「毎日毎日『今日は何もできなかった』と思いながら生きるのは嫌だ会議」議事録
先日、東京は高円寺にある「蟹ブックス」という本屋さんに、ノリと勢いで行ってきました。
小沼理さんの出版記念イベントなのに、イベント告知を目にした事で、その本の存在を知るという体たらく。該当の本は一ミリも読まないまま、不勉強のままの自分が参加していいのだろうか…。
それでも、イベントのタイトルを見かけた時に、どうしようもなく惹かれてしまった。「毎日毎日『今日は何もできなかった』と思いながら生き」ている今だからこそ参加したい、と思いました。
自分の現在地は、というと…休職からの復職からの再休職中で、何もしてなくて、所属先はあるものの中ぶらりん状態で、いわば「生産性がない」の極地にいる。
「今は休むことが仕事だとか、休むことも大事だとか、人生長いんだから遊ぶ時もあっていいのさ」そんな風に思える時も、ある。その一方で、ずっと心に引っ掛かっている事がある。何もしていない、何もできていないという罪悪感。
そんな今の自分と比べて、今回のイベントでお会いしてお話を聞くまで、正直なところ、清田さんのイメージは《今日は何もできなかった》の対極にいる方という印象でした。
何故なら、文筆家として、新聞の悩み相談や著書やネット記事などで活躍中の方で、少なくとも、ここ数年の自分にとっての興味範囲の中では、名前を見かけない日はないと言っても過言ではないほどのご活躍ぶりなので。
そんな方の口から「言うなれば、毎日毎日、某テレビ番組で見る黒服の男たちに追いかけられてるようなイメージ」だとの言葉を聞いて、私の脳裏にはミヒャエル・エンデの『モモ』がチラつき、灰色の制服を着た時間どろぼうの男たちは、令和の日本にもやってきているんだということに、ハッと気が付かされました。
お子さんの送迎や育児、毎日の外出や移動一つとっても効率を求めてしまっている自分に気がついて愕然とする…とか。
早く終わらせないと、次へ次へ!と耳元で囁かれて追い立てられている…なぜ、何に向かって、我々はこんなに追い立てられているのか、これが新自由主義ってやつなのか…など。
それって、まんま『モモ』の中で時間銀行に時間を預け出した大人たちの姿じゃないか。そして、以前の自分もまた、その中の一人になっていたということに、清田さんのお話しを聞きながら、こちらも愕然とさせられていました。
早く社会に戻らなくてはと焦る気持ちの一方で、今回の本を出版された小沼さんのように、日記(私の場合はnoteやTwitter)を書くことで、丁寧に自分と向き合ったり、考えを深める時間も取れる今の自分だからこそ、どちらも身に覚えがあるからこそ、余計にどちらの気持ちも分かるし、身につまされる。
『神様のカルテ』の主人公、栗原一止さんが、社会に合わせてグルグルグルグル回らないと世間からは変人だ、変わり者だと言われる、と独りごちていたように、普通に合わせて普通に生きようとする力は確実に社会の中にある。それでも、小沼さんの言う通り、そういう声からは適度に目を逸らして耳を逸らしていかなくては《being=したいこと》が《doing=すべきこと》に押し潰されてしまう。
このような時間―それを会議と呼んでもお茶会と呼んでもよい―、日々の中で一旦立ち止まってみる時間の大事さが身に沁みる会議でした。(そういえば、栗原一止先生の名前の由来も、そこからでしたね)
そしてもう一つ。
個人的なことは政治的なこと、というよく聞くフレーズ。小沼さんの今回の本では、それが自然にできている、それはなぜ?という話題になった時に、小沼さんが語られた言葉が印象的でした。自分のアイデンティティが故に、自然にそうなっているのでは、というような言葉にも、ハッとした。
社会のことに関心があって偉いね〜と、他人から言われることが多い自分もまた、小沼さんと、違うけれど同じ立場だから。身体障害者で、発達障害かもしれなくて、LGBTQな側面を持つ、マイノリティ性をもった人間だから。
偉いねと言う人を、責めているわけじゃない。褒められているのも分かる。
けれど、偉いんじゃない、すごいんじゃない。
社会的にマイノリティであることを体感する立場、それがゆえに、社会や政治の行方がそのまま、自分自身が生きることそのものに「結びついてしまう」のだ。
政治家が、国民は寝ていてくれればいいとか、社会や政治について考えなくても済む国はいい国だと平気で言ってのける国に、私たちは生きている。
考えなくても済むような国を、自分は作れているとでも、思っているのだろうか。LGBT理解増進法案1つ、立法府に提出することすら、できなかったのに?
理解を増進するルールすら立てられずに、差別禁止を明記することや平等法案なんて無理、ましてや相手の性別に関係なく結婚できる社会なんて夢のまた夢なのだと、絶望しそうになる気持ちを、社会や政治にぶつけずに、一体、どこにやればいいと言うのだろう。個人の責任、個人の趣味だと??
あの法案が頓挫した陰には元首相がいたという記事を目にした時、思わず居なくなればいいのにと願って、それが後日、不本意な形で現実になってしまった時の、あの恐怖感を、自分もまた引き金を引いた側なのだ、ということに震え上がったあの気持ちを、世の中の《普通》に乗れている人が、一体どれだけ想像できるだろうか。
国民の代表のはずなのに。国会議員なのに。社会や政治について考えなくては生きていかれない人が社会にまだまだいるんだ、自分が取りこぼしているものがあまりに多い、そういう感覚を持っていない人が、あまりに多すぎる。もちろん、真摯に仕事と向き合って国民の為にと働いている議員さんも多いけれど。
自分もまた、この国の多数派だから、常に下駄を履いているのだと、誰かを踏んでいるのだと、忘れないように生きていこうと改めて思う。例え自分の周り半径数メートルでも、一人でも多くの人が生き延びられるように、手を伸ばしたい。不器用ながら、力不足ながら、改めてそう思う。