小説「冬弔い」
暦の上での春はとっくに訪れているのに、北海道の大地は厚い雪に覆われたままだ。11月からゴールデンウィークまでの、長い長い北国の冬は、スノーボーダーにとってはとても都合がいい。セブンスターをくわえ、厚手のダウンコートの袖から少し手を出すようにして、車の上にかぶった羽毛布団のような雪を慣れた手つきで払っていく。
あの年もゴールデンウィークまで、みんなで滑り倒すつもりだった。スノーボード仲間は佐藤を入れて4人、佐藤、木村、井上、そして自分。木村と井上は佐藤の友達で、井上は中学の、木村は高校の同級生らしい。当然ながら佐藤が居ないと、自分から2人に連絡をすることはなかったし、2人からも連絡が来ることはなかった。
そもそも「あのこと」までの、ややしばらくの間、2人の連絡先を知らなかったし、2人がどんな仕事をしているかとか、家族構成とか、個人にまつわる具体的な事はほとんど何も知らなかった。
11月に入ると佐藤が声をかけ、そろりそろりと集合し、誰かの車で雪山へ向かい、1日でも多く1分でも長く、わずか1メートルちょっとの板の上に身を委ねたい一心で、毎週毎週クタクタになるまで滑り尽くし、3回に1回は温泉に寄って帰り、5月あたまに雪山がクローズすると「また」と言って解散する。そんなことを数年のあいだ繰り返していた。
どんな人となりかを知らなくても、滑り方の癖、上達具合や目指すスタイルなんかは、4人が4人とも、お互いおそらく自分以上によく知っていたはずだ。木村は右にターンをする時に少し早めに左手を浮かせる癖があったし、井上はトリックをかける前にまじないみたいに小さくジャンプする癖があった。佐藤は呆れるほど滑るのが遅くて、いつも4人の中でドンケツだった。そのくせブレーキだけは一丁前に上手く、突然突進して滑ってきたかと思うと、座って佐藤を待っている3人へ粉砂糖のような雪を派手に撒き散らした。粉雪をくらった3人を見て佐藤は、抜けるような青空をバックに雪と同じくらい白い歯を見せ、くしゃくしゃ笑うのだった。
佐藤は根っからの不精で、車の中はゴミで溢れ、しょっちゅうチケットホルダーだの帽子だのを無くしていた。面倒見がいいのが木村で「相変わらずきったねぇなぁ」と言いながら佐藤の車内のゴミをこまめに拾っては片付け、チケットホルダーを貸してあげ、その日のうちに無くされて「おまえふざけんなよ」と笑って呆れていた。
井上はそんな佐藤と木村のやり取りをニコニコと見ていたかと思うと「まあまあ2人ともそのへんにして今日のお昼はラーメンにしようよ、いや豚丼も捨てがたいな」と突然文脈を無視して喋りはじめ、食事の時は全員の分を「ひとくちちょうだい」と言っては断られしょぼくれていた。毎度毎度繰り返されるそのひとくちちょうだい攻撃に、3人は顔を見合わせ呆れ、そして笑った。
坊主頭に細眉というヤンキーのような出で立ちの木村は、どうやらそこそこ金持ちらしく、シーズン毎に板を買い替えていた。しかしそれを鼻にかけるようなことは全くなくて、使わない板を何度か試し乗りさせてくれ、気に入ったものは安く譲ってくれた。その見た目や乱暴な言葉遣いとは裏腹に、持ち物からは家柄が、仕草からは育ちの良さが、話の面白さからは頭の良さが滲み出ていて、本人はそれをどこか本意としていないようなところがあった。
井上はとにかく食い意地が張っていて、美味しいものにはまるで目が無かった。「何しに雪山へ来たんだ?」と、毎回木村に茶化されるほど行き帰りの食事処選びには余念が無かった。そのくせ1番運動が苦手そうなまんまるの体型をしているにも関わらず、スノーボードスキルはプロ並みだった。ひとたび板に乗ると普段の猫背から更に腰が落ち、砂漠で獲物を狙うライオンを彷彿とさせた。板の上の別人と化した井上を目で追いながら滑ると、とたんに上達した気持ちになった。度々知らない人から上達の教えを請われていたが、超が付くほどの人見知りが発動し、語彙力の無さも極まって「えっ、あっ、う、うーん、あそこのコーナーは、な、なんていうかおたまに付いたカレーを舐め取るみたいな雰囲気で!」と、何の参考にもならない回答をして、すぐに諦められていた。
いつか佐藤が、ゲレンデコースの入口で柄の悪いチームの1人にぶつかりそうになり、一触即発という雰囲気になった時、木村の容姿と井上のスノーボードスキルはとても役に立った。
自分は3人からどう見られていたのだろう、無口なつまらない奴だと思われても仕方なかっただろう。佐藤と木村の掛け合いに、井上が的外れな内容で口を挟み笑う、それを静かに見て微笑んでいる、自分はただそれだけだった。
それでも佐藤は必ず11月になると、4人でスノーボードに行こうと誘ってくれたし、木村も井上も、飛び抜けてスノーボードが上手かったけれど、明らかに下手な佐藤や自分を疎外するようなことは決してしなかった。上達の方法を上から目線で語ることも無いが、それとなく尋ねると「この人の滑り方は参考になるかも」と、お勧めの動画を見せてくれたりした。そんな気付くか気付かないかの気遣いをさらりと出来ることは容易なことではなかったし、そういう点で自分達4人は仲間だった。
何度かお互いウェアや帽子を変えても、滑りだしてから3人の姿を見失う事は、本当にただの一度も無かった。
佐藤との恋仲は、佐藤の突飛な行動がきっかけだった。
いつも通り佐藤の車で、木村、井上の順で送って行き、この信号を左折すると自宅アパート、というところで、佐藤が突然キスをしてきた。
唇が触れるだけの短いキスだった。
突然のことで、だけどあまりにも自然な仕草だったので、何が起こったのか理解するのに時間がかかった。驚きすぎて声が出せず、何の悪い冗談かと思って見た佐藤の目が、思いのほか真剣だったので、戸惑いながらただ、
「佐藤、信号青だよ」と言っただけだった。佐藤は黙って頷き再びアクセルを踏んだ。拒否も肯定もする暇を与えず、佐藤は慣れた手つきでスノーボード一式を車から下ろすと「じゃまた来週」と言って帰っていった。
夜の凍った空気の中、蒸気した頰を残して。
次の週末、佐藤はいつも通りの時間に迎えに来た。ついた、という電話で部屋の窓からカーテンの隙間から外を見た。佐藤はいつもと同じように、アパートの前の電柱横に車を停め、タバコを吸っていた。いつもと違うことは、スノーボードのウェアを着ていなかったことだった。
今日佐藤は、木村と井上は抜きで、スノーボードは無しで、自分と向き合おうとしていた。この1週間かけて出した、あの時のキスの答えは、佐藤はおそらく自分を好きで、自分も同じように佐藤が好きだ、ということだった。
その日佐藤は、山とは反対方向へ車を走らせた。
当然厚手のウェアも着ていないし、ゴーグルも帽子も被らず佐藤の車に乗った。それがどうにもこうにも心もとなく、右手で左腕をさすっては、その手のひらを太ももに擦り付け、終いには「寒い?」と佐藤に心配される始末だった。
ハンドルを握る佐藤の、思いの外長い睫毛や太いもみあげ、尖った顎の下にころんと動くのどぼとけ。そんな横顔をチラチラと覗き見ながら、思いついたことをぽつりぽつりと喋った。自動車部品の会社で経理をしていると話すと、佐藤は農機メーカーで営業の仕事をしていると言った。佐藤は人の話を、とても楽しそうに聞いてくれるので営業は向いていると思うよ、と言うと、とても楽しそうに「そう?ありがとう」と笑った。
国道12号線の渋滞は江別を抜けると途端に薄まり、道路脇に積まれた灰色の雪の山が2人の横をいくつも通り過ぎて行った。オーディオから流れてくるのはスノーボードに行く時には聞いたことのない洋楽ばかりで、でこぼこ道に合わせて車がリズムを刻んだ。こんなジャズも聞くんだね、と言うと「うん、これはシャンソンな」佐藤は小さく笑った。
昼過ぎに岩見沢に着いて、佐藤が良く来ているというカレー屋に入った。岩見沢は例年通りの豪雪で、家々の屋根に雪のデコレーションが施されていた。スキー場以外にこんなに雪があっても仕方ないのに、と言うと、佐藤が唇の端を少し上げ眩しそうに微笑んだ。佐藤の、まぶたにかかる長すぎる前髪が邪魔で、カレーを掻き込む佐藤を見て、ああこの前髪をよけてキスしたいという衝動に駆られた。車に乗ってエンジンをかけた佐藤に、ねえキスしていい、と言うと佐藤は「いやお前からされるのはなんか癪」と、おもむろに顔を寄せてきて唇を当てた。2度目のキスはカレーの味がした。
「来週は」
帰りは来た道をそのまま戻り、家の前に停めた車内で佐藤が言った。
「来週は、2人でボードに行かないか」
羽のような雪が降り出していた。フロントガラスの表面に触れた雪は、せわしなく動くワイパーに集められる前に、溶けて水滴となった。
佐藤と初めて出会ったのは会社の近くのコンビニで、たまたま2人ともスノーボードのリフトチケットを発券していた。先に発券を終えた佐藤が、チケット控えを忘れており慌てて声をかけた。それからそのコンビニでちょくちょく顔を合わせるようになり、タバコを吸う仲になった。スノーボードの話で盛り上がり、タバコの時間だけでは足りないと飲みに行く仲になった。そして一緒に雪山に行く仲になった。木村と井上に会ったのも同じ年だった。2人きりでボードに行くのは初めてだった。でも、答えは決まっていた。
「いいよ、また来週」
笑って答え、その日佐藤と出会って初めて、佐藤の手を握った。
そうして2人で雪山に行ったが、下手くそ同士の滑走はとても時間がかかり、なおかつ帰りはヘトヘトで運転もままならなず、やはりスノボは4人で行く方が楽しい、という結論になった。
2人で行きたいところは他にもたくさんあったし、2人きりでスノーボードに行くことで、木村と井上にどこか後ろめたさを感じているのも確かだった。
佐藤と2人でスノーボードに行った次の週は、また4人で雪山に向かった。車のデッキにユーチューブをつなぎ、トリック技の動画を見ながらその上達方法をワイワイと話し、コンビニに寄ってチョコレートと昼ごはんと飲み物を買った。木村の、店員受け売りのくだらないゴーグル談義を聞き、井上の山頂レストランのメニューについての熱意を聞いていたら、いつの間にか雪山に着いていた。そしていつものように、一日中スノーボードの1枚板に身体を預け、4人で無心に雪面を飛んで遊んだ。
ジャンプした途端、間違えて空を飛べるかもしれないと錯覚するほど、空は深く青く晴れ渡り、雪山はいつも以上にキラキラと輝いていた。
縮こまりながらも碧い宙に手を広げる木々の枝には、繊細な飴細工のような雪が白くうっすらと積もり、世界の、自然の、身が竦むほどの美しさを、まざまざと見せつけられた。
寒さで痛いほどピンと張り詰める空気に、終始涙腺が瞳に涙の膜を張った。潤んだ自分の目を通して見つめた佐藤の笑顔は、既にとても愛しい人だった。
帰りはいつも通り、木村、井上の順で送り、佐藤とふたり佐藤のアパートに行き、抱き合って眠った。土曜日はスノーボードをして、日曜は疲れた身体で佐藤と目覚めた。しばらくそんな日々が続いた。
愛なんてものはよく分からないけれど、佐藤のことがとても好きだと思った。
その日は4人でニセコへ行く約束をしていて、混雑を避けるため佐藤からは早く出発するからな、と言われていた。
週の半ばになって何時に迎えに来てくれるのか連絡をしたが一向に返事がなかった。ただ2月は決算前の掻き入れ時で仕事が少し忙しいと聞いていたから、当日までわからなくてもまあいいやと思っていた。農機メーカーにも掻き入れ時があるのかと少し笑ったが、恋仲になったからと言って、マメに連絡をするような間柄でもなかった。お互い燃え上がるタイプでも、束縛するタイプでもなかったし、どちらかといえば、自分たち2人の関係で、4人の仲に変化が起こることを何よりも恐れていた。
しかし前日になってもスマホは全くといっていいほど鳴らず、さすがに不安を覚えた。しかしどうすることも出来なかった。佐藤の会社の名前はうろ覚えで、木村と井上の連絡先も、まだその時は知らなかった。お互い目の前で何度となくスマホをいじっていたけれど、おそらく変な照れが邪魔し続け、連絡先の交換には至っていなかった。
佐藤へのメッセージは一向に既読にはならず、結局その日、佐藤から連絡が来ることはなかった。
なんとなく、ただ嫌われたのだと思った。
進展があったのは3日ほど経ってからだった。仕事中内線が鳴り、取り次いだ女の子が警察からお電話ですと言った。警察、と聞いた途端、佐藤のことだと不思議な確信があった。警察は、井上が出した佐藤の捜索願について問い合わせてきた。その日のうちに警察は会社に来て、佐藤と最後に連絡を取ったのはいつか、佐藤が行きそうなところはないか、佐藤が最近思い悩んでいた様子はないか、そんなことを矢継ぎ早に尋ねて行った。分からないことだらけだった。佐藤が思い悩んでいることなんて、想像も付かないし、自分は何も知らなかったし、事実そう答えた。
自分と年齢もさほど変わらなさそうな、メガネをかけたその警官は、コイツは役に立たないと早々に見限ったらしく、バインダーに挟まったザラ紙に住所と名前と電話番号を書かせた。その間に最寄りの交番の電話番号をメモし何か思い出したら連絡をください、と名刺をくれた。聞き取りはあっけなく、わずか十分程度で終わった。自席に戻りペンを持つと違和感があった。
その時、自分の手がずっと震えていたことに気づいた。
その日の夜、電話が鳴り「佐藤」と飛び起きて電話に出ると、ツー、ツー、と無機質な音が鳴る、という夢を繰り返し見た。眠りが浅くなると不思議と呼吸も浅くなり、肺をきつく握り締められているような圧迫感があった。何度か短い眠りを繰り返しては目覚め、なかなか寝付けなくなった。佐藤の車が停まっていないかカーテン越しに外を眺めると、いつも車を停める位置には誰かが掻いた雪が積まれていた。窓枠に腰掛けながら、ぼんやりと目覚め始める空を眺め、結局その後は一睡もできなかった。
その日、佐藤はスキー場のアウトコースの崖下で見つかった。
駐車場に放置されていた車を不審に思ったゲレンデ職員が警察に通報し、警察が車の所有者を調べたところ井上の捜索願に行きついた。佐藤の家は帰宅している形跡が無く、会社にも出勤していないことが分かった。警察とゲレンデ職員でスキー場を捜索した結果、既に冷たくなった佐藤を見つけたということだった。佐藤は金曜の夜、ひとりでナイターを滑りに山へ来て、アウトコースで滑落した。落下した衝撃でスマホは壊れ、腰と背中の骨が折れていた。折れた骨は骨髄と内臓を損傷しており、少しの間は意識があっただろうと思います、警官がそう話すのを、木村と井上と3人、呼び出された病院のベンチでぼうっと聞いていた。山頂で濃い霧に包まれて、自分の手足しか見えない中、強風の為リフトを停止しています、というアナウンスを聞いている。そんな感覚だった。
佐藤の葬儀は、母親の宗教の都合で通夜から告別式、火葬から埋蔵までほとんど間隔を置かずに行われた。家族と、限られた友人と、数人の仕事関係者で、参列者は10人に満たなかった。佐藤は薄く唇を開き、顔に少しだけ傷があるくらいで眠るように横たわっていた。母親は憔悴しきっていて線香守りを買って出た際もひどく遠慮した。ようやく頷いたもののパーテーション一枚挟んだ家族控え室からは、ずっとすすり泣きが止まなかった。母親にとっては唯一の肉親で、自分にとっては唯一の恋人だったが、母親と同じようにすすり泣くことは出来なかった。身体の機能が止まったかのように、涙ひとつ零れてこなかった。
夜中ひとりの時を見計らい、棺の横で「佐藤」と呼びかけたけれど、「もう朝?」と目を擦って起きることはなかった。そっと、手の甲で触れた頬はひどく冷たく、それは既に容れ物に過ぎなかった。
佐藤の骨は郊外の小高い山奥にそっと埋葬された。「もう一度、あなたに会える場所」という仰々しいフレーズと花の写真が入った大きい看板が入り口にあり、母親の宗教団体の信者だけが入れる墓地のようだった。墓碑はよくある墓石ではなく、バレーボールほどの大きさのつるりと丸い、ただただ真っ白な石だった。名前の刻印もなく可愛らしさすら感じるものだったけれど、それは横の石との違いが全くなくて、少し歩いて振り返ると、もう佐藤のそれがどこだか分からなくなりそうだった。山奥とはいえ綺麗に整備され、春になったら陽当たりも良く花も多そうだった。こんなところに埋めてもらったら、幸せだろうなとは思ったけれど、佐藤はここには居ない気がした。
その日は季節外れの雨が降っており、小さな骨壷が、地面に埋まったコンクリートの箱に居心地悪そうに収納されるのを、母親と、井上と木村、4人で見ていた。母親は泣き通しで、身体を2つに折るように泣き崩れ嗚咽を漏らし続けた。木村と井上もしゃくりを上げて泣いていた。お経が終わり、納骨され白い石が載せられると、佐藤の何もかもが、もう見えなくなった。母親と木村と井上、3人が泣きじゃくっていなければ、佐藤が存在していたことなど、まるで無かったことになりそうな、強い恐怖が襲った。足元の底が抜けたような目眩を感じ、思わず目を閉じた。
みぞれのような雨は、音もなくしきりに降り続け、傘からはみ出した肩を静かに濡らしている。手がかじかみ、痺れるように痛んだ。2月の雨の温度は、雪のそれよりも遥かに冷たく、棺に横たわり眠る佐藤の肌を思い出させた。
地下鉄の駅で母親と別れた。彼女は「ありがとう、本当にありがとう」と、見るに堪えないほどに憔悴していても、自分たちに気丈に頭を下げ続けた。初めて入るその駅は終着駅で、車両に乗り3人座って発車を待った。
喪服を着た3人の姿が、向かいの席の窓に映っており、木村が「なんかシュールな絵」と言って少し笑った。そして木村は突然話し始めた。
「あいつ、高校の時4回苗字変わってるんだぜ。」
口だけがネジが飛んで壊れたように、突然。
「4回だぜ、4回」
「何もないわけないって思うだろ。なしたのって聞くと、親が離婚して、再婚してすぐ離婚したって言ってた。でもそれじゃ1回足りないんじゃねって言ったら、おお、それもそうだな、ってアイツ笑ってた。その顔見たら何も聞けなかったから本当のところ何があったのか分からないけどさ。アイツ大学ダブってるし、ダブったのも学費稼ぐのが大変だったんじゃないかなって。奨学金も借りてたし、多分大学に行くことに、かーちゃんは賛成してないみたいだった。でもまあ、みんながみんな金持ちな奴ばっかじゃないよな。それでもちゃんと大学卒業してたし、ちゃんと就職したし、最近は雪山でしか会わなかったけど、アイツ全然大丈夫なんだなって思ってたんだ。」
地下鉄はいつのまにか走り始めていて、三人掛けの席の真ん中で、木村は静かに喋り続けた。地下鉄のゆるやかな揺れが心地よく、目の奥でとろりとした熱を持つ視界を、静かに動かしていく。向かいの席に座った年配の男性が怪訝な顔をしているので、ふと木村を見ると無言でぼろぼろと泣いていた。木村は鼻の頭を掻きながら口の端を上げ、そんな自分が情け無さそうに、少し笑った。
「佐藤って、わりあいよく喋るだろ。そのくせ自分のこと全然喋らないじゃん。なのにけっこう人のことあれこれ聞いてきて、悪気なく心の中ズカズカ入ってくるし、なんか色々スゲー失礼なんだけど、なんか憎めなくて、でもぜんぜん、ていうかほとんど、自分のこと見せないじゃん。それで、突然、居なくなるとか。ホント、なんなんだ、あいつ。なんつーか、本当に、ずるいよな。ムカつくよな。」
見ると井上も、メソメソと泣いていた。女の子のようにくりんとした睫毛が涙で湿り、そばかすの上の涙袋を頬を赤く濡らしている。
「友達」
木村は、はっきりとそこで区切った。
「以上だったんだろ、佐藤と。」
木村は赤い目を向けて、はっきりと、自分に言った。
”俺”に。
頬と耳がかっと熱くなった。同時に頭のどこかが冷たくなるのも分かった。井上が優しく口を開いた。
「わかってたよ。でも別に気にしてなかった。僕と木村くんは4人でスノボが出来れば、それでよかったからね。4人でするスノボが好きだったし、2人が例えばそういう仲だって分かっても、2人は何も言わなかったから、言いたくないなら、それはそれで良かったんだ。」濡れたままの瞳で、優しく微笑む。
「俺たち、お互いのことなんも知らなかったしな。別に知らなくても良いと思ってたし。一緒にスノボさえできれば。でも佐藤いなかったら、おまえに連絡取るのさえ、こんな大変なんだもんな。おかしいよな。」木村はポケットからティッシュを取り出し、照れ隠しのように盛大に鼻をかんで言った。
「佐藤もオマエも、気にしすぎなんだよ。好きとか嫌いとかって、良いも悪いもないだろ。いいじゃんか、形は違えど俺たちみんな佐藤が好きなんだよ、アイツの骨拾った仲だろ」くしゃりと泣きながら木村は笑う。
「なんかそれ、ちょっと悔しいね」井上もつられて泣き笑う。
ふいに目頭が熱くなり鼻根を寄せる。木村が、裕福な家庭に育ちながらも医者にならなかったがために、家族に受け入れてもらえてないこと。進路に悩み、それでも放射線技師という現在の仕事に満足していること。
井上が学生時代ストレスによる摂食障害で入院していたこと。ほとんど学校に来ない井上の家へ近所だからという理由で通いつめていたこと。仲良くなってスノボを始め、井上ばかりがどんどん上達して行って佐藤は悔しかったこと。
佐藤から聞いていたから、2人の抱える過去や事情を知らないわけではなかった。木村と井上の話をする佐藤は、2人のことがとても大切な友達であることがわかって、少なからず日の浅い自分と比べ嫉妬しているところもあった。2人のことは好きだったけれど、佐藤のことがそれ以上に好きで。でもそれは、間違いなく「恋」で。
同性の恋なんて知らなかったし、好きな人の、自分の知らない過去を知っている友達2人を、自分の友達と受け入れるのことは、今の自分にはとても困難だった。だからこそ踏み込まなかった。佐藤の友達だから。どこかで自分の友達じゃないと思ってた。でもずっと、2人と友達になりたいと思っていた。佐藤が2人とじゃれ合うように、自分もずっと、2人と、友達になりたかったのだ。
そんなことを伝えたかったけれど上手く言葉に出来ず、ただとめどなく涙が溢れては流れていった。佐藤がもうこの世には居ない、という悲しみだけが、地下鉄の振動に合わせて茫漠と広がっていった。ぽたりぽたりと涙が落ちて、喪服に消えた。
その年を境に、3人ともスノーボードは辞めた。佐藤を除く自分たち3人の関係にとって、佐藤に依るところは大きすぎた。
「佐藤が死んだ」という事実を受け止めることは、酷い苦痛を伴った。身を引き裂かれるような寂しさに、追いかけたいという気持ちが頭をかすめる事もあった。当たり前のように隣に眠る佐藤の夢を見ては、飛び起きて夢だと知り、何度も泣き崩れた。チャイムが鳴ると佐藤だと思い違っては落胆し、メールが来ると佐藤だと思い違ってはがっかりし、そんなことを、うんざりするほど何度でも、飽きもせず繰り返した。
涙が乾いたあとにやってきたのは、絶望だった。ふとした瞬間、佐藤が居ないという事実を見つけた。机に並んだ書類の隙間、トイレの鏡ごし、包丁を当てた野菜の先に、たくさんの悲しみの空洞を見つけては、心の鱗を一枚一枚剥がされるような痛みが走った。
それでも倦まずにいられたのは、2人が居てくれたからだった。
木村は週末になると缶ビールとDVDを片手にふらりとやって来て「この映画面白いんだわ」と、長々と人の部屋に居座った。井上は井上で、なぜかメガ盛りラーメンの画像を3日と空けずに送りつけてきた。美味しそうだねと、ちょっとでも反応すると「いつ行く?ねぇいつ行く?」とすかさず電話をしてきた。
週末になると3人で、あてもなく車を走らせた。高速に乗って適当に走り、適当な町で降りた。名前も知らない漁港で降りて、一日中釣りをした。見知らぬ森の中にあるキャンプ場へ行き、コンビニで買った弁当を食べて帰ってくるだけの時もあった。
木村が教えてくれた数え切れないほどの映画や、井上が食べさせてくれたとびきり美味しいもの。海岸線で見た、夕焼けに赤く染まった空と、それを映し出す海。砂時計の砂が落ちるように、静かに、でも確実に過ぎていく時間。そういうものが、心を救った。そういう時間が、3人を癒した。
翌年の、ちょうど佐藤の一周忌に雪山へ行った。
言い出したのは井上だ。
「山へ行こうよ、滑るときっと気分が悪くなるからさ、あそこのコーヒーとメロンパンだけ食べて帰ろうよ」と。木村がしぶしぶ車を出した。
治りかけた傷口に塩を塗るような行為だとも思ったが、佐藤の死に正面から向き合うことを、3人それぞれ必要としていた。美しい景色や、美味しいお酒だけでは、癒されない傷も確かにもあった。
木村のランクルの中で、木村はいつになく不機嫌そうに見えた。そんな木村に取り繕うように、井上はどうでもいい話をいつになく一生懸命喋っていた。次第にそんな井上が不憫に思えてきて、たしかにあのメロンパンは美味しいし、雪山は滑らなくても楽しい場所だよなと、つらつらと木村に聞こえるように自分も喋った。
とはいえ雪山に着くと、俺たちは車から降りもせず引き返した。泣いてしまってダメだった。
「だから嫌だと言ったんだよ」と、下唇を突き出して静かに涙を流していた木村だったが、次の週、木村からもう一度雪山へ行こうと連絡をしてきた。佐藤が死んだスキー場の駐車場で、青空に佇む白い峰を、3人並んでただ無言で眺めた。
佐藤が居ても居なくても、自分達の日常は続き、季節は巡る。佐藤を置いてけぼりにして歳を重ねる後ろめたさはあったけれど、それでも明日朝が来て、眠りから目覚める限り、自分達は生きていかなければならないのだ。
***
佐藤の死は、おもいがけず不思議な絆を残した。毎年佐藤の命日に、雪山へ集合するようになったのだ。ロッジの窓際の席を陣取って、雪面を下るスノーボーダーを、コーヒー片手に眺めた。アイツ上手いな、なんて分かったように言い合い、そして笑った。たくさんの話をした。仕事の悩みや、好きな音楽や映画、家族のこと、そして、佐藤のことを。2人は自分の知らない佐藤の思い出を、押し付けることなく丁寧に、話して聞かせてくれた。自分の知らない佐藤の一面を知るたびに、佐藤が間違いなくこの世に生きていたのだと感じることができた。佐藤の話になると3人いつも、目を潤ませながら笑いあった。
降り重なる根雪のように、歳を重ねた。時とともに2人と会う機会はだんだんと減っていったが、それはごく自然なことだった。時間の流れは間違いなく、3人を佐藤の居ない世界へ連れていき、等しく時に残酷なまでに佐藤の不在を日常にした。白髪も目立つようになってきた。一年、また一年と過ぎるうち、少しずつ話題も変わっていった。おそらくしばらく会わないと分かっているからこそ、肩の力を抜いて話せることもあるということを、出会った頃より少しだけ大人になった親友を見ながら思う。
コーヒーと軽い食事を取り、笑いながらただ穏やかな時間をロッジで過ごす、そんな時間を尊び愛した。その内に、置いてくなよ、と佐藤が笑いながら滑ってくる気がする。そしてきっと、ずっと、3人ともそれを待っている。だけど残念なことに、佐藤が降りてきたことはない。時間が経った今だって、3人みんな、この場所で佐藤を見間違うことなどないはずだ。雪を撒き散らして、いたずらっ子のように笑う佐藤の顔を、1日足りとも忘れたことはない。
自分は一生、佐藤以上に誰かを愛することは、もう出来ないかもしれない。そしてどこかで、それでもいいと思っている。幸せな諦めと不思議な満足感が、そこには横たわっているのだ。
その日は、そんなふうに過ごして「また」と言って解散する。それが、自分たちが出来る佐藤への唯一の弔いだ。
毎年必ず巡ってくる冬のように、それはきっと、いつまでもずっと続いていく。
完