の光景だけを感じとれるような、神経が研ぎ澄まされたような状態に、自然と引っ張られていく。

それでも、次第に熱を帯びていくギターと松本じろさんの歌声に、ああ、もうすぐ終わるんだ、と気づく。

初めてのラストパイは、あっという間だった。
その世界観に、ダンスに圧倒され、振り付けの流れと舞台構成を把握するので精一杯だった。

織山さんがカーテンコールではじめに出てきた時と2回目に出て来た時は意識が朦朧としていて、本能で立ってお辞儀をしているようだった。
きゅっとしてしまうのがクセだというあの口元は、ぽかんと緩んでいた。
観客を見ているのか、虚空の何かを見つめているのか解らない、ライトに照らされた表情に不安を覚えた。
それでも、松本じろさんへの拍手を促したりと、座長の役割を全うしようとする姿が、まだ未成年なのにと思って胸が締め付けられた。
精神も肉体も極限まで追い詰められているはずなのに、織山さんはほんの少しだけ微笑んでいた。
それで、観客の反応を受け止めることができる状態ではあるんだな、と少し安心した。

ラストパイについて、黒田さんは

「この二作品に焼き付いているのは、「何か」が失われていくのを分かっていながらその「何か」をもがきながら抱きしめようとする姿」
「ラストパイでは生命そのものが、いつも抱き戻されている」

と述べている(フライヤーより引用)。
また、

「ひたすら踊ることで放たれる捧げもののような愛を受け取って」

とも述べている(YouTube Bunkamura channel202339日より引用)

ラストパイについて語られる、「生命」「捧げもののような愛」「供儀」「純度の高いエネルギー」というキーワード。
正直、初めて舞台を観終えた時わたしはなにを受け取れば良かったのか分からなかった。
織山さんの生命を具現化した踊りに惹きつけられ、圧倒されはした。

しかし、はたして「何か」を受け取ったのだろうか?
と考えていた。

今思えば、観劇前にわたしが勝手にイメージし、期待していた世界観のせいだったと思う。
わたしは、彼が観客に目線をやったり、舞台の上手下手を移動したり、踊り手と観客のあいだで相互にエネルギーの移動がなされるような、そんなものを勝手に期待していた。

だから、彼の放つエネルギーに圧倒され感服しながらも、

思ったものと違った、

と感じていた。

「捧げもののような愛」

を、受け取れたのかはわからない。

その素晴らしい生命に、生命を具現化する若者に圧倒され、心は震えたけれど、私は愛を受け取れなかった。
わたしはただの観客でしかなかったし、彼を遠くに感じた。

次にみたときには、何か変わるだろうか?


わたしにとって2回目の公演、2023年3月17日。
15日とは違う踊りだった。
振付は同じ、だけどなにか、違う。

前回はなんだか、「むき出しの踊り」だったように感じた。
今日は、表現者としての踊りが見えた気がした。
なにより、全身からエネルギーが発せられているように感じた。

終盤、何度も自分の胸を打ちつけながら倒れ込み、しばらくしてのち、また立ち上がり、天を仰ぎながら両腕を天に差し出したところがいちばん印象に残った。
実際、30分近く途切れることなく踊り続けてしんどかっただろうけれど、倒れて、つらくてもまた立ち上がり生きる「生命」が、表現として素晴らしかった。

もちろん此処から先ラストまでは圧巻だった。
苦痛の表情を浮かべながらも鬼気迫る目つきで、40分間でいちばん美しかった。

最後、大きく飛び上がりライトに強く照らされたと思った瞬間、暗転。
まるで、星が最期に、大きな光を放ち消えていくように、彼も消えてしまった。
強烈な寂しさが襲ってきたけれど、とにかく美しかった。

カーテンコールでは、口の動きだけではなく大きな声で

「ありがとうございました!」

と、織山さんは言った。

割れんばかりの拍手が湧き起こった。
わたしが観た3日間のなかでは、この日が一番の拍手だったと思う。

そしてこの日、わたしが受け取るべきものは、双方向の、とか、そういうものでは無いのだと、わたしが受け取るべきものが何か、黒田さんの言葉の意味が、スッと自分の中にに入ってきた感覚があった。
織山さんがブログ(忍ばない少年達の交換日記 3月15日)でしきりに

1人

と、言っていたのが何故なのか、ずっと気になっていた。
舞台の構成として、彼はずっと下手前にいる。
からだの向きも下手の袖を向いていて、立ち位置はそこから動かない。
観客席に目線をやることも基本的に無い。
ずっと力強く「何か」をみつめているけれど、それは現実の目の前にあるのものを見ているのでは、きっと無い。

観客と彼と、目線は合わない。

群舞も、誰も彼に触れられない。
近づくことは出来ても、決して触れられない。

彼はひとりで踊っている。
ただひたすらに、ひとりだ。
天井から降り注ぐ音楽だけが唯一、彼と一体となっている。

ただひたすらにひとり踊る彼を

ただひたすらにみつめるしか術がない観客。織山さんが言う

1人

は、そういうことなのかもしれない、と思った。

彼はひとり、観客もひとり。

けれども、彼は観客に愛を渡してくれる。

「どこに行っても手に入らないくらいの純度の高いエネルギー(パンフレットより引用)」
を燃やし、供儀となった彼を、私たちは一心にみつめている。
彼はきっと、神への供儀では無い。
そんなものではない。

観るものに、もがき苦しみながら生きている人間に捧げられた、美しい供儀。

たったひとりで

何度も何度も倒れては

ふたたび生きようとする姿こそが

生命そのもので観る者への捧げものであり、彼の存在そのものが愛なのだ、と。

そんなことをおもうと、苦しくてたまらない。
フライヤーの中で黒田さんは

「私たちは力一杯愛する事、力一杯生きる事が本来よく似合う生き物なんだという事を、皆さんにお渡しできたら幸せ」

と述べ、パンフレットでは

「ダンスになろうとする姿は生命力の権化でした。踊り果てもう立てないと思った次の瞬間には「立てない」という言葉すら失っていきます。そして現れるのは、次の一瞬をただひたすら生きようとする体です。
体には次の一瞬への愛情が詰まっています。この愛情の矛先はもはや自分に向くものではありません。
ご覧いただくのも過酷な作品ですが、可視化された生命力と放たれ捧げられた愛情を受け止めて頂けましたらと祈っております。」

と述べている。

なんて残酷なんだろう。
織山さんにとって、なんて残酷な言葉なんだろう。
彼はそんな言葉をまっすぐに受け止めるにきまっているから。
「誰よりも努力家」で「ストイック」がデフォルトな織山さんが、珍しく「ラストパイのリハーサルに行くのがこわい(クロワゼvol.90)」と言っていた意味。
私は「踊りそのものになること」と「倒れ込むまで踊ること」は同義では無いと思っている。

SNSでみた、たくさんの方の大阪初日レポを拝見し、そして自分の目で2日目を観たとき

ああ、織山さんはそれを選んだんだ、

と思った。
限界を超えるまで踊り、観た者の多くが「命を削って」と表現する踊りを選んだんだ。
彼以外のスタッフはみんな大人だから、当然ながら「毎回倒れ込むまで踊れ」なんて、誰も言わないだろう。
だからこれは、織山さんが自ら、限界を超えて倒れ込むまで踊る方法で、「生命=愛」を伝えることを選んだのだと。

倒れて

足を引き摺って

過呼吸になって

命を削って

これが僕がみせられる「生命」だ、と。

もしかしたら、彼の中で、生命を、愛を伝える方法がそれしか無かったのかもしれない。
そんな彼の姿に、感動しながらも胸を締め付けられた。

それでも、大阪楽の彼は、毎日進化を遂げている彼は、表現で生命を伝えることをしはじめているようにみえた。
ど素人のわたしには結局分からない。
分からないけど、そう、倒れ込まなかったら限界出してないとか、そういうことでは決して無いんだと、彼の次の階段が見えたような姿に、なぜだか励まされた。


3月23日、7回目の公演。
とてもしんどそうだったというレポを多くみた。大阪楽で観たときは、ギリギリのところで踏み止まって、表現を通して伝えることをし始めている感じがしていた。

けれど今日のレポを見ているとすごく不安になる。

ラストパイの、評判が評判を呼ぶような状態で、いよいよシアターコクーンとなってしまったが故に、彼は

もっと、もっと、求められている

と、自分を追い詰めているのではないか。
倒れ込まなくても、あなたは今既にとても素晴らしい表現者で、ちゃんと生命を伝えられているよって、届けばいいのに。


3月25日、8回目公演。
私にとっては、最後のラストパイ。
一瞬ものがさず目に焼き付けたいと思いながら、見つめた。

30回。

ド、タ
ド、タ

というリズムが響くのを数えていた。
やがて踊りだす音。
リズムが始まって60回目、閃光に映し出される彼。

ああ、くる、と鳥肌がたった。

大阪では、中性的な雰囲気を強く感じたけれど、今日は力強さを感じることが多かった。

翼のように両腕を広げる振り付けは、本当に鳥になったかのように、大きく後ろにまわって、ダイナミックで、足はなんの苦もなく蹴り上げているように見えた。
17日に何も見つめていないと思った瞳は、今日はなんだか、何かを見つめていた気がした。
観客なのか、群舞なのか、わからないけれど、虚空ではなかった、と信じている。

終盤、胸を強く打ちながら倒れ込み、やがて立ち上がり天を仰ぎ、両手を伸ばしながら天を仰ぐ振付、前回一番好きだ、と思ったところ。
今日は、前と違う感じがした。

立ち上がる所作、天を仰ぐ眼も、眼を拭う仕草も。何って言われると答えられないのだけど、強い意志を感じた。

クライマックス、1人で踊るパートは本当に本当に本当に素晴らしくて、「気魄」が眼に見えるものならば、これなのだろう、というような踊りで圧巻だった。
腕は上がりにくくなってたけれど、足はしっかりと上がっていた。
鋭い瞳。
ラスト2分くらいで大きな呻き声をあげていたけれど、心配になるような雰囲気ではなく、自分で自分を鼓舞してるような声だった。

カーテンコールでは、両脇を支えられている時は朦朧としていたようだったけれど、1人で歩く時はしっかり歩いて、観客席を見てお辞儀をしていた。

黒田さんのラストパイは、

「踊りになりたい」
「精神性が強いというのは仰るとおりだと思います。ただ、トランス状態というものになったことはないので、そこはなんとも言えませんね。そして、ダンスをつくるうえで、最初から極限状態に追い込もうとは考えていません。しかし、「削ぎ落としていく」という考え方ではあります。踊れば踊るほど、もうこれ以上踊れない、もう立つこともできない、といったそういう言葉すら、削ぎ落とされていく感覚です」
(いずれもLIVERARY MAGAZINE201629日記事より引用)

という黒田さんのメッセージから、踊りに踊り手の意思(意図)を、感じ無ければ感じ無いほど良いのだろうと解釈している。
虚飾を脱ぎ捨てるのなら、作品を通して表現したい演者の思惑も、きっと削ぎ落とされるべきなのだろう。
だから、意思が消え去らないと、きっとラストパイじゃないんだ。
でも、今日の織山さんの踊りは意思(意図)を感じた。
だからそれは、

「踊りそのもの」

になっていたかというと、わからない。
ラストパイのソリストとして、評価として、それが良いのかどうかは解らない。
でもいいんだ、そんなこと知らない。
私は今日のラストパイがいちばん好き。


本当は
倒れるまで踊ってほしくなかった。


本当は
命を削って、


命を削って生命の表現をしてほしくなかった。


なのに、そんな彼の姿を見て感動してしまう自分が、そんな姿をもっと見たいと思ってしまう自分が嫌だった。

彼の命を搾取して、犠牲にして、もっと観たいと思ってしまう事が、罪悪感でたまらなかった。
そんなことしなくても、あなたはちゃんと伝えられるダンサーだって、今日確信したから、もうそれでいい。

今日の踊りがいちばん好きだ。


「選べない


 交われない


 戻れない


 許されない


 終われない


 分からない


 それでも嬉しくてまだ止めない


 ただただ身体がもげそうで」

黒田さんのこの言葉を、織山さんがブログで引用したとき、「選べない」だけは引用しなかったこと。
置かれた環境や条件は選べなない。
どんな過酷な状況になるかも、選べない。
けれど。
今日の踊り。21人の大所帯の少年忍者での在り方。
置かれた場所で、どんな自分で在るかは、どんな風に生きるかは選べるって、彼が強く思ってるからなんだろう。と、そんなものを、今日受け取った。


そして3月26日、千穐楽。
わたしは見れなかったけど、みなさんのレポをみて、黒田さんの言葉をみて、喜びの感情が湧き上がってきた。

わたしの知っているラストパイは25日が最後だけれど、

「一夜でどうしてそんなに成長するの」

という黒田さんの言葉。
きっと、素晴らしいラストパイだったんだろう。



足を引きずり朦朧となっても、ならなくても


力強く踊りきってカーテンコールで自信に満ち溢れ、笑顔を振りまく姿でも


どちらでも、あなたはちゃんと「生命」を伝えられていたんだって


公演を重ねるたびに洗練されたされた踊りで

あなたがまとうエネルギーで
眼にみえぬ生命を具現化する圧倒的な表現力で

織山尚大は、どちらのアプローチでも生命を、愛を伝えられるすごいダンサーなんだと

自力で証明したんだ。



魂が震えるような芸術に出会えることは、人生そう多くない。
この2週間のこと、きっと忘れない。
19歳。
幼さの残る頬をしていた彼が、10年後どんな大人になっても、ラストパイの輝きは色褪せないし、忘れない。
織山さん、素晴らしい作品と感動をありがとう。



クソ長い文書を最後まで読んでくださったそこのあなた、ありがとうございました(._.)

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