小説「あまにが」
あのひとは茶道の先生の御子息で、わたしは10代のわずかな時間を、すらりとした長身の学生服の彼に淡い想いを寄せて過ごした。
身分違いな恋とは知りつつも添い遂げたいと願いながら、時間は無作為に過ぎ、ひとことふたこと言葉を交わすだけ。そうして彼は東京の大学へと旅立ち、わたしの青春は終わりを告げた。
そして今、看護師として働き出して数十年。
結局、結婚はしなかった。
今日、新しい入院患者のリストの中に、見覚えのある名前を見つけた。わたしが師長をしている病棟は、身寄りの無い方が最期の時を過ごすため、集められる場所だった。
脳疾患と認知症を患ったその人と、時を超えて再会した。
看護師としての長年のカンで、彼はおそらく余命いくばくもない。添い遂げたいというあの時の願いは図らずしも叶ったのかもしれない。
「あなた、は、わたしの、初恋のひ、と、に、よく、にて、いる。」
やっと聞き取れたその声に、わたしは思わず泣き笑う。神様の意地悪か、ご褒美か。
初恋はなんて、あまくてにがい。