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小説「爆弾を作ってみせた母は」

どろりと甘い香りのマンゴーを、母はその場で切ってみせた。
狭くじめりとした部屋だった。電源を入れるとカビ臭さが漂うクーラーと、冷蔵庫が付いているだけの、ホテルと呼ぶには憚られる小さなツインルーム。窓の外には、スコールで灰色にぼやけた海が広がっている。

スーパーで青果担当になってからフルーツカットに目覚めたと母は言った。マンゴーは、まず縦半分に切り、その断面にさいの目状の切り込みを入れる。誤って皮まで切ってしまわないように丁寧に切り込みを入れたら、最後に皮をくるりとひっくり返す。するとそれは、爆弾のような形に仕上がった。母は半透明の甘い汁でその手を濡らしながら、残りの半分もあっという間に同様の爆弾へと作り変えた。

生まれて初めて母を旅行に連れて来た。女手ひとつで俺を大学まで行かせた母に、恩返しが出来るチャンスは今しかないと思ったからだ。新卒で入社した会社で、3年間死にものぐるいで働いた。退職金は思いのほか少なかったけれど、季節外れの南の島に、急遽ふたりで行けるくらいには事足りた。

観光シーズンを過ぎたとはいえ、那覇空港はそこそこ混雑していた。俺たちは本島へは寄らず、そのまま飛行機を乗り継いで石垣島へ飛んだ。石垣島に着く頃には、俺も母も、少しだけ冷静になっていた。

石垣島に着いてすぐレンタカーを借りた。仕事で必要に迫られて免許を取ったが、初めて取って良かったと思えた。「グラスボートに乗りたい」という母の要望に応え、そのまま川平湾へと向かう。グラスボートに乗りこむ頃には、空にはねずみ色の曇が立ち込めていた。天気のせいか、期待していたほどの青さは無かったが、母は嬉しそうにガイドの話に耳を傾けて、海の透明さにはしゃいでいた。思いのほか船酔いした体をふらつかせながら駐車場に戻ると、来た時には無かったテントが張ってあった。マンゴーを無造作にカゴに入れ並べただけの、小さなテントだった。
「え、安い!これちょうだい!」
グラスボートに乗った時よりも、母は嬉しそうな声を上げた。持っていた千円札を無愛想なおじさんに渡し、カゴに並んだマンゴーをいくつか触り重さを確かめ、ようやく3つを選びおじさんに渡した。目鼻立ちのはっきりしたその無愛想なおじさんは、ビニール袋に母が厳選したマンゴーを入れ、ニコリともせず「マタキテネ」と言った。

シーズンオフとは言え、うだるように暑かった。空には雲が立ち込めて、その重さに耐え兼ねたように突然、大粒の雨がぼたぼたと落ちてきた。フロントガラス越しの世界は、一瞬で灰色に包まれた。

新卒で入社した会社を辞めたことを告げると、母は少し黙ってから「しばらくゆっくりしたらいいんじゃない?」と言った。俺を大学まで出すのに、とても苦労していたことを知っていたから、俺は申し訳ない気持ちでいっぱいだった。それでも母のその一言に、ひどく安堵したのも事実だった。仕事は好きだったし、楽しかった。心と体をすり減らし、睡眠や食事を疎かにするように働く日があったとしても、自分ひとりで生きていけること、母に苦労をかけずに生活ができることは単純に誇らしかった。あの女が職場にまで来るようになってから、俺の生活は変わってしまった。あの女は何度でも、俺を邪魔した。
「給料出たんでしょ、よこしな」
あの女はそう言って俺の財布を勝手に開け、入っている札を全て抜き取る。女が「慰謝料」と呼ぶその金は、俺にとっては逃げ札だった。振り回されてすっかり疲弊し、金であの女から逃れられるのであればと、俺はなかば諦めに似た気持ちで金を渡していた。
最初は会社の寮の近所に、その後は寮に直接、女はちょくちょく訪ねてきては金をせびった。そしてとうとう、会社にまでやって来た。同僚と昼食を摂りにビルのロビーに出た時、あの女の姿が視界に飛び込んできて、俺は戦慄した。
俺はその日のうちに、会社に退職の意向を伝えた。あの女から逃げるには元を断つことしか思いつかなかったのだ。なにより、先輩や同僚には、あの女との関係を絶対に知られたくなかった。退職するから金は無いと伝えても、それでも何度でも、あの女は金をせびりに来やってた。母には死んでも言えなかった。

母も同じように、金をむしり取られているとも知らず。


父は物心付いた時には居なく、顔も覚えていない。母に見せてもらった写真の中の父は、背が高く瘦せてひょろりとした面長の男で、どこかの港の桟橋でポーズを取っていた。
あのたった一枚の写真で、俺は自分が父に似ていることを知った。
一昔前の俳優のように恰好を付けた、見たこともない実の父。会ったこともない見知らぬ父よりも、母は優しく、時に厳しく、そしてたくましかった。
父が居ないということで俺が引け目を感じないように、母はクラスメイトのどんな親よりも人一倍、俺を気にかけた。思い出せる限りで、弁当を作り忘れたことなど一度もなかったし、授業参観や運動会は必ず来てくれた。父親という存在に憧れや羨望を抱いた時期もあったが、2人を置いて忽然と姿を消すような男には、次第に何の興味も無くなっていった。母は馬車馬のように働いた。それでもウチは貧乏で、役所の人が何年かに一度、家を訪ねてきた。でもよく考えれば、もしかしてそれは「貧乏だから」という理由だけではなかったのかもしれない。

小さい頃どこかのショッピングモールで、俺は迷子になった。俺は盛大に泣きじゃくり、知らない親切な人に迷子センターへ連れて行かれた。迷子センターの職員に名前を問われ、貰ったキャンディーをなめて少し冷静さを取り戻した頃、アナウンスを聞いた母が迷子センターに駆け込んで来た。

あの時の母の顔を、俺はなぜだかよく覚えている。まるで自分が迷子になったかのように、母は泣き出す寸前の顔をしていた。その瞬間、俺は不思議と「この人を、絶対に不安にさせてはいけない」幼いながらにそう思ったのだった。

ツインルームのベッドに腰掛け、母はマンゴーを頬張りながら笑う。
「石垣島に一度行ってみたいねって、昔シュウのお父さんと話してたんだ。だからシュウと来れて、母ちゃん本当に嬉しい。ありがとうね。」
母の、照れくさそうに笑うその言葉に、目の奥がツンと痛む。俺たち母子を突然置き去りにて消えたロクでもない男のことを、母は決して悪く言わない。少なくとも、俺の前では。

絶対、また母を連れて来よう。
今度はちゃんと計画を立てて。

それが、いつになるのかは、まるで分からないけれど。



あの女は狡猾で、1か月に数万円の日もあれば、数百円の日もあった。時には恫喝され、時には泣き落とされ、猫なで声でおねがーいと笑っていたかと思うと、死んでやると突然包丁を振り回した。女の気分の浮き沈みは激しく、金を払って関わらずに済むのであれば、その方がずっとラクだと思ってしまった。俺は、振り回されていた。

俺は父の連れ子で、母はコブ付きの父と結婚した。しかし結婚して1年も経たずに父は、母と俺を置いて出ていった。まだ若かった母は、血のつながらない幼い俺を、女手ひとつで細々と育てた。母は天涯孤独で、頼れる人は少なかった。古いアパートの一室で俺は母が帰るのを玄関のたたきに座り、いつまでも待っていた。朝早くから夜遅くまで働く母を待つあいだ、このまま母が帰って来なかったらどうしよう、と小さい頃はとても不安になった。
母はどんなに疲れて帰って来ても「ただいま」と笑って俺を抱きしめてくれた。

俺を手放す、という選択肢もあったはずだ。

母は色々な仕事を転々としながら俺を育て上げた。時には事務員、時には工場、時にはスーパーの店員、時にはスナック。母の苦労を俺は近くで見て来た。そうしてどうにか、奨学金を借りて大学に入学した。大学に入ってからは俺もアルバイトをいくつも掛け持って、家計を支えた。何とか卒業し、そこそこ名の通った会社に就職した。やっと母にラクをさせてあげられる、そう思った矢先、突然「母親」と名乗るあの女は現れた。

「シュウ、この人は、シュウを産んだ本当のお母さんだよ」
大学卒業を控えた頃だった。申し訳なさそうに、消え入りそうな震えた声で、母はそう言った。俺はひどく動揺した。あまりに動揺し、春から務める会社の名前と寮の住所を、いとも簡単にあの女に教えてしまった。

「産んであげた慰謝料」という意味の分からない名目の金の無心は、俺が働いている間、ずっと続いた。しつこいほどに、何度も、何度でも。

あの日、たまたま実家に帰って来ていた俺は、あの女と鉢合わせた。母が帰宅する前にあの女に帰って欲しくて、入金したばかりの退職金のいくらかを渡したちょうどその時、母が帰宅したのだった。女が財布に金を仕舞おうとする所を見て、母の顔からはみるみる血の気が引いた。

「親子揃ってありがとね、また来るわ」

母はその瞬間、全てを理解したのだろう。

女は高そうな上着をふわりと羽織った。強い香水の匂いが鼻をついた。出ていこうとする女の頭を、母は近くにあった置き時計で、躊躇なく打ち付けた。玄関に倒れた女は倒れ、血を流し、いとも簡単に動かなくなった。女とは対象的に置き時計の針はいつまでもコチコチと秒を刻み続け、タイムリミテッドを開始した爆弾みたいだった。

母の足元には買い物袋から飛び出した瓶ビールが1本転がっており、それは何かあると買ってくる母の精一杯の俺へのもてなしだった。

母は、仕事を辞めて元気のない俺を心配し、奮発してビールを買って来たのだ。小さい頃からそうだった。元気がない時、成績が良かった時、母はいつも特別な何かを買ってきた。果物やお菓子、俺が成人してからはもっぱらお酒。2人とも下戸で、ひと瓶を飲み切るのは大変だといつも言ってるだろうに。父が好きだったというその銘柄の瓶ビールを、母はいつも嬉しそうに、俺に注ぐのだ。

”あの女”は、俺を生んでくれた。だけど、俺を育ててくれたのは、”母”だけだ。俺の家族は、世界でただ一人、母だけだ。

だからあの日、俺はいつになくテキパキと、動かなくなった女をベットへ運び布団を被せた。女の血を拭き取り、荷物をゴミ袋に突っ込んだ。女の財布からさっき入れたばかりの金を抜き取り、呆然と立ち尽くす母を尻目に、思いつくだけの貴重品と着替えをスーツケースに詰め込んだ。

「母ちゃん、逃げよう。」

罪悪感が頭をかすめなかった訳ではない。だけど、恐ろしさに震える母の顔を見て、いても立っても居られなくなった。迷子センターに駆け込んできた時の不安そうな顔と、全く同じ顔をしていた。

その顔を見た瞬間、俺は気付いた。
ああ、俺が母に捨てられることを恐れていたように、母も、俺に捨てられることを、ずっと恐れていたのだ。
「母さんから、離れては、だめ」
母はあの日、迷子センターでそう言って俺を抱きしめたのだ。
泣き出しそうな、消え入りそうな、震えた声で。

血の繋がりがないから。実の親子じゃないから。長年、あの女にどんな言葉をかけられていたかは、たやすく想像が出来た。あの女は蛇のような狡猾さで、血が繋がらない、という母の弱さを付き、長年に渡り金をせびっていたという。だから、俺が母を決して見捨てないと母に分かってもらうには、母と2人で逃げるしかなかった。警察に突き出すことなど出来ない。ひとりぼっちのこの人を、守ってあげられるのは、世界で俺ひとりだから。

あいにくの雨天だった。俺たちはどこに行くか決めかねて、とりあえずホテルの部屋で隠れるようにマンゴーを食べた。
隠れる。まさに、今、隠れて、逃げている。警察は、あの女をもう見つけただろうか。もしかすると気絶していただけで、死んではいなかったのかもしれない。そっと布団に寝かせたあの女はひどく重く、腹の肉がいやでも目についた。自分がここに一時でも居たなどと考えたくもないほどに。

今、こうしてこうなってから逃げるのならば、もっと早く逃げておけばよかったと、多くの人は言うのだろうか。でも、どこに?どうやって?
長年にわたりあの女に虐げられてきた俺たちに、いったい誰が味方をしてくれ、逃げ道を示してくれただろう。俺を守るために必死で生きてきた母に、誰がその理不尽さを、優しく正しく教えてくれたのだろうか。

絶望せずにはいられない瞬間は、いくつも訪れただろう。そのたびに母はきっと、俺の存在によって、生きることを選んでくれたと思いたい。
俺は、俺だけは決して、母を責められない。

夜になって、寂れたホテルを出て近くの居酒屋へ入った。人目に触れないように、口数少なく八重山そばを静かにすすった。びっくりするほど、とても美味しかった。足早に食事を済ませ、夜の砂浜を母と2人で散歩した。俺たちの泊まるホテルの隣は有名なリゾートホテルで、なぜかは分からないけれど翌朝の朝食はそこでとることになっていた。
美しい星空が散らばる闇夜に白くそびえ立つその巨大なリゾートホテルは、まるで物言わぬ白い恐竜のように見えた。

波音は規則正しく寄せては返しを繰り返し、熱をもった砂浜は立ち止まると途端に足を、その奥へ奥へと引きずりこんだ。ホテルのロビーで買ったビーチサンダルでは、どんなに気を付けて歩いてもすぐに足が砂まみれになった。

母は砂にいら立つ俺をみて「仕方がないでしょ、沖縄なんだから」と、よく分からないことを言うものだから、俺は少しだけ笑ってしまった。

「シュウ、母ちゃんね。」

ざん、と、ひときわ大きな波が突然足首まで襲う。

「母ちゃん、ちゃんと警察行くよ。…ありがとうね、ここまで連れてきてくれて。」

ぬるい海水が、足に心地よかった。俺は、悲しそうに微笑む母を見た。
こんな悲しい顔を、させたかったわけじゃ、なかった。

「母ちゃんのために、ムリをさせて、ごめんね。」

そう言われた途端、俺は耐えかねて、その場にうずくまり、膝を抱えた。
何かが俺の喉を塞ぎ、目頭を熱く焼く。泣く俺の背中を、母は優しくさするものだから、俺はやっとのことで絞り出す。
「母ちゃん、ごめんな。ごめんなさい。次もこれから先も、俺がまた、ここに連れて来る。絶対、絶対、連れて来る。俺、ちゃんと、する、します。ごめん。母ちゃん、ごめんなさい。」

謝る言葉はむしろ、母を悲しませると分かっていた。しかし俺は母に謝り続けた。謝らずには居られなかった。

身勝手な逃亡に、1番怯えていたのは俺自身だということを、母はずっと分かっていたのだ。

ごめんなさい、そして、ありがとうございました。逃げ出した俺を、優しく諭してくれたこと。血の繋がらない俺を、ずっと守ってくれていたこと。

俺は感謝と謝罪を言葉にならない慟哭で、ただひたすら繰り返した。母は俺を優しく抱き寄せ、うんうん、そうだね、と赤子をあやすように諭した。そうしてふたり夜の砂浜で、光の届かない海に向かってただ、寄り添って泣いた。

翌日、母はけろりとして「早く起きな!隣のバイキングに行くよ!」と、俺を叩き起こした。

母は、何かが吹っ切れたようにバイキングをガツガツと食べていたかと思うと「よし、今日は天気も良いし、泳ぎに行こう!」と、そのリゾートホテルの売店にあった水着を買った。母が「母ちゃんこれにしたよ」と持ってきたのは、なんと虹色のビキニだった。
「こういうの一度着てみたいと思ってたのよ。」母は、恥ずかしげもなく、そのくらくらするほど派手なビキニをレジまで持って行った。

いったん自分たちのホテルに戻り、水着を着てもう一度そのリゾートホテルへ戻ることにした。リゾートホテルは宿泊客専用のプライベートビーチを完備しており、母はリゾートホテルの客に扮してそのビーチを利用する魂胆のようだった。
「ま、人も少ないし、バレても怒られるだけでしょうよ」
そう言い母は、いそいそと着替えはじめた。ちらりと見えた母の肌が、思いがけず"老い"を正確に教えてくれたことに、俺は少しだけ戸惑った。
「こうすれば身軽だし完璧でしょ?」
俺の戸惑いを尻目に、母はそう言って水着の上にシャツと短パンを履き、早々に砂浜へと向かった。

外は痛いほどの日差しで、目も開けられないほどだった。季節外れの海岸で、海水浴を楽しむ観光客はわずかしかいなかった。

母はざぶざぶと海に入って行き、ゴーグルをかけて潜り「キレイな魚がいる!」とはしゃいでいたかと思うと、ばしゃばしゃと泳いだり、ひとりで勝手に満喫していた。

「シュウー!」
笑顔で海の中から母が手を振る。
俺は母のビキニのような虹色のパラソルの下で、砂浜に腰かけそんな母の姿を眺めていた。

普通、逆じゃね?と気付いたら、なんだかおかしくなってきて、ふふ、と誰にも聞こえないような吐息のような笑い声を漏らしていた。

その時、母が突然海の中で、何かに気付いたように、ハッとして立ち上がり、まっすぐに俺を見た。

真剣な顔で、じゃぶじゃぶと透明の水を掻き分け懸命に走ってくる。
その切羽詰まった表情に、俺は何事かと思い、がばっと上半身を持ち上げて、砂浜をもどかしそうに走って来た母を緊張しながら見つめた。

息を切らし、絶望的な声で、母は言った。

「ねえ、シュウ、どうしよう。」

「…なにが。」

「お母さん…、お母さん、部屋に、替えのぱんつ忘れてきちゃった…、どうやって戻ろう…!?」

はぁー?と言い終わってから、腹のそこからむずむずと、くすぐったい気持ちが湧き上がってくる。俺と母が、たまらず吹き出した途端、かげった雲からまっすぐ日差しが差し込んで、海は一瞬でエメラルドグリーンに変わった。涙を浮かべて笑い転げる母は、南の島の海の輝きに照らされて、太陽みたいに光って見えた。マンゴーの甘い香りが心を満たす。

何があっても俺たち親子は大丈夫だと、俺は思った。


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