noteを始めた理由について
1週間前あたりからnoteを始め、記事をポツポツと書いてきたが、そもそもなぜnoteを始めようと思ったのか。
なぜ、自分の考えを誰かに共有しようだなんて思い立ったのか。
それについても、記事としてまとめて書いておこうと思う。
きっかけは宇多田ヒカルさんのインタビュー記事。
ここ数年、宇多田ヒカルさんの曲をずっと聴き続けている。
特に、2016年に活動再開されてからの曲達が好きで、新作は必ずチェックするようにしているし、ネトフリで配信されているライブ映像は少なくとも10回以上は見た。
私の日常生活を支えてくれる存在である。
そんな宇多田ヒカルさんについて、先日ネットでインタビュー記事が公開された。
この記事の中で、宇多田さんは次のように語っている。
これを読んだ当初、正直私は少し落ち込んだというか、悩んでしまった。
宇多田さんがいう「誰とも関わらないで生きる方法」というのを私自身求めていたのに対し、「何のためにそんな生き方を?」「そんなことに意味があるの?」と指摘されたような気がした。
おそらく宇多田さんが言うように「誰とも関わらないで生きる」自分に、存在理由はないんだろうなと思う。
「生きているだけで十分」
「存在しているだけで十分」
そう思いたいところだが、ただそこにあるだけの肉体に、何の意味があるのか。
そう問われたときの答えは、おそらく本質的には、ないんだろうな、と思う。
とても、とても、悲しいことだけど。
ただ、私の中で存在理由があるとすれば
「そうしないと生きていけないから」。
そう、信じて生きているから、だと思っている。
共有が、苦手。
飲み会や仕事の雑談の中で、週末に何をしているかと聞かれることが多々あるが、そういったときいつも返答に困ってしまう。
現実を述べるとすれば「映画を見たり、漫画を読んだり、ゲームをして過ごしている」である。
買い物や旅行に行くこともあるし、友人等と食事することもあるが、自分の中では圧倒的に前者の過ごし方の方が「主」である。
しかし、「映画」の話をすれば、当然次の会話は「どんな映画を見るの?」である。
「漫画」であれ「ゲーム」であれ「音楽」であれ、同じだ。
「マイナーな映画の話をしても相手に伝わらないかもしれない…」
「相手が知っていそうなもの…かつ万人受けするもの…もし知らなかったとしても面白さが伝わりそうなもの…」
そんな思考が私の頭の中で、高速で駆け巡る。
しかし、この時点で、私としては会話を上手く切り上げたいと思っているのが正直なところである。そして、何とか他人の話題を出し、他人に語らせるための会話の糸口を探し始める。
ここが私の、どうしようもない「弱さ」だ。
自分のことを他人に語るのが、共有するのがどうしても苦手なのだ。
語ること、共有することに対して、とても疲れを感じるのだ。
それは過去の経験として、上手く他者とのコミュニケーションがとれなかったせいで友人と疎遠になってしまったことや、自分語りが多すぎたせいで相手を不愉快にさせてしまったことが、私の中で痛みとして残ってしまっているからだと思う。
だから、自分から語ること…自分から相手と関係を築こうとすることに対して、とても億劫に、疲れを感じてしまう。
また同じ痛みを味わうことになるかもしれない、その可能性を考えると、それを避けなければとても生きてはいけないとすら思えてしまうのだ。
自己完結してしまう弱さ。
大学時代にTwitterを友人に誘われ、始めた経験がある。
いわゆるリア垢だった。
しばらくの間はせっかく始めたのだから、とポツポツと意識的に呟くようにしていたが、しばらくして、自分にとって呟くことが心の負荷になっていることに気づいた。
何を呟けばいいのか、わからなくなっていた。
呟きたいと思うことが、何も自分にはないのだと気づいた。
友人と食事をしたり、映画を見にいったり、旅行に行ったり、数は少なかったが、何もしていないわけではないはずなのに、それを共有したいと思えなかった。
一緒に食事を行った友人が写真を即座にインスタに上げる姿を見ながら、自分も何かしなければいけない気がして、スマホをいじるフリをしていた。
「考えすぎだよ。呟きたいと思ったことを、呟けばいいだけじゃん。」
「別にいいねって言われたいわけでもないんでしょ?」
そう、友人には言われ、「そうだよねえ」と笑って返したが、わだかまりが消えることはなかった。
友人達が気軽に呟いていたかどうかなんて、私にはわからなかったけど。
それでも、楽しそうな思い出をTwitterやインスタに上げている人を見るたびに、”自分はどうしてこうなれないのか”ということに悩んで、辛くなり、
結局そのアカウントは消してしまった。
好きな映画や音楽はたくさんあったし、それについて考える機会もたくさんあった。
就職してからは、仕事をする上で悩みができたり、泣きながら帰る夜だってあった。
それを誰かに知ってほしいと思うことだって、幾度もあった。
しかし事実として、他人に共有しなくても「生きてはいける」のだ。
他人に悩みを聞いてもらうよりも、他人に解決策を求めるよりも
私にとっては自己完結してしまう方が、遥かに気持ちとしては楽だった。
それでいいと思っていた。
そう思うことで、何とか自分の精神を安定させていた。
やっと自分が見つけた生き方だと思っていた。
だけど、宇多田さんの記事を見て、就職後に出会えた一番の友人に言われた言葉を思い出した。
「あんまり、自分のこと、話してくれないよね」
「もっと話してくれていいのにな、って思うこともあるよ」
その時は、「ごめん、自分のこと話すの苦手でさ」と苦笑いをして、逃げた。
彼女がとても誠実な人間であることを私は知っていたはずなのに。
彼女はきっと私の「自己完結してしまう弱さ」を知っていた。
それでも、話してほしいと伝えてくれたのに。
私はそれに答えられていなかったのだ。
もっと早く気づくべきだったことに、やっと気づいた。
情けない。今更なのかもしれないけど。
『ドライブ・マイ・カー』の家福
先日、映画『ドライブ・マイ・カー』の記事を書いた。
その中で私は主人公の家福の弱さについて、「他人からの干渉をなるべく避け」「自分自身の弱さや相手の思いと向き合おうとしない人物」だと記した。
私も、結局、同じなのだと思う。
彼が自分自身の気持ちについて語らず、傷つこうとしなかったように。
私も自分自身のことについて語らず、傷つくことを内心は恐れていた。
他人に察してもらう、なんて甘えたことを無意識に考えていた。
自分のことを語らずに、相手に気づいてもらおうだなんて甘えでしかないのに。
自分のことを語ろうとしない人間に、誰も心を開こうだなんて思うはずないのに。
信頼なんてされるはずないのに。
「話ができて嬉しかった」と、言ってもらえたこと。
宇多田さんの記事、友人からの言葉、『ドライブ・マイ・カー』。
それらの要素が組み合わさって、私の中で”しこり”として残っていた時。
ちょうど職場の飲み会が開催された。
コロナもあったため、規模はかなり小さめ。参加者は同じ島の人間だけだった。
飲み会だと当然、プライベートな話になった。
「休みの日は何をしているのか」「帰宅後の過ごし方は」…
答えに窮した。だけど、”しこり”として残っていたものもあった。
「ネトフリとかアマプラずっと見て、ダラダラして過ごしてますよ」
「ええと…見るのは映画、ですかね」
「最近見て面白かったやつ?そうですね…映画館で見たやつであれば…」
ちょうど『トップガン マーヴェリック』を見た直後だったので、それを口にした。できれば、他の人に薦められればなんて思っていた。
だけど、今では『トップガン現象』なんて呼ばれるくらい話題になっているが、その時はそこまで話題になっていなかったため、周りの反応も「ふ〜ん…」くらいでしかなくて、話題を途切らせてしまった。
「ああやっぱり言わなきゃよかったかな」なんて、思いかけていた時だった。
「え、今『トップガン』の続編やってるの?」
「俺、一作目めちゃくちゃ好きでさ…」
1人が反応してくれた。
話を聞いていくと、結構な映画好きだということがわかった。
私よりもだいぶ年上の方だったので、主に90年代から2000年代前半の映画の話。私が知っている作品もあれば、私の知らない作品もあった。
それでも、最新作の映画の話でさえ共有できる機会なんてほとんどなかったのに。『セブン』や黒澤明の話を誰かとできるだなんて考えもしなかったのに。
「仕事しているだけだと、必要ないからこんな話しないもんね」
帰り道に、その人はそんなことを言っていた。
そう、多分こんな話をするのは飲み会の時だけだ。
普段はほとんど仕事の話しかしない。私もそれを望んでいる。
それでも。
「久しぶりに、映画の話ができて嬉しかったよ」
そう言ってもらえたことが、私自身とても嬉しかった。
そして、ああやっぱりそうかと気づいた。気づかされた。
今までだって、相手が私に興味を示してくれる機会なんて幾度もあったはずなのに。
自分の弱さゆえに、私は相手と向き合うことを逃げてしまっていた。
相手が築こうとした関係を一方的に閉ざしてしまっていた。
付き合いで聞いたのかもしれない。
ちゃんと聞く気なんてなかったのかもしれない。
適当に話題を選んだだけかもしれない。
今回のような事例は、滅多にないだろう。
そんなのわかりきっていることだ。
自分でもこんなことで、単純な人間だな、と思う。
それでも、伝えることで、何か変わることが、あるのだ。
瞬間的なものだったとしても、誰かを、自分を喜ばせることもできるのだ。
わかっていた。当たり前なことだと。
だけど、忘れていた。忘れることで、伝える努力から逃げていた。
伝えることで、辛くなる瞬間だってあるから。
受け取ったなら、返さなきゃ。
ネットを使えば、一方的に誰かの心を覗くなんて簡単なことだ。
自分のことを全く知られずに、相手のことを知ることができる。
覗きたい分を、覗きたいだけ、自分が傷つかない範囲で覗くことができる。
だから、私はたびたびネットを徘徊し、誰かの心を覗きにいっていた。
もちろん“いいね“なんか残さない。私という存在を知られたくなかったから。
自分のことを語るのは、共有することは、苦手なくせに。
映画にせよ、音楽にせよ、漫画にせよ、人生観にせよ。
誰かの感想を、肯定を、否定を、新しい発見を知りたくて、覗きにいっていた。
それでいいと思っていた。
実際、そういう人だって、多分、たくさんいる。
今まではそう思っていた。
だけど、誰かの心を覗いて、何かを受け取ったのなら。
そこで終わらせないために、私の中で生まれた何かを、返さなくてはいけない。
いや、返したいと思ったのだ、私は。
宇多田さんの記事を見て。
友人の言葉を思い出して。
『ドライブ・マイ・カー』を見て。
飲み会での出来事を経験して。
だってきっと、そこからまた新しい何かが生まれるから。
返さなくては、私の中だけで、終わってしまうから。
だから、伝える努力をする。
時にはどれだけ努力しても、伝わらないこともある。
相手を傷つけてしまうことも、自分が傷つくことも。
それでも、私が生きているという意味を、存在理由を残すために。
誰かに共有する努力をしなくてはならない。
そう、思ったのだ。
なぜ、noteを選んだのか?
当初はやはり共有というなら、Twitterやインスタの方がやりやすいと思っていた。なので、実際、Twitterのアカウントも作った。
しかし、いざ何かしら呟く、となると、なかなか心が動かなかった。
これもやはり、私の弱さなのだと思うが
思いついたことを、パッと口に出すのがどうしても苦手なようで。
Twitterのように、短い文字数で、ポンポン呟く、となると心にブレーキがかかってしまうのだ。このブレーキをなくすこと自体まではまだできていない。
では、ブログのような、考えをまとめてから投稿できるものであれば、どうだろう。
色々な媒体があるのは知っていたが、ネットを徘徊していた際、一番構成が見やすく、他者が作成した記事に対しても”いいね”がしやすく、フォロー等の機能がある点でも、一番noteが使いやすそうだなと思い、始めたわけである。
実際、アプリですぐに記事を編集し、プレビューを見て、修正し、投稿できるし、他者の記事についても調べやすいので、かなり使いやすいなあと思っている。
今のところ(と言ってもまだ1週間程だが…)、継続して記事を投稿できている点でも、自分にnoteは合っているのかなと思う。
前述した通り、自己完結した方が、誰にも共有しない方が、遥かに楽である。
それはやはり、どこまでいっても私にとっては、真実である。
それでも、誰かから受け取ったものを返すための努力をし続けたい。
今は、そう思っている。