假面の舞踏 1943

Cinema Japan Retrospective by Maya Grohn

監督 佐々木啓祐
脚本 野田高悟

映画内で触れられている安政条約というのは、安政五か国条約のことであり、江戸幕府が安政5年 (1858) にアメリカ、オランダ、ロシア、イギリス、フランスの五か国とそれぞれ結んだ不平等条約の総称である( Ansei Five-Power Treaties )。不平等とは、すなわち、領事裁判権の規定、関税自主権の欠如、片務的最恵国待遇(日露修好通商条約のみは双務的)をいう。
映画はノルマントン号遭難事件という歴史的事実を土台にしながらも、オッペケペー節をはじめ新橋ー横浜間の汽車と馬との競争などを盛り込んだ非常に娯楽性の高い映画でもある。単に反英映画として一言で片づけるのではなく1943年という時代から見える明治の世界を味わってもらいたい。また映画の中でも歌われているノルマントン号難破の歌の歌詞は59番まであるというのも驚く。昔の政治には日本人の遊び心がふんだんに盛り込まれていたようだ。ドレークが奴隷鬼と表記されていて笑える。

配役   
恒岡精一郎 ................  佐分利信
妹 敏江 ................  河野敏子
弟 伸二郎 ................  葉山正雄
母 お常 ................  葛城文子
菅沼潤之助 ................  徳大寺伸
父 常民 ................  斎藤達雄
妹 千恵 ................  水戸光子
お篠   ................  桑野通子
松島かほる 大久保晴子
父 顕正 藤野秀夫
母 高子 吉川満子
おきん 槙 芙佐子
おてつ 出雲八重子
演説会弁士甲 小沢栄太郎
             乙 近衛敏明
     丙 石山龍司
英国人  A 川原侃二
     B 川名 輝
     C 市川和吉
英国領事ヘンリー・マクドナルド................ 青山杉作
船長ウイリアム・ドレイク ................  山口勇
チャーレス・クーパー ................  外松良一
リチャード・コールドン ................  伊東光一
朱源章 ................  油井宗信
横川三平 ................  三井秀男
大井健六 ................  久保田勝巳
山口仙吉 ................  中川健三
青木一蔵 ................  土紀柊一
刑事局長 ................  奈良真養
巡査 ................  大友富右ヱ門
職人 ................  岩井扇之助
司法参事官 ................  山路義人
司法書記 ................  西村青児
  〃   ................  川辺孝二
守衛 ...............  遠山文雄
 〃 ................  島村俊雄
 〃 ................  寺田晴彦
 〃  ................  加藤清一
司会者 ................  長尾寛
女中 ................  松尾千鶴子
英国人 ................  山田好一
 〃  ................  倉田勇助
 〃  ................  南大治郎
 〃  ................  土田広三郎
 〃  ................ 市瀬俊雄

<ストーリー>

明治19年。東京
祭りの風景。
わっしょい、わっしょい、と、お御輿が通る。

「押してはいかんというのに」
ひとだかりの中、菅沼道場の門下生、大井と横川が大道芸をしている。
「かの有名な伊賀の国...、荒木又右エ門のあの極意だ。よろしいか。この割り箸を八枚の白紙にて」
子供に長い箸をもたせ、気合と同時に白紙で叩き切る。
「次は三本。箸三本は...にわたる。えいっ!」
子供はゆっくりと両手にもった箸を見る。三本の箸が切れたことがわかる。見物客が拍手する。
「まあ、待ちたまえ、諸君。感心したからといって、放り銭や投げ銭はどうなろうとも、吾輩は天下の剣士、大道で未熟なる武道を公開するとはいえ、そんじょそこらの見世物とはわけが違う。では次は、これなる竹を、」
「ああ、押してはいかん、下がって、下がって、」
大井が見物客を制御する。
横川がまた弁舌さわやかに、
「これとても無念流の極意である。天の光、地の湿り、鐘が鳴るのか撞木が鳴るか、陰陽合致して、えいと一声、阿吽の呼吸。よろしいか。えいっ!」

横川が竹を割ったとき、どこからか群衆が騒ぎ出し、逃げ惑う。馬に乗って祭り見物をしていた英国人の馬が暴れだしたのである。
「先生、先生、何をぼんやりしてるんだ。早くなんとかしてください」
群衆の一人が横川らに叫ぶ。
「よし」
「先生、お願いしますよ、止めてくださいよ」
人々に頼られて見過ごすわけにはいかない。横川は走ってくる馬の前に立ちふさがり、同時に大井に向かって、
「おい、道場に行ってみんなを呼んでこい、早く!」
馬がこちらにやってくる。
「わーっ!」
横川は大声で叫んだものの、さすがにちょっとへっぴり腰。

「どうしたの」
助太刀を呼びに走って転びそうになっている大井に、通りがかったお篠が声をかけるが、
「どうしたもこうしたも」
大井は返事をするひまもない。

一方、なんとか馬の口をとった横川は、
「おい、降りろ、降りないか」
英国人は横川を鞭で殴る。
「くそう、待て!」
横川は罵ったが、英国人はそのまま馬を走らせ、去っていく。

菅沼道場。
誰もいない。助太刀を呼びに来た大井が、
「みんなはどうしたんです?」
裁縫をしていた千恵に尋ねる。
「今日はお祭りでお休みよ」
「あ、そうか。先生は?」
「きょうは警視庁のお稽古に」
「仕様がないなあ。じゃあ、若先生は?」
「兄さんは新橋にお友達を迎えに行ったわ」
「新橋?」
「ええ」

新橋駅で。
菅沼道場の若先生、菅沼潤之助が、友人の恒岡精一郎を待っていた。

そこへ精一郎の弟の伸二郎 が潤之助にかけよる。
「すみません、どうも」
「やあ、君ひとりか」
「姉さん、だめなんですよ。ぐずぐず言ってて」
「どうして?」
4時20分到着の列車がまいります、とのアナウンス。
「さ、行こう」
ホームを歩きながら、
「これで兄さんも東京の本舞台に乗り出すわけだな。司法省の参事官といえば大したものだからな」

「汽車が来ますからあとへ下がってください、下がってください」
駅員が人々に声をかける。

新橋駅の正面。馬車が行きかう。

精一郎が現れ
「やあ」と潤之助に声をかける。
「おかえり」
「ただいま」

そこへ馬車から降りてきた洋装の女性大島かほる。同乗の英人に声をかける。
「ちょっとお待ちください」
「どうぞ」

それから彼女は改札に向かい、精一郎に会う。
彼女は精一郎の許婚者、かほるであった。
「お帰りなさい、精一郎さん」
腰をかがめ、西洋風に挨拶するかほるに、あっけにとられる精一郎。
「ほほほ、お忘れになって?」
「ああ、あなたでしたか。すみません」
「いいえ」
にこやかにかほるはまた西洋風に腰をかがめる。
伸二郎「そうやって見ると、まるで西洋人みたいだな」
「ほほ、そう見えます?」
潤之助「かほるさん、馬車で来たんでしょ」
「ええ、でも、あたくしこれからすぐ鹿鳴館のバザーに回らなければなりませんの」
伸二郎「なんだ、一緒にうちに行くのかと思った」
「ええ、いずれ伺いますわ」
精一郎は無表情で、
「ぼくもいずれ伺いますが、お父様、お母様によろしく」
「ええ、申し伝えます」
かほるは相変わらず浮き立った調子で答えてから、
「では」
と、優雅に手を差し出したものだから、精一郎は驚愕する。唖然としながらも仕方なく握手する。
「ごめんあそばせ」
呆然と見送る三人を尻目に、かほるは英国紳士に付き添われ、待たせていた馬車に乗り込む。
「いやあ、大したものだなあ。うわさはかねがね聞いていたが」皮肉っぽく潤之助が言う。

しばらくして、三人はひとりずつ人力車を連ねて家に向かう。

恒岡の家では、妹の敏江がかほるの洋装写真集を見てうっとりしている。
奥の座敷から笑い声が聞こえるが、敏江にはそれもわずらわしいらしい。
伸二郎が部屋に来て、
「姉さん、お母さんが呼んでるよ。潤之助さんが来てるんじゃないか」
「いやよ、つまんない」
「なんだい、それ。またかほるさんの写真か」
写真集に気が付いて伸二郎が言う。
「姉さんはなぜあんな人が羨ましいの」
「あんたなんかの知ったことじゃないわ」
「それで洋服でも着た日には、お母さん泣いちゃうぜ」
「あんたやお母さんには時世の移り変わりってものがわからないのよ」
「ふん、文明開化の風が吹く、か」

座敷では酒を飲みながら、潤之助が憤っている。
「しかしだ、もしも文明開化ってものがだね、いたずらに派手な洋服を着てダンスをしたり異人どものご機嫌をとるだけだったら、およそ文明開化ほど呪うべきものはないじゃないか。ねえ、そうでしょう」
言いながら、潤之助はお酌をする精一郎の母に相づちを求める。
「さあ、私には難しい理屈はわかりませんけれど、この頃のように一にも西洋、二にも西洋ではねえ」
「そうですとも。だいいち、何のためにあんな鹿鳴館なんてこしらえたんだか。あれはただ、紳士だとか淑女だとか言われたい連中が異人どものご機嫌取りにダンスをしたりバザーを開いたり。そんなことをしてだんだん日本を西洋かぶれにしていく。ただそれだけじゃないか」
精一郎「さあ、それは少し違いやしないかな」
「どうして」
「現在の日本の欧化政策というのはだね、決して日本を西洋かぶれにするためのものじゃないと僕は思う。現在日本は200年の鎖国の夢から覚めて一日も早く東洋の、いや世界の日本にならなきゃならないと思う。そのためには、鎖国のために遅れていた文物政道を一日も早く世界的水準に高めて、安政条約以来の領事裁判権などを、この際、断然撤廃しなければならないんだ。関税問題だって断然改革しなければならないんだ。
欧化政策はそのための手段なんだ。だから現在の隠忍は将来の飛躍を約束するものだと僕は思うんだ。十年後、二十年、五十年後、必ず日本が勇躍する日が来る」

潤之助「うむ、だがたとえば、たとえば、今日のかほるさんだ。君が青森に赴任したときはあんなにしとやかっだった人があんなに変わったのを見て君はいったいどう思う?」
そう言われて精一郎は答えられず、考え込む。母も目を伏せる。

一方、敏江は自分の部屋で相変わらずかほるの華やかな洋装写真にみとれ、自分も真似してポーズしたりしている。

「いやあ、かほるさんを例にとったのは僕が悪かったかもしれない」潤之助は謝った。
「ん、そんなことはないさ。ああいう連中のああいう生活も確かに日本の現在のひとつの姿には違いないんだ。しかし日本そのものはだね、ああいう連中の生活を、むしろその生活を踏み越えて、たくましく堂々と突き進みつつあると僕は信じているんだ」
「だからといってこの現状がいいとは言えまい。うちの道場なんかもずいぶんいろんな連中が通ってくるが、かれらのほとんどことごとくがこの現状に憤慨しているんだぜ。たとえば毎晩町の辻に立って演歌を謳っている法律書生にしてもそうだ」

その法律書生青木。世直しの歌を歌って人々にアピールしている。
「対等の条約を、
早く結べよ、
国のため
立憲制度の花を咲かそう
国民団結一致して
早くその実を結ばんと
大挙民来来
国民団結一致して
早くその実を結ばんと
大挙民来来」
「ところで、諸君、諸君は野毛の山からノーエの歌というを知ってるじゃろ。横浜の異人館で異人の兵隊が調練をしとるというあの歌だ。あんな怪しからん歌を歌ってはいかんぞ。歌うんならよろしくこの改良節や近代節を歌え。いいか、諸君、そもそも横浜の異人館の兵隊とは、イギリスの駐屯兵のことだ。横浜ばかりじゃない、神戸にもイギリスの駐屯兵がいる。なぜ英国は日本に駐屯兵を置くか。つまりは我が日本を劣等国とあなどって武力をもっておどかさんがためだ。イギリスの議会で、ある議員は、今なお日本に駐屯兵を置く必要ありや、と、質問したのに対して、イギリスの外務大臣はなんと答えたと思う? 余はいまなお日本に対して武力の有効なるを信ず。諸君、諸君はこの言葉をなんと考えるか。すなわち、日本の武力、日本の国力を甘く見て、明らかに軽蔑している言葉だぞ。」
「これ以上の侮辱があると思うか」
「諸君、それに何ぞや、近頃の世間の風潮は? 一にも西洋、二にも西洋だ。こんなことがいいと思うか、諸君、どうだ、諸君」
横川が駆け込んでくる。
「大変だ」
「なんだ、どうしたんだ」
「毛唐が、お篠さんを、」

射的場で。
ばたばたと音がしている。働いている女たちの声。
「ほんとにいけすかない平助さんだよ。ねえ、すみません、今晩もうおしまいなんですから」
異人はお篠の言葉を無視し、弓を引く。
「おう、御覧なさい、当たりました」
女が黙って矢の束を異人からとってしまう。
「おう、何しますか」
「時間だって、言ってるじゃありませんかよ。規則なんですよ。わからないのね、ほんとに」
「規則? ほほ、それ、ニッポンの規則。かまいません。よろしいです」
「そっちがよろしくてもね、こっちはよろしくないんですよ」
お篠が店を出ようとすると、異人がその肩を抱き寄せる。
「お、お篠さん、帰りましょう」
「いいの、私ひとりで、ねえ、放して、放して」
「このひとはしつこいね、ほんとに」
「およしなさい、ほんとに」
女たちが止めようとしているところに、さらに酔った異人二人が加わる。
「よう、ジョージ、」

横川が走りながら叫ぶ。
「おい、おい、おい、早く来い!」
「あわてるな」
「おい青木、あれだ」
横川と青木たちがお篠のところに駆けつけ、異人たちともみあいになる。

派手な殴り合いの後、警官が駆けつける。
異人たちはうちまかされ、女たちは喜んで青木にお礼を言う。
「すみませんでした」
「よかったわね。お篠ちゃん」
「しかも助けてもらったのは青木さんでしょ、ふふふ」
お篠は青木に駆け寄る。
「すみませんでした」

警官は異人たちに向かって
「君たちもだいぶ酔っているな」
「いいえ、お酒少しです。このひと、正気です。聞いてください」素面とはとても思えない様子。
「君たちも一緒に来たまえ」
警官はきっぱりと言う。一場面が抜けているようだが、警官は横川と青木を拘束し、同時に異人たちも拘束したらしい。

道場で。
潤之助が憤慨している。
「いや、なんにしても近頃の異人どもののさばり方というのは実に言語道断だと思うのです。たとえばその、馬で祭りを見物に来たやつにしたってそうです。」
千恵「でも、兄さん、精一郎さんだってそれをいいとはおっしゃらないんでしょう」
「それはそうだ。しかし、」
「だから精一郎さんは、」
「ははは、千恵はいつも昔から精一郎君びいきだからのう」
父の 常民が千恵をからかう。
「だって、おとうさま、」
「しかしおまえ、もし精一郎君があんな西洋かぶれをしたかほるさんをあのままで許しておくなら、それだけでも兄さんは精一郎君を軽蔑する」
「だって、それは仕方ないじゃありませんか。まだ奥様じゃないんですもの」
「じゃあ、おまえはあんなあいの子みたいな女を精一郎君に勧めるのか」
「それとこれとは違うことよ」
「いや」
「いや、もういい。もういいじゃないか」
父が割って入る。
「じゃ、そろそろ寝るとするか」
立ち上がった父は口ずさむ
「こうみよたじつぎょうなるののち、さいしはさいならず、ぐはぐならず (請看他日業成日 才子不才愚不愚) 木戸公(木戸孝允)の七絶(七言絶句)だ。どうだ、潤之助、わかるか」
言いおいて父は部屋を出る。
潤之助は考え込む。

そこへ門下生があわただしく駆け込んで戸をどんどん叩く。
「こんばんは、こんばんは、お休みですか。先生、お休みですか」
青木たちが捉えられたことを報告に来たようだ。

大島邸にて。
チャールズが西洋料理の講習をしている。
「これにシュガー入れます」
「酢?」
「シュガー、お砂糖です」
「あ、お砂糖?」
「そうです」
「千代や、お帳面」
「はい」
かほるは帳面に熱心にレシピを書きつける。
攪拌機を使って何やら攪拌したのち、チャールズは、
「あ、あなた、チチビンです。そのチチビンをとって」
と女中に言うが、女中はめんくらう。ガラス瓶をわたすと、
「ノー、ノー、ノー、それ、そのお湯のあるチチビン」
鉄瓶のお湯のことであった。
「これ?」
「そうです」
「これ、チチビン? はは」
女中はおかしくて笑いだしてしまう。
「何を笑うのよ、失礼ね」
かほるはおかんむりである。
「それにミルクと卵を入れて、それだけでよろしいんですの?」
「よろしいです」

かほるが料理講習に熱中している間、大島邸の奥では精一郎とかほるの父、 大島顕正 が話をしている。
「いや、君も知ってのとおり、イギリスの外交というのは実に老獪でな。支那にアヘン戦争を起こさせたのもそれなんだ。明治五年に改正されるべきはずの安政条約がいまはだめなんだよ。きついなあ。けしからん話だ。」
「しかし、日本の保護政策が条約改正をしたのが一部としてもおのずから限度があるのではないでしょうか」
「そりゃ、無論さ」
「それについて、実は今度帰ってきて驚いたのが、ことにそれが民間に誤り伝えられた場合には、」
精一郎がいいかけたとき、夫人がはいってくる。精一郎に頭を下げたのち、
「あなた、馬車の用意ができておりますが」
「ん、そうか。かほるはどうしたんだ?」
「は、いま、ちょっと」
夫人は申し訳なさそうに頭を下げた。
「はは、仕様のないやつだな。じゃあ、精一郎くん、まあ、ゆっくりしていってくれたまえ」
敏腕政治家の大島も娘には甘々らしい。
「は」
「では、ちょっと失礼」
夫人が腰をかがめる。
精一郎は応接間にひとり取り残される。

かほるが機嫌よく入ってくる。
「精一郎さん、お待ちどうさまでした。ね、これ召し上がってごらんになって」
精一郎は返事をしない。
「あらあ、怒ってらっしゃるの? だって、あたくし、お料理のお時間だったんですもの」
「そんなことじゃないんです」
「じゃあ、なあに。ね、そのかわり、わたくしいいことをお約束しますわ。今度の土曜日、敏江さんや伸二郎さんをお誘いして...、でも、いまは申し上げませんわ。楽しみはしまっておくほど増えるって申しますから。ほほほ、ほほほ」
精一郎の表情は固いままである。
「かほるさん、」
「え?」
「僕は失礼します」
「あら、どうなすったの。ね、まだおよろしいございませんの。ね、精一郎さん、ね」
かほるは追いかけていくが、精一郎はそのまま出ていく。

菅沼道場にて。
「えーい!」
激しく立ち合う二人。
見守る門下生の中に伸二郎の姿もある。

「胴!」
「参りました!」
精一郎が 常民に稽古をつけてもらっていたのだった。

奥で、稽古を終えた父と精一郎に千恵がお茶を入れている。
「どうぞ」
「おかげですっかりいい気持ちになりました。有難うございました」
精一郎は晴れ晴れした表情で常民に言う。かほるとの気持ちのわだかまりを剣で晴らしたのだろう。
「いや、なかなか鋭い太刀筋だ。少しも鈍っておらんのう」
「いえ、おじさんがかげんしてくださったからです」
「なあに、かげんなんぞするものか。ははは」
千恵が羽織をもってきて父に着せかける。
それを見て精一郎は微笑みながら、
「あなたは昔とちっとも変わりませんなあ」
「だって、変わりようがありませんもの」
父「いや、わしが旧弊じゃからのう、ははは」
「いやあ、女の人はあなたみたいにしているのが一番いい」
「そうでしょうか。でも、かほるさんのようなお方だって、」
「ああいう人は今の世の中にありすぎます」
「松島の娘、だいぶ昨今、跳ねまわっておるそうじゃないか」
「おとうさま、」
千恵がたしなめる。
「ん? いやいや、ははは」

潤之助が入ってくる。精一郎の姿を見て嬉しそうな表情になる。
「おお、来てたのか」
「うん」
千恵「お帰りなさい」
「ただいま」
「うん」
潤之助は父にきちんと挨拶する。
「どうした、青木たちの消息、いくらかわかったかな」
「全然わかりません」
「そうか」
潤之助は精一郎に向かって、
「ねえ、君。うちの門弟二人がイギリス人をやっつけて、その結果イギリスの領事館に引き渡されたんだがな」
「ああ、そのことならさっきおじさんから伺った」
「じゃあ聞くが、我が国にいる異人どもはたとえどんな悪事を働いても日本人にはそれを裁く権利がないばかりか、異人どもやっつけた日本人までがきゃつらの領事裁判を受けなければならない。そんな不法な話ってないと思うんだがな」
「うん、それなんだが、それが安政の条約以来の癌になっている、つまり治外法権というやつだな」
「じゃあ、今のところどうにもならんというわけか」
「そうなんだ、現在のところは」
「しかし、今度の場合なんかはね、その動機は明らかに異人どもの不法に原因しているんだし、」
「でもその条約が改正されない以上は、」
「ではどうだろう、この際だからいうが、ひとつイギリス領事館にかけあってもらえんだろうかね」
「うむ、そうなると個人としての問題を超えて、むしろ国家と国家との問題になる。いわばそれが今度の条約改正の問題の中の大きな条項のひとつでもあるんだから」
「それならなおさらけっこうじゃないか」
「いや、そう一概にはいかんよ。ものには順序というものがある。われわれが小さく動く以上に現在政府がその交渉を始めているときなんだよ」
「しかし、君」
「いや、この際、姑息な手段は慎むべきだよ」
「なに? 姑息だというのか、君は」
「兄さん、」
「うるさい」
「異人どもの不法をなじってその不当な監禁から日本人を奪い返すのが、なにが姑息なんだ」
「そのことを言うんじゃないよ。よしんば交渉次第でその人たちを救えるとしても、もしそのために国家としての大きな交渉が停滞するようなことがあればどうするんだ」
「そんな無法な」
「イギリスというのはそういう国なんだ」
「そんな馬鹿な」
「いや、多くの実例があるんだ」
「馬鹿な!」
「潤之助!」
父の声を無視し、飛び出してく潤之助。

潤之助はそのまま道場に入り、木刀をとって、
「誰か、来たまえ!おい、君だ。遠慮はいらん。思い切って打ってきたまえ」
激しい稽古が始まる。
「次だ!」
「次だ!」「次だ!」
潤之助は憤懣を稽古にぶつける。

鹿鳴館。
優雅にダンスをするかほる。

一方こちらは演芸館。
壮士芝居の流行歌、オッペケペーの曲が流れ、川上音二郎らしき侍姿の役者が登場する。

堅(かた)い裃(かみしも)角(かど)とれて「マンテル」「ヅボン」に人力車、意気な束髪(そくはつ)ボンネット。
貴女(きぢよ)に伸士のいでたちで。外部(うはべ)の飾(かざり)は立派だが、天地の真理が解(わか)らない。オツペケペ。オツペケペツポペッポーポー。

親父の職業は知らないが、おつむは当世の束髪で。ことばは開化の英語にて、なんにも知らずに知った顔。むやみに西洋を鼻にかけ、日本酒なんぞは飲まれない、ビールに、ブランデー、ベルモツト。腹にも慣れない洋食を、やたらに喰ふのも負け惜しみ。内緒でこっそり反吐ついて。まじめな顔してコーヒ飲む。おやおかしいね。およしなさい。オツペケペ。オツペケペツポペッポーポー。

聴衆の中に菅沼一家も。潤之助は父と妹の千恵を連れて演芸館に来ていたのである。
「どうです、お父さん」
「うん、なかなか皮肉じゃのう。これはだいぶ耳の痛い連中も多かろう。のう、お千恵」
「あら、ほほ」
休憩中に、売り子がお茶を売りにくる。
「三人です」「どうもお待ち同様でございます」
千恵がお金を払い、茶を注いでいると、そこへ横川が入ってくる。
「先生」
常民「おう、いつ、いつ出てきたんだ」
「いろいろご心配をおかけしました」
「いつ出てきたんだい」
「今日、夕方です。早速お宅に伺いましたらば留守居の婆さんがここ(演芸館)だと申すもので」
「そうか、しかしまあ、よかった。いや、よかった」
潤之助「で、青木君は?」
「は、それが」

居酒屋。
その後、潤之助と横川、そして青木とお篠も交えて酒を飲んでいる。
青木「...で、そうしたほうがいいと思うんです)
潤之助「それは少し短慮ではないか」
「いや、それにこの手紙にもあるようにお袋も病気だと言ってますから」
「だから、そのために帰るのはいいさ。それをとやかく言うんじゃない。ただ、このまま引っ込んでしまって二度と東京に出てこないというその気持ちを言うんだ」
「先生、」
「ん?」
青木は目を伏せながら、
「あいそがつきたんです。このような東京にいることが不愉快になったんです」
「うん、なるほど。君の言うとおり、現在の東京はいたづらに異人どもが跳梁しているし、何事も西洋、西洋で不愉快かもしれん。しかし現状を叩きなおし、本当に立派な日本の姿に引き戻すにはなんといっても青年の力以外ないんだ。それはとりもなおさず君の力であり、横川君の力であり、僕の力なんだ。おい、どう思う?」
潤之助は横川に聞く。
「そうですとも。なあ、青木、ここはもういっぺん考え直すべきだ。だいいち、この女(ひと)に泣きをみせるだけでも罪じゃないか。え? ねえ、お篠ちゃん」
お篠は答えない。
潤之助「君だってかつては青雲の志を抱いてはるばる四国から出てきたんだろ。こんなことぐらいで心がくだけてどうするんだ」
横川「そうだ、男児志を立てて郷関を出づ。学、もし成らずんば死すとも帰らじ、だ。え? いったい何のために演歌師にまでなって勉強してきたんだ。な、お篠ちゃん、君からもなんとか言えよ」
「...余程のことで来られたのでしょうから...」
「うん、そうだ。おい青木、今の言った言葉、聞いたか。君を知ることかくのごとし、だ。この人を置いて田舎に引っ込むなんて、貴様それだけで罰があたるぞ。それに先生が君の長い将来のことやまた男としてなさねばならぬことを心配してくださっているのがわからないのか。おい、青木、心を翻せ。今からでも遅くはない、」
「ま、待て」潤之助がいきり立つ横川を制した。
「青木君、」
青木は潤之助の顔をじっと見て、それから目を伏せた。潤之助はもう何も言えない。
「そうか。じゃ、とにかくいったん故郷(くに)に帰って、気が変わったら、また出てくるんだ」
「いやあ、先生、それはいけません。貴様それで気がすむのか」
なおも追及する横川を潤之助は手で制し、静かに聞いた。
「で、いつ発つんだ?」
「船の都合で明日の午後立とうと思うんです」
「まあ、明日」
そんなにすぐ? とお篠は驚く。
青木はお篠から目をそらす。
潤之助「横浜からだね」
「は。それが、しゃくに障りますがイギリス船なんです。ノルマントン号といいます」
お篠は袖で顔をかくした。

翌日。横浜港にて。
甲板に佇んだ青木が手を振って別れを告げ、船は出航する。
船内には様々な人々が乗っていた。
救助ブイが何かを物語る。

東京の射的場では。
お篠は仕事も忘れて物思い。

船の甲板で、青木も物思い。

英人のいるゆったりとした上船客エリア。

なおも甲板で物思いにふける青木の前に、バタバタと音がして、中国人の朱源章が船長に追われ、逃げ惑っている。
「助けて、助けて、殺される」
朱は青木に助けを求め、その必死さにうたれて青木は彼を船底の船室に連れていく。
「すみません、この男を匿ってやってくれませんか」
「どうしたんですか」
「この男は船長付きの料理人だそうですが、料理の中に虫が入っていたそうなんです」
「助けて、助けて、殺される。助けて、助けて」

しばらくすると、朱の残した片方の靴を見つけて、船長が船底に降りてくる。
「朱源章!」
船長は叫ぶが、誰も答えようとしない。船長は鞭で激しく床を叩いた後、去っていく。

海上では天候が変わり始めていた。

東京でもひどい嵐である。お篠と朋輩は傘も吹き飛ばされ、かろうじて軒下に駆け込む。
「なんてひどい嵐になったんだろうね。ほら、こんな、びしょぬれだよ」
「ほんと、私もこんなだ」

嵐の中で船は揺れに揺れていた。乗客たちはふらふらである。
そのうち船室の中に水がはいってくる。乗客たちはパニック状態。
必死になって甲板に出たものの、避難ボートは白人たちで満杯。船長は乗ろうとした乗客を遮って、ボートを出してしまう。

ついに船は沈んだ。

事故を報じる新聞記事。
英汽船ノルマントン号 昨夜八時 紀州沖にて沈没す。
乗り込み居りし日本人乗客二十五名は無残ことごとく死亡せり。
英船ノルマントン号の死亡者は日本人二十五名のみにして英人船員は無事紀州勝浦に上陸せり
(実際にはインド人船員も犠牲者になっている)

司法省で、参事らがその新聞記事を音読している。
「...沈没すべき有様なれば、乗組み一同、上を下への大騒動、叫喚、大叫喚、じつに目もあてられぬ惨状なり。
このとき早くも船長ドレイクはじめ英国人らのみは、ことごとくバッテラ―に移りて逃れ去り、船に残されし日本人船客二十五名は声をかぎりに救助を叫べども冷酷無残なかれらはこれを見捨てしをもってついに助かりしものひとりもなく、無残にも泉州にありて溺死せり。
その日本人の姓名は、東京都にしだごんぞう、熊本県やまぐちせんいち、高知県青木一郎、」

局長室から出てくる精一郎。
「すぐお出かけになりますか」
「ああ」
秘書に尋ねられ、精一郎が返事する。
「どこぞに出張するのかい」
支度をしている精一郎に同僚の参事官らが聞いた。
「ああ、大臣の命令で紀州に行ってくる」
「ノルマントン号の件かね」
精一郎「うん。なんにしても日本人の乗客が全部溺死したというのはおかしな話だね」
「うん、そうだ」
「しかもイギリス人は船長をはじめ船員までことごとく助かったのだな」
「で、すぐ発つのか」
精一郎「猶予している場合じゃないからな」
「責任重大だな。場合によっては国際問題だ」
精一郎「じゃ、行ってくる」

かほる、チャールズ、そして敏江が馬車に乗っている。
「敏江さん、きっとお洋服もお似合いになることよ。今度わたしのをお召しになってごらんあそばせよ」
「でも、そんな」
「あら、ご遠慮でしたら決してなさらないでね」
チャールズ「あなた、イブニング服とても似合いますよ」
「あら、ふふふ」

人力車に乗った精一郎がかれらの馬車に出くわす。
「おい、ちょっと止めて」
だが、敏江の乗った馬車は気が付かず、そのまま通り過ぎてしまう。

青木の写真の前に線香がたてられ、仲間たちが集まっている。
千恵がそっと入ってくる。
「あ、お嬢さん」
潤之助も気が付いて、
「あ、来たか」
「お線香を上げさせていただきます」
「うん、青木も喜ぶよ。あげてやってくれ。あ、千恵、これがお篠さんだ」
千恵はお篠の前に深々と頭を下げた。形の上にすぎないが、故人に最も近い喪主への挨拶である。
「なんとも」
「ありがとうございます」
お篠も涙声で挨拶する。

千恵が線香をあげていると同時に、大井が立ち上がり、
「青木の霊をとむろうて一詩を朗する。
風は蕭々として易水寒し
壮士ひとたび去りてまた還らず
壮士ひとたび去りてまた還らず」
と謳いだす。お篠はまた涙。

そこへ門下生の大井が駆け込んでくる。
「おい、いま怪しからんことを聞いてきたぞ。いまそこで朝野新聞の記者に会ったら、ノルマントン号の船長が領事裁判の結果、無罪になったっていうんだ」
「無罪?」
潤之助の険しい声。
「そうです。日本人全員が溺死したのは、言葉が通じなかったからで船長としては救助の処置になんら遺憾の点はなかったとぬかすんだそうです」
横川「そんな馬鹿な。いかに言葉が通じないからって二十五人もいる中でただのひとりも助からなかったなんてことがあるものか」
「そうだ、そんなことは理屈にもならん」
「うん、その新聞記者もそう言うんだ。だいたい船長たるものの責任はまず第一に乗客を助け、つぎに乗組員を救って、しかるのち自分が、いや、時分は場合によっては責任上、船と運命を共にするのが責任だ」
横川「そうだとも、それが当たり前だ。それにも関わらず、責任もとらずに、無罪になるとは」
潤之助「いやそれが領事裁判だ。いかなる場合でも日本人には過酷に自国のものに対しては寛容に、不平等、不公平な判決を下すことをもって特権だと心得ている。こないだ、青木や君がやられたのだってそうじゃないか」
「そうです」
「本当です」
みな口々に言い合う。
潤之助「だから僕としてはこの際、かれらのそうした悪辣な寛容手段を徹底的にやっつける。正義と人道の前に顔色なからしめてやる。 それが青木への何よりの供養になる」

「わはは、きゃあ、きゃあ」
無罪判決で浮かれまくる船長と英人たち。

だが一方、世論は湧き上がり、あちこちで船長糾弾の演説会が開かれる。

様々な演説会の看板が並び立つ。
船長ドレーク糾弾
臨時演説会 来場無料

ノルマントン号
批判討伐大演説会

英船ノルマントン号沈没事件を論ず、においては、弁士が熱狂的に演説する。
「諸君、我が同胞二十五名が英国の冷酷無残なる船長ブレークによって息絶え、海底の藻屑と消え去ったことは、実に悲しむべく、憐れむべく、怒るべく、恨むべくの極みであって、われら日本人たるもの、永遠に忘するべからざる痛恨事である」
聴衆は拍手喝采。(とはいえ、この弁士は単に時流に乗っているだけではないのかと思わせる過剰演出が、またうまい)

続いて「... 船長ドレークに対し、イギリス領事は整然として無罪の判決を下したのである。諸君、これを無謀と言わずして何をもって無謀というか!」

領事裁判権の不法を糺す
日報社 福地
厚顔のドレーク「余は恥づる處なし」と豪語す!

そして次の演者は潤之助であった。
看板には「此の事件に悲憤せざる者は日本人に非ず 菅沼潤之助」と記されている。

「建国三千年、いまだかつてひとたびも外囲の侮りを受けたことなき皇国日本の人民が、なにゆえ今日、イギリス領で法の裁きに従わねばならんのであるか。まさにこの不法なる領事裁判権の撤廃こそが、われら三千七百万の同胞が身命を賭しても貫徹しなければならない重大事である」
正面の席に並ぶ門下生たちが一斉に拍手する。
「しかも、かれらは、表に紳士の仮面をかぶり、内に満々たる野望を蔵して、時々刻々、東亜侵略の毒牙を磨きつつあるとあいではないか。甘寧邪悪、いかにかれらがその国の強大なるを頼んで横車を押してこようとも、天日の輝くところ、日本には日本の正義があり、人道がある」
歓声。

数々の新聞記事
同時に鎮魂の祭儀も次々と催される。
社告
実地探検者出発広告
ノルマントン号沈没の実

英船ノルマントン号遭難者の幽魂ヲ祭ス  神宮教院
英船ノルマントン号死亡者大施餓鬼修行  高輪泉岳寺
ノルマントン号沈没遭難者臨時大法会   真福寺
ノルマントン号溺死者追弔大法会     浅草本願寺

広告
ノルマントン号
溺死者遺族 義金募集広告

街頭でもノルマントン号遺族義援金募集の運動が始まる。

「お願いします」「ありがとうございます」
潤之助やお篠をはじめ、菅沼道場の門下生も募金活動を行っている。

新橋駅にて。
改札口に、担架で運ばれる中国人。

そのあとから精一郎が現れ、駅員が敬礼する。
「差し回しの馬車が用意してございます」
「ご苦労」

精一郎がノルマントン事件糾弾大演説会と書かれたいくつかの看板に目を引かれていると、
「精一郎さん」
女の声。千恵であった。
「お帰りなさいませ」
「お帰りなさい」
横川も挨拶する。
「紀州にお出かけになっているというお話、伸二郎さんから伺っておりましたけど」
「ほう。あいつ仕様のないやつだな」
口の軽い弟だと思ったのであろう。

先ほどの担架に運ばれた病人が通り過ぎ、千恵がいぶかしげに目で追う。募金をしていた潤之助とお篠もやってきた。
千恵「御病人ですの?」
「ええ、あれもノルマントン号の遭難者のひとりです」
それから駅員たちに向って、
「構わず、積み込んでくれたまえ」
と言ったあと、また千恵に向かって
「紀州の漁師のうちに助けられていたのを探し出してきたんですがね。君にも多少関係のある男だよ」
と、今度は潤之助に向かって言った。
「僕に?」
「うん。いや、君にというより青木という人に」
お篠ははっとする。千恵も潤之助も驚く。
「じゃ、急ぐから失敬するが、いろいろ話があるから、今夜にでもうちに来てくれたまえ。じゃ」
千恵は、立ち去ろうとする精一郎の前に回って、
「おついでにお願いします」
と、募金箱を差し出し、募金を頼んだ。
「いや、これはご苦労さんですね」
精一郎を財布から金を出し、募金箱に入れる。
「有難うございます」
「あなたもですね」
精一郎はお篠のところに行って、その箱にも金を入れる。
「ありがとうございました」

一方、大島の家でも、同様にかほると敏江が美しい花かごを造り募金の準備をしていた。
「ね、いかが?」
「ほんとに綺麗!」
かほるが花かごをもってポーズすると敏江は感に堪えたように答えた。
「ね、あたくし、今からダンスが始まろうとするときに、いきなり、皆様、ちょっとお待ちくださいって呼びかけて、この籠をこういうふうに手にもってつかつかっと真ん中に出ていこうと思いますの。もちろん、そのときはあなたもご一緒よ」
敏江は嬉しそうにうなづく。
かほるはしなをつくって、
「どうか皆様、私どもふたりのために、貴重なお時間をお貸しくださいまし。あたくしどもは、ただいまから、ノルマントン号遭難者遺族の方々のために皆様のご同情とご援助を仰ぎたいと存じます。どうか皆様、この小さな籠が一杯にあふれて壊れてしまいますほどのご同情をお願い申し上げます」
そして敏江に向かい、
「ね、いかが?」
「ええ、ほんとに素晴らしいこと。きっと大成功ですわ」
「あたくしは夜会服、あなたはお召し物、ところは鹿鳴館の舞踏室」

刑事局長室で、精一郎が局長に報告している。
「それは大した収穫だったね」
「しかし、たいへんに弱っています。いかがでしょう。しばらく私にお預け願えないでしょうか」
局長はしばし考えたあと、
「で、君のうちにでも?」
「いえ、病院にでも入れて当分静養させてやろうと思うんですが」
「なるほど。それはいいだろう。なにしろ今度の事件では上層部に相当強硬な意見も出ている」

精一郎の家の前でかほるが馬車から降りてくる。

家の中では精一郎が敏江を叱りつけている。
「敏江、余計な真似をするな」
敏江は横を向く。
「お前にはそれがわからんのか」
母が入ってきておずおずと言う。
「あの、かほるさんがお見えになったんだけどね」
敏江が立ち上がって行こうするのを精一郎が止める。
「待て。お前が行く必要はない」
「放して、放してよ」
母「まあまあ」
「敏江!」
叫んだあと、精一郎はしばし沈黙し、そのあと、
「頭ごなしに叱りつけたのは兄さんが悪かった。静かに話したらわかるものをついつい子供扱いしちまったな。堪忍してくれよ。かほるさんには兄さんからうまく断っておくからもう一度よく考え直してごらん。兄さんは決して無理なことを言ってないと思うよ。みんなお前のためを思えばこそなんだからな」
敏江はふくれっ面のまま、黙って立ち上がって出ていこうとする。母があわてて止めようとする。
「敏江!」
「待て、馬鹿!」
精一郎はついに敏江を平手打ちする。
「そんな乱暴なことを」
母が精一郎をなだめるが、精一郎は語気荒く、
「敏江、かほるさんとの交際は今後いっさい許さん! わかったな」
敏江は頬をおさえ泣き出す。

座敷ではかほるが待っていた。精一郎が入っていくと、
「あ、こんばんは。いつお帰りになりましたの。あら、どうかなさいましたの?」
「かほるさん、」
「え?」
「敏江が今晩なにかお約束したそうですが、それは僕からお断りします」
「あら。敏江さん、御気分でも?」
「いや、どうもしやしない。ただ、あなた方のなさることが僕の目にあまるからだ」
「私たちなにかそんなこといたしましたかしら」
「真面目に考えてください。たとえば今度のノルマントン号事件にしても決してあなた方が考えているようなそんな悠長な話ではないんです」
「ああ、そのこと。そのことでしたら、あたくし本当に遺族の方々をお気の毒だと思って。ね、現金を集めるってこと、ちっとも悪いことではないんじゃございません?」
「そのことを言うんじゃないんです。それに対するあなたの態度です」
「わたくしの態度?」
「はっきり言いましょう。おかけなさい」
かほるは椅子に腰をかける。
「あなたにだって反省力はあるはずです。いまの開化はけっこうです。しかし生まれたところの美しさを忘れてどこに文明があり開化があると思うんです。文明開化は形ではない。日本人として不動の精神の上にこそはじめて開かれるべきはずのものです。あなたのはただ見よう見まねの猿芝居にすぎないじゃありませんか」
「まあ、ひどい」
「ひどいと思われますか」
「ひどいと感じるなら、あなたがあなた自身日本の女としての自分を見失っているからなんです。かほるさん、もう一度むかしのあなたにおかえりなさい。もう一度昔のあなたにかえって、」
「あたくしには、あたくしとしての生きる道がございます」
「しかし、あなたの生きる道がもし現在のような、」
「あたくし、失礼いたします」
「お待ちなさい!」
精一郎は立ち上がり、かほるを見て静かに言う。
「お父様にはいずれあらためて申し上げますが、あなたと僕との婚約は今日限りにしていただきます」
「精一郎」
後ろで聞いていた母が驚く。
かほるは走り去る。

鹿鳴館にて。
舞踏会が始まっている。

かほるが入ってくる。あちこち見渡しながら、父大島を見つけ駆け寄って泣き出す。英国領事が冷たい目で見ている。

「どうしたんだ、え? どうしたんだ」
とまどう父。
「いやもう、駄々っ子でしてなあ」
父は周囲の人々に弁解する。
「おいおい」
父はかほるの肩をたたく。そのうちダンスが終わって音楽も止む。
「おいおい、なんだな、いったい何がそんなに悲しいんだなあ」
音楽がまた始まる。
「さあ、たいがいにして機嫌を直して」
父がなだめているところにリチャードがやってくる。
「お嬢さん、踊らせていただけないでしょうか」
踊りだしたかほるはだんだん機嫌が直っていく。

内科、関病院という表札。
病院前で花売りが花輪を作っていて、お篠が財布を取り出し、花を受け取って病院の中に入っていく。
へ人力車に乗って精一郎がやってくる。
「あ、いらっしゃい、おはようございます」
「おはよう。いや、いつもお世話様ですね」
「いいえ、そんな」
「どうです、元気ですか」
精一郎は帽子で病室のほうを指し示しながら言う。ここは例の生存者が入院している病院なのであろう。

助かった男は中国人のコック、朱であった。朱は精一郎が入ってくると嬉しそうに迎えた。
「あ、しぇんしぇい」
「どう? よく寝られたかね」
「ええ。わたし、夢をみました」
「ほう、どんな夢だね」
「海の上、歩いている」
「海の上を? なるほどね」
「先生と一緒でした。そう、青木さんも一緒でした」
青木の名を聞いて、お茶を入れていたお篠が思わず顔を上げた。朱は続けた。
「海の中からドレーク船長が出てきてわたしを叱ります。私、逃げる。先生、青木さん、ドレーク船長に会ってて、」
「はは、それは面白い夢だったね」
言いながら精一郎はお篠を振り返った。お篠はうつむいていた。
「お篠さん、また思い出してるんですね」
「あ、いえ(そんな)」
「青木君の仇は、いや青木君だけじゃなく日本人二十五人の仇はきっと僕がうってあげる。いや僕よりもこの朱源章君がうってくれる。もっと元気を出さなくちゃいけないね」
朱がおびえた声で言う。
「先生、」
「うん?」
「わたし、船長こわい。わたし睨まれる、わ、わたし、何も言えない」
「何を言うんだ。君は大事な証人じゃないか。ドレーク以下船員が全員無罪になったことについては現在日本の政府からイギリス領事に対して厳重な抗議を申し込んでいるんだ。もし君が青木君の親切に感謝するんなら、そんな怖いとか、恐ろしいとかいうことを一切押し切って、堂々と表明しなければいけないんじゃないか」
「でも、先生」
「いや、それにどうしてこの人がなにもかも捨てて君のために尽くしてくれているか、君だってそれがわからないはずがあるまい」
「わかります。それ、よくわかります」
「だったら、君、」
「先生」
お篠が声をかけた。
「そりゃ、あたし、はじめは青木さんの仇をとってもらいたい一心でこの人を見ようと思い立ちました。でも毎日こうしているうちに、あたし、ただ一心にこの人を看病してあげればそれでいい、そんなふうに考えるようになりました」
「なるほど」
「あたしだって、青木さんのことを思うと、どんなに悔しいか、どんなに残念だったかしれません。でも、そのこととこのこととは別に考えなきゃいけない。ね、先生、あたし、そう思うんですけど」
「うん」
精一郎は正座に座りなおしてお篠の向き合った。
「お篠さん、それですよ。己をむなしゅうしてこそ始めて親切が本当の親切として輝く。それこそわれわれ日本人がもつ世界に誇れる独自の精神です。いや、それでなくちゃいけない」
「そんな、あたしなんか」
「先生、お篠さん!」
朱が叫んだ。
「わたし、間違いでした。わたし、やります。先生、わたしドレーク船長をもう恐れない。やります、きっとやります」
「よく気が付いてくれた。その元気でやってくれたまえ」
「わたし、大丈夫。ドレーク船長、もう平気」

英国領事館にて。旗がたなびく。
館内の敷地で軍事訓練がされている。

領事が葉巻をくゆらせている。
そこへ、
「失敗だ、失敗だ」といいながら、ドレーク船長が大使に近づく。
「領事閣下、あの南京豆の奴が日本の手に渡ったということだけで、われわれは90パーセントの敗北です」
領事がせせら笑う。
「ははは、だから君は今度のような失態を演じるのだ。もっと落ち着かなければいかん」
「しかし、閣下」
「事件の裏にはつねに女がいる。そういう言葉を君は知っているかね」
「女が?」
いぶかるドレークを無視し、領事は、
「チャールズ、大丈夫だろうね」
「は」
「ウィリアム(ドレーク)、君と僕とは同じウスターシャーの出身だね」
「なんの役に立つんだ」
「いや、ウスター生まれのものはどんなときでもあわてんというのさ」
「ふん、それで?」
「はははは、やっと落ち着いてきたね。平和はつねに混乱の後からくるものだ。やつが日本の手に渡ったのもわれわれの興味をいっそう深くするだけのものさ」
「そう。気の短い釣り手の針には魚がかからないというからね」
領事があいずちを打つ。
「悲しい朝のあとにはかならず楽しいゆうべが来る」
「いや、閣下」
窓辺に立つ領事にドレークがすがる。
「安心したまえ。われわれはこの事件を君ひとりの問題として解決しようとしているんじゃない」
ベランダの下から、軍事訓練の太鼓の音が聞こえる。
「見たまえ」
領事に言われてドレークもベランダに立って下を見る。
「ファイヤー!」
兵隊たちが銃をかまえて撃つ。
「君の後ろには強大なイギリス帝国が控えている」
領事はそう言って部屋に戻る。ドレークの顔から不安の色が消え、「領事閣下」礼を言う。

かまわず、領事はチャールズに言いつける。
「では、チャールズ。時間だけは十分用意しておきたまえよ」
「はい」
答えてチャールズは部屋を出ていく。
領事は椅子に腰かけ、ゆっくりとグラスをあける。

病院にて。
精一郎が訪ねてきてドアをノックする。
戸を開けるとお篠の他に千恵も来ていた。
「いらっしゃい、こんばんは」
「やあ」
「どうぞ」
精一郎はお篠にコートを渡す。
部屋を見渡すと朱のベッドは空であった。
「病人は?」
「ちょうどいま時分、お宅へ」
着いたころだとお篠がいう。千恵が続いて、
「私もいましがたお見舞いにうかがいましたら、ちょうどあいにく」
「ぼくのうちへ?」
不審な顔をする精一郎。
「はあ」
「何しに?」
「じゃあ、ご存じじゃありませんの?」
急須をもったままお篠が言う。
「はあ、どうしたんです、いったい?」
「さっきお妹さんがお見えになって、あなたが急に御用がおありになるって」
「敏江が?」
「ええ、お馬車でお迎えにいらっしゃいました」
異変を感じて、精一郎は立ち上がった。

馬車の中で。
敏江が朱を気遣って毛布をかけている。

鹿鳴館。
鹿鳴館の前では学生たちがノルマントン号沈没の歌を歌っていた。
「岸うつ波の音高く 夜半の嵐に夢さめて 青海原を眺めつつ わが同胞(はらから)はいづくぞと

呼べど叫べど声はなく 尋ね探せど影はなし 噂にきけば 過ぐる日に 二十五人の同胞は

旅路を急ぐ一筋に 外国船(とつくにぶね)とは知りつつも 航海術に名も高き イギリス船と聞くからに

外国船の情けなや 残忍非道の船長は 名さえ卑怯の奴隷鬼は 人の哀れを外に見て己が職務を打忘れ

早や臆病の逃げ支度 その同胞を引きつれて バッテラへと乗り移る影を見送る同胞は 無念の涙やるせなく

あふるる涙を押し拭い ヤオレにくき奴隷鬼よ いかに人種は違うとも いかに情を知らぬとも この場に望みて我々を すてて逃るは卑怯者」

そこへ警官隊が駆けてくる。
「なんだ、なんだ、こんなところで。あっちへ行け、
ここをどこだと思ってる。鹿鳴館の正門だぞ。黙れ、黙らんか」
警官は蹴散らすが、歌声はなおも響き渡る。

そこへ敏江たちの馬車が到着する。

それを見て横川が驚く。
「おいおいおい、おかしいぞ。あの男がこんなところに」
しかし馬車はすでに館内に入ってしまった。
「とにかく若先生に知らせよう」
横川たちが走っていってしまったので、警官たちもあえて追いかけようとはしなかった。

馬車に乗っている精一郎。

しばらくして鹿鳴館の前でまた騒ぎになっている。潤之助が知らせを聞いてやってきたのだ。警官の止めるのも聞かず、潤之助は鹿鳴館に入っていく。
中ではダンスが始まっていた。

潤之助は仮面をつけている婦人たちの仮面を次々とはいでいった。
「あーっ」
「敏江さん、朱源章はどこにいる?」
「存じませんわ、そんなこと」
「敏江さん、君は兄さんへの面当てのつもりでしているんだろう。だが、君のしていることは日本を売ってるんだぞ。言え、どこへ行った?」
敏江は逃げ出す。潤之助は追っかける。
「待て!」
「何をするんです?」
「言え、言わないか、言え、言え」
あきれて見ている人々の中で、ドレークがこっそり姿を消す。
「放して、言います、言います」

かほると朱が駅の歩道を歩いている。
「お嬢さん、先生、どこにいますか」
「横浜」
「え?」

チャールズたちが現れる。
「いやあ、ありがとう」
「この人、確かにお渡ししました」
「ありがとう。どうもありがとう」
「いいえ、あたしこそお礼をいたしますわ。これであの人への復讐ができたんですもの」
朱源章はわけがわからず、きょろきょろしている。
別の英国人リチャードがあらわれ、チャールズにささやく。
するとチャールズはかほるに向かって、
「お嬢さん、あなたも一緒に横浜へ」
「え、わたくしも?」
驚くかほるにチャールズはピストルを突きつけ、やってきた汽車に朱源章とともに無理やり連れ込んでしまった。

新橋駅に走り込んできた潤之助。だが、汽車はたった今出ていってしまった。
「出ていってください、出ていってください、困ります」
潤之助は駅員にホームから出された。先ほどのリチャードが暗がりからそれを見ており、潤之助を追うが、潤之助は馬に乗って駆けだしていく。(この当時、駅にはまだ馬の乗り継ぎ場もあったのかもしれない)

ここからは馬と汽車との競争である。

明治5年9月(1872年)、東京の新橋と神奈川県の横浜、約29㎞の間に日本初の鉄道が開通。平均時速は32㎞。当時、最速の乗り物だった馬とほぼ同じスピードで、新橋と横浜をおよそ50分で結んだ

一方、リチャードは急を知らせるため新橋電信局に駆け込む。

汽車の車室ではかほるが抵抗している。
「私はかまいません。この人は返してください」
チャールズは冷笑する。
「あなたより、この支那人、重要です」

馬駆けする潤之助。
車室では隙を見て朱を窓から逃そうとするかほる。だが、失敗してしまう。

英国領事館。
ドレークが慌てている。
「閣下、電報です、閣下。大変な計算違いになりました」
電報を受け取った領事はにやりと笑う。
「いや、計算は最後の一桁まで慎重でなければいかんよ、君」
そう言って領事は受け取った電報をランプの火で燃やした。

蹄の音。
汽車の音。

汽車の中ではかほるたちのもみあいが続き、男たちは二人をデッキまで引きずりだす。

馬の背から潤之助が叫ぶ。
「かほるさん! 朱元璋!」
チャールズが潤之助に向かってピストルを放つ。

電報を受けた領事館から兵が出て潤之助を阻止しようとする。潤之助は馬から落ちるが、かれらの馬と銃を奪って再び駆けていく。

かほると朱はなんとか汽車から脱出する。

一方汽車の中の異変が報告されたのか、警官隊も動き出す。
汽車を止めて車内を調査するが、婦人用の持ち物が残されている以外、誰もいなくなっていたので、汽車はそのまま出発する。

かほると朱はふたりで逃げ続け、男たちが後を追う。
迫ってきたチャールズが二人に向かって銃を放ち、弾はかほるに命中する。
倒れながらも、かほるは朱に、
「逃げて、逃げて」
と叫ぶ。
「お嬢さん、」
「早く、早く、逃げて」

朱が逃げているところに潤之助が馬で追い付き、朱を後ろに乗せる。
「かほるさんはどうした?」
「あいつが、あいつが」
朱が指さしていると、チャールズが発砲。弾は潤之助の腕に当たるが、潤之助もまたチャールズを撃ち、チャールズは倒れる。二人はそのまま馬で逃げ去る。

警官隊が駆けつけ、かほるを抱き起こす。
「しっかりせい」

明治19年11月21日 新聞記事
ノルマントン号事件 (判読不能だが、事件に対する世間の関心は依然として高い)

日枝神社
千恵が拝んでいる。

お篠は手水で手を清めているが、お参りを終えて戻ってくる千恵に気が付いて、
「あ、お嬢様」
「あら、あなたも」
「その後、お兄様のご様子は?」
「イギリスの領事館に連れていかれたきり、それからあとのことはまるで。でも今日の裁判にさえ勝てれば、兄だってきっと満足しますわ」
「すみません。もとはといえばみんなこの篠の手落ちからでございます」
「あら、そんな。何をいうのお篠さん。誰があなたのせいだなんて思うものですか」
「すみません、すみません」
「いいえ。それに敏江さんだって今あんなに後悔してらして。かほるさんだって...」

病室のベッドに横たわるかほる。
医者と看護婦に囲まれ父と母も見守っている。
「悪いのは、悪いのはあたしでした。精一郎さんにもうしわけ、」
「かほる、かほる」
「かほるさん、しっかりして、かほるさん」
父と母が呼びかけるが、かほるの命はつきた。

精一郎の家。
みんなが集まって精一郎の帰りを待っている。
女中がやってきて、
「あの、お帰りになりました」
精一郎の後を朱が続く。
「お帰りなさい」「お帰りなさい」
「やあ、みんな集まってるね」
きょろきょろする朱に、
「あなたもどうぞ(お席に)」
「あ、はい」

「いかがでした、裁判の結果、どうでした?」
「ドレークどもはどんな風に決まりましたか」
「うん」
精一郎はうなづいたあと、
「じゃあ、一応報告しよう。結果は僕としては非常に不満なんだが、しかしともかく、ドレーク以下船員全に禁固三か月」
横川が憤慨する。
「三か月? たった三か月ですか?」
「じゃあ、一年にも足りないんですか」
「あんな奴は死刑が当然です」
みな口々に言いたてる。
精一郎は浮かない顔で朱のほうを見やり、
「うん。しかしそれだってこの人が必死になって証言してくれたこそなんだ」
朱「わたし、力足りませんでした。みなさん、許してください」
「いや、君は十分にしてくれた。君のどこにあんな勇気が隠れていたのか、僕は不思議に思ったぐらいだ。それよりも、僕がこの人に付き添って行きながらこういう結果した得られなかったということは、ぼくこそ諸君に申し訳ないと...。ただ、日本の司法官の立ち合いさえ許されていない現在では、わずかこれだけでも領事裁判権に食い込めたということはかつて今までにないことなんだ」
「でも兄さん、それで潤之助さんたちの裁判がどんなひどいことになるか」伸二郎が兄に言う。
「そうそう、それです。それが問題です」

廊下の隅。ひとり障子のかげに座り両手を胸にうなだれる敏江。

「うん、それについては僕にしても考えていることがある」
「なんです?」
「上層部を動かして僕自身立ち合い係官として出廷できるよう先方に要求してもらおうと思うんだ」
「しかし、向こうがそれを許すでしょうか」
「うん、一応は拒否するかもしれない。しかし、今日の判決の結果からみても僕は断然これだけはやらなければならんと決心しているんだ」
女中が入ってくる。
「あのただいま松島さまからお使いの方がこれを、」
精一郎に文を渡す。
一読したあと精一郎は母に向かい、
「お母さん、」
「何だい」
「かほるさんが亡くなりましたよ」
「まあ」

廊下では敏江が袖を顔に当てて涙を押し殺している。
一同は静かに首をうなだれた。

英国領事館前。
横川その他大勢が集まり、警護兵が下がれ、下がれとと叫んでいる中、
「あ、来た、来た、来た」
警護の兵に付き添われ、窓をおおわれた馬車が一台やってくる。ゲートは馬車を通すとすぐに閉じられた。

ゲートに阻まれながらも集まっている人々には潤之助が降りてくるのが見える。潤之助は怪我をした片手を吊っていた。

法廷に入る。
兵士が潤之助をこづいて被告席に立たせる。

精一郎がいるのを見て潤之助が驚く。

裁判長のかつらをかぶった領事が入ってくる。

書記「開廷にあたり、今日のこの審判廷において、ふたつの新令がひらかれることを宣言する。そのひとつは、日本の司法省参事官の列席を許可したことであり、さらにひとつはこの被告はイギリス人数名を殺傷したる罪状すでに明白なるをもって実際の証拠調べを排し、ただちに判決を下す件である」

裁判長が立ち上がる。
「判決。目には目をもって、歯には歯をもって、これはイギリス帝国が支配するかぎりの法廷における厳然たる不文律である。よって、本裁判長は、ここに被告に対し、死刑を処す」
潤之助を始め、日本人傍聴者はみな息を飲む。

「裁判長閣下」
精一郎が立ち上がった。
「本職は当審判廷においてふたつの新令が開かれた新令に基づいてさらにいまひとつの新令を付け加えれられんことを希望いたします。
世界にいまだかつていずれの国の法廷においても、その被告の罪状につき何等の弁論を許さずしてその刑が決定したという前例をみません。よって、この際、本職は、本職をしてその任に当たりしめんことを要求するものであります」
薄笑いをしながら裁判長は丁重に
「どうぞ」
「ただいま裁判長閣下は、目には目をもって歯には歯をもってというイギリスにおける慣例に基づいて被告を指弾されましたが、しかしあえてそれに対するわが日本の慣例を引用するまでもなく、不文ながら本職の聞き及びまするかぎりにおいては罪を憎みその人を憎まざるとの美風があるやに承っております。
いわんや被告菅沼潤之助は、不法なイギリス人数名が一日本婦人並びに先のノルマントン号事件における有力な証人たる一支那人を誘拐せんとする際、これら両名を救助、奪還せんとする目的をもってやむなく彼らと交戦し、かえってその反撃にあい、自らも傷つき、しかもその日本婦人にいたってはイギリス人の銃弾に胸部を射貫かれ、ついに最近に及んでその生命を失うような結果にさえたちいたっているのであります」
かほるが死亡したと聞いてはっと驚く潤之助。

精一郎の弁論は続く。
「これをもってこれを見まするに、被告潤之助の行動に関してはこの情状まことにやむを得ざるものなり。さらに、その日本人婦人を死に至らしめた犯人らが不問に付されている現状にみても当然被告の行為は正当防衛とみなされるべき性質のものと思料いたすところであります。よって、本職は、公明なる裁判長閣下に、イギリス帝国の名誉にかけて、ただいまの不当なる判決を取り消され、形に対するに形をもってせず、深くその行為の原因、並びに精神に立ち至りあらためて公平無私、無差別平等の判決を下されんことを切望するものであります」

裁判長が立ち上がって、
「本裁判長は、ただ今の論述に対して甚だその労を多とするものである。しかし、その一見、理非を尽くされたるかのごとき言説にも関わらず、被告が必要以上の人命を殺傷したる事実はこれをもって正当防衛とはみなし難い。なおかつ、被告自身、その犯行に関してなんら悔悟なきに至っては法の情状酌量の余地なきものと認めざるをえない。しかもなおさらに、ここに厳として動かしがたい事実が存在する。それは、この公館内は直ちにそれがイギリスの国家であり、この公館内を支配するものは、すなわちイギリスの習慣、イギリスの道徳、イギリスの法律でなければならぬということである。被告に対する死刑の判決はもはや何ら再考の余地なきものと認める」

精一郎が立ち上がる。
「この公館内は直ちにイギリスの国家でありこの公館内を支配するものはイギリスの道徳、法律でなければならんと断言されました。しかし、たとえ治外法権が存するにしても、この公館の存在するこの場所は果たしてどこの国家に属すべき土地でありましょうか。申すまでもなくそれは日本帝国の支配下にある国土内の一小部分であり、それは日本の国家に属するものであります。従って、この公館の屋上にはイギリスの国旗が翻っております。だが、しかし、そのイギリス国旗の一段上には目に見えざる日章旗がへんぽんとして翻っていると申しても差支えないのであります。
日章旗のひらめくところ、裁判権は領事閣下の手にありといえども、そこに適用される道徳、法律、習慣は、あきらかに日本の道徳であり、日本の習慣であり、日本の法律でなければならんのであります。
先般ノルマントン号事件の審議にあたり温情春のごとき判決を下されたる、寛容にして寛大なる裁判長閣下に対して、本職はとくにイギリス帝国の名誉を重んじて慎重かつ公平なる断を下されんことを切望するものであります」

ここで書記が問う。
「では、本件に対して貴官はいかなる刑を主張と認められるのか」
「当然、無罪を主張いたします」
「しかし、被告は明らかに必要以上の人命を殺傷している」
「本職はそれをあくまでも正当防衛と認め、断然無罪を主張いたします」
イギリス側の役人たちがささやき合う。

精一郎が続ける。
「なお当審判廷における判官諸侯が本職の主張に対してこぞって不当なりとの意見を表明されるなら、本職もまたここに、ひとりの支那人ならびに日本婦人を誘拐せんとして、そのよってきたるところを究明すればそこにおのずから事件の解決の鍵が見出されるべき性質のものであるにも関わらず、当審判廷における判官諸侯がいたずらに被告潤之助の断罪にのみ汲々として事件発生の端緒たる根本原因の探求をことさらに回避されているかのごとくみえるなら、本職をして疑念を抱かざるをえないのです。
しかも日本政府の調査によれば、かれらはかねてより当領事館の館員諸侯と親交があり、しかも事件発生の当日右両名は当領事館内において支那人誘拐に関してなんらかの謀議をおこらしたにあらずやとの疑義を抱かしめる形跡があり、さらには本職は ......  本事件発生の根本的原因が奈辺にありや、不快なる策謀がどこにおいてなされたか。
しかし、想像をもって事実を盲断するは本職の潔しとせざるところであります。
ただひとり裁判長閣下の公平にしてかつ慎重なる命を待つものであります」

裁判長が鈴を鳴らし、立ち上がる。
「当審判廷の判決に対する異議の申し立ては、本日より一週間以内に上海領事に向かってなされるべきものである。が、しかし、本裁判長は、とくに寛容なる紳士的態度をもって、被告の事情を察し、その控訴手続きに関する一切の処理を当領事館において取り扱うものとする」

書記「これをもって当公判は閉廷する」

席を立ったあと裁判長は精一郎のところに行き、
「貴官の今後のために一言(いちごん)。今日のこの事件は単なる一庶民の問題として解決されたが、やがてこれが国家の台にまで発展する日が来ないとはかぎらん。貴官はこの事実をはっきりと肝に命じよ」

潤之助が引き立てられていく。精一郎と潤之助の目が合う。
「君、」
言いかけようとする潤之助を警護がこずいて連れていってしまう。

「恒岡」
大島が呼びかける。
「領事が最後に君に言い残した言葉は単なる威嚇だとばかりとも思えない。それに対する君の覚悟はあるかね」
「きょうの私は日本の一司法官としての立場から私としての最善をつくしたにすぎません。しかしもし、一朝、国家と国家との間に問題が紛糾すれば、そのときこそは一司法官としてではなく一兵卒として戦場に臨むだけの覚悟はもっております」
「うむ」

汽車の中で。
誰も言葉を発しない中、精一郎が思いにふける。
「いつになったら日本が本当に世界に雄飛する日が来るか」

この屈辱を忍んで五十余年

そして今日(の戦い)

終わり


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