ある人間の告白
きっと、モテないやつの僻み乙wwとか、負け惜しみwwと処理されてしまうことも多いかもしれないし、経験がない、少ないが故のことと片付けられてしまうかもしれないけれど。
それでも、私は…。このリンク先の文章のように『お気持ちを表明』しておきたいと思った。
『恋人が出来ないから仕事や趣味が好きな訳ではありません。ただ仕事や趣味が楽しいから、恋愛をしないだけです。』(Ace Flagのサイトより)
さっそく本題からは外れるけれど、果たして、恋愛ってなんなんだろうか、恋愛や性愛がないことは、損失なのか。恋愛ってそんなにいいものなのか。
個人的には苦しみしか生まないと…いや、苦しみ「しか」生まないなんてこともないけれど…。ちゃんと楽しみも幸せもあるし、多幸感もある。
けれどもそこに、嫉妬や執着や不安や恐怖、その他諸々が付随してくる。
それでもいいなら、恋愛とやらを探せばいいさ。「恋愛がある」人間としては苦々しく思う。もうあんな思いをするのはこりごりだという思いを込めて。(もう恋なんてしないなんて言いたいよ絶対)
朝ドラ『おかえりモネ』でも、りょーちんが言っていた。
大切な人が増えれば増えるほど、失う怖さが生まれる。だからもう自分は、大切な人なんて作らないと決めたのだった、何言ってんだ俺…というような台詞を。
「震災で母が行方知れずになり、自暴自棄になった父親をずっと支えながら、それでも、辛さを見せずに明るく振る舞う好青年」という振る舞いを、一人で続けていた彼は、それでも最後には大切な人を作って、2人で未来を作っていく決断をする。
なにも「だからあれは恋愛至上主義だ」と批判したいわけじゃない。恋愛文脈だけで語れない何かが、そこにはあると思うから、恋愛だけで語ってはもったいない、と思うのだ。(恋愛だと解釈するのは、それは自由だけれども)
何が言いたいのか、よく分からないと自分でも思いながら書いている。でもきっと、恋愛だけで語れない関係性だからこそいい、ということだって、世の中にはあると思う。
『おかえりモネ』ひいては、りょーちんと未知の物語や、モネと菅波先生の物語は、私は、救いと同士の物語だと思う。(念のため「同志」ではない)
りょーちんと未知は「自分よりも家族、で生きてきた」者同士、モネと菅波先生は「なんとか他者の《痛み》に寄り添おうと努力する」者同士だと、私は読み取った。そして、各々が1人で抱えていたモノを一緒に抱えてくれる存在が現れるという「救い」がもたらされる。
いやいや、恋愛という言葉の意味の幅を自ら狭めすぎてるだけじゃない?だいたい、普通そんなに真面目に考えて恋愛しないよ…とセルフツッコミしながら、それでも、いわゆる世間で恋愛と言われるものに、やっぱり、私は素直に乗れない。恋愛という言葉では、語りきった気になれない。
今、私には大切な人がいる。
どうしても私は、外面上は男女だったりカップルと見られることへの拒否感、恋愛関係と見られることへの拒否感があって…。そして、付き合うという言葉への疑問もあった。ずっとモヤモヤしていた。なぜなのか。
最初は、自分がやっぱりヘテロセクシュアル(異性愛者)じゃないからなのか、と思ったりもした。やっぱりどこまでいってもビアンなのではと。
パンセクシャルなんてラベルで安心して、実はそうでなかったとしたら。
それとも自分が女と見られるのが嫌なのかとも考えた。実は女自認ではなく、広義のトランス(FTXやFTM)なんじゃないかって。
でも…。よくよく気持ちを分解すると、好きになる相手の性別・自分の性別云々ではないような気がする。単に「誰かに勝手にまとめたり、評されたり、決めつけられたりすること」への拒否感なのではないかな…という結論に達した。
ここまで、ほぼ一息もつかずに勢いだけで文章を書いている…。
付き合っている、とは何をすることなのだろう?
恋愛関係とは、いったい何を指すのだろう?
『ただただ一緒にいて、楽しいひと時を過ごすだけではダメなのか。』
って言うのは、本当にその通りだ。それでいいと思った。関係性に名前をつける必要はあるのか?「双方が恋愛感情を持っていて恋人」にならなくてはダメなのか。「幸せ」とやらにならなくてはダメなのか。
今、私には大切な人がいる。その人を誰よりも近くに感じるのは、男女としてではなく、恋愛感情としてでもないと思う。つまり、一時の気持ちの高ぶりではなくて。恋愛感情というものを否定するわけではなく、自分のは違う、という意味において。
私という人間を見てくれる人だから。自分という人間まるごとに、真摯に向き合ってくれる人だから。言葉を大切にして、言葉を尽くしてくれる「人間として信頼が置けて安心できる」存在だったから。
世の中のことを、決めつけるでもなく、分かったつもりになるでもない。「普通」とか「当たり前」という言葉でまとめない。そんな、しち面倒くさくて、労力がかかる生き方、『野良学者』を、一緒にやってくれる「同士」だと私は思っている。
何をムキになって言葉を捏ねくり回しているのだろうと、自分でも嫌になる。そういうのも含めて恋愛なんだよ、健全なお付き合いなんだよ、ただのノロケだよと言われてしまえば、それまでなんだけど…。
付き合うといえば別れるという選択肢が常に延長線上にあると思っているけれど、気持ちの上ではもう、生活共同体の構成員くらいに思っているので…。
セルフパートナー(下記インスタ参照)という言葉が「1人で満ち足りているから求めない」という意味であるように、この人と一緒にいるからこそ満ち足りるのだと思える相手だから、これからも人生の戦友として、一緒に生きようと思っている。
例えば、1人で生きている友人を、寂しいとか、まだ素敵な人に出会っていないだけだよ!という言葉で評したくはない。自分が納得しているのが大切で、自分が満ち足りているのが大切で。
「幸せの形は人それぞれ」と言うと、最近は言い尽くされた感じがして若干、陳腐な言葉に響く。けれど、今も昔も自分なりの形や自分たちなりの形は、ただそこにあって、ふうふの形はふうふの数だけある。何も多様性の尊重は今に始まった話じゃない。
なんとなくの普通や当然という言葉でまとめて、分かった気になれない、大人しく黙れない、うるさい人たち、という皮肉的な意味合いも含めて、フェミニストという言葉が使われていると感じる今日この頃。けれど、そういう意味でも、私はやっぱり、フェミニストでありたい。
普通を普通という言葉でまとめて分かった気にならないでいきたい。