教育ママに触れた日
最近、私の周りの同級生のほとんどが親になって、おそらく日本の受験戦争たるものに巻き込まれているらしい雰囲気をSNS等から感じている。今日はそんなことに一瞬だけ触れた日のある日のことをNOTEで書き残したい。
ある日のこと
最近私に「自分の子どもは英語が苦手で困っている、自分で教えられないから教えてほしい」みたいな冗談半分の依頼がくることが増えた。
中学時代の友達なら知っているだろうに。。。いかに私が英語ができなかったかということを!!とは思うのだが、ひょんなことに学生時代の後半戦で奇跡的に?裏道的に?「頭が良い」と勘違いしてもらえる進路を歩んだことでなぜかそんなご縁に恵まれることもある。
私が通った中学高校と(どちらも中途半端に在籍した)女子校はお世辞でも偏差値という基準で頭がいいとは言われていない。でも不良もいないし、分別が付いた地味だけど着実な人生を送れるとても良い学校だったのではないかと個人的には思っている。今更あの時どっかの学校に通っていたら人生変わったのでは!と思うこともない。あの時の私のお勉強レベルで行くには最適であり、平和で穏やかで、何よりも良い時代に学生生活を謳歌できた。
偏差値的には勉強は出来ない子がとにかく多かった!
今になって思うのは、勉強は「集中力」「記憶力」のバランス感覚が大事な頭を動かすスポーツみたいなもので、勉強する姿勢作りというのは幼少期から積み上げていく人ほど強い。そこに加えて「要領の良さ」も必要であり、分からない問題にいつまでも躓いて動けなくなっているようでは勉強を出来るようになるよりも嫌いになってしまうリスクが高くなる。あとは一重に家庭環境もあると思う。親がギャーギャー勉強しなさいと怒るような家庭に育った子はある程度までしか勉強はできず、一人で勉強することができないという(私のことですか?)
一方でスポーツが得意な子、手芸が得意な子、色んな子がいたからそれはそれでよかったんじゃないかと思う。窃盗や暴力などとは無縁だったし、今みたいにデジタルデバイスによる虐めなどもなかった。授業中に手紙を回して先生に音読されたり、生理用品が授業中に宙を舞ったりして新卒の男性教員を困らせた。体育祭や文化祭には男子生徒がやってくるとあってみんなスカートを短くしたり、透明のマスカラを付けてみたりする子も多かったな。そんな友人たちは専門学校や短大、女子大などに散っていったが、今でもバリバリ第一線でファッションデザイナーをしていたり、バイヤーをしていたりするし、留学して海外に住んでいる子も多い。みんな各々の人生を楽しんでいる。
時は流れ
あれから20年以上が経ち、引っ越しを繰り返して消息不明といわれた私をその頃の友人たちがSNSを通じて見つけ出してくれた。その時には既に多くの子が親になっていたし、各々が充実した日々を送っているように見え、私は自分が未だに子育てもせずにいることをちょっと後ろめたく思った時期もある。
時は更に過ぎ、今急に「英語」というワードを接点に繋がってきてくれる女子校時代の友人がいる。彼女は例に漏れず勉強ができず、そしていつも目立っていて、先生に怒られているようなイメージだった。どちらかというと目立つタイプなので、地味な女の子とは接点を持たないタイプの子だった。やはり彼女はその後も派手な注目されるような人生を送っている。
その子が私にDM上で見せてきたのは長男の学校のテストというやつだった。息子君は誰もが知るような御三家の私立男子校に通っていて、私はあまり思わないけれど、一般的に見たらおそらく将来有望株とされる優秀学校卒業生的なサムシングになるんだと思う。(というか小学生で良い私立に通わせればあとはエスカレーターで付属の大学まで行ければ勝ち組だ!みたいな昭和的考えは、いつまで健在なんだろうか。。。)
懐かしい響きがする
そのテストというのを見たところ、英語のテストと言いながらもオーラルコミュニケーションを軸に据えたような私たちの時代にはなかったようなテスト内容だった。文法問題、いわゆる昔の英語のテストのような問題から、自分に振ってくるランダムな手札を組み合わせて、先生と英語で対話するみたいなオーラルまで入っている。個人的には総合力を試したいのかなとは思うけれど、どれも中途半端になりそうな「いかにも日本らしい」点数をつけるための英語のテストという感じ。しかも文章も去年はいい成績を取れてる人が多いので今年もそういう人が沢山でることを期待しています!しっかり気を抜かずに勉強しましょう!とか訳わからない鼓舞するのか圧をかけるのか分からないような枕詞が添えられている。本当に日本の煽る教育ってどうにかならんのかねっと違うところに若干元教育業界に身を置いた私としてはイラっとした。この文章を親も見るのだからそれはそれは「焦る」から子供に「更に圧をかけていく」んでしょう。競争化社会教育を教育しているんだったら問題ないのだけれど、こうやって生まれた阿呆な官僚たちを見ているので期待もできないんですよね。だって世界の競争社会で競争できてないんだもの、効果あります?って感じで。
案の定、友達はこれを見せてきて「周りのお子さんはお金持ちだし、しょっちゅう海外旅行に行くし、小さい頃から英語を習わせている。うちも習わせてはいたけど挫折したのよ。週1で無理でしょ?どうしたらいいと思う?海外旅行にそんなしょっちゅう行かせられるわけじゃないし!!!」と猛烈にDMを送ってくる。そんなこの友人は何年か前に某有名英語教室の子ども英語教師の資格を取っているから英語は嫌いではなさそうなのだけれど、やはり自分の子どもに何かを教えるというのは難しいのだと思う。
「インスタントに点数を取るだけの英語の教え方は私にもできないよ」と私は伝えた。親がここまでハイになって話してくるのだから、おそらく彼女の子どもは既に英語に苦手意識を持っている。加えて、他の教科は問題なくできるのであれば、勉強ができる頭を持っている。だからその頭が良い頭の中で何か拒否反応が起きるような回路がつながらないサムシングが英語にあるのだからそれを謎解きしないと始まらない。「これはこうだから覚えなさい!」頭の良い子は兎角これを嫌うので、私は暫く謎解きコナン業をしなければならないし、彼の先入観をぶち壊す必要が出てくる。加えて、嫌いな英語をこの人なら教えてくれるかも!という信頼関係だって必要だ。小学生はもう子どもではなく、立派な大人予備軍だから、大人の言葉をある程度はしっかり理解できるし、見透かすこともできる。
友人は私の賢い子だから大変だという言葉に激しくうなづいた。でもそれは「救ってくれるかもしれない!」というところだけを見て頷いていて、私の言葉の真意は分かっていないように見えた。感情が高ぶっている人との意思のコミットメントはかなり難しいし、私は過去の経験で何となく母親という存在がいかに子どもに対して大きな熱量を燃やせるかということも知っている。だからこそ信頼は秒で怒りに変わり、裏切った裏切られたという感情論に発展して面倒なことになることも知っているので慎重に言葉を選んだ。「たぶん頭の良い子は納得しないと前に進めないから、しばらく日本語で何回かお試しで授業をして肌感覚が合うかどうかをお互い見ないと難しいかもしれない。私は誰でも見れますとは言えない、責任が伴うから。」と続けた。「お試しレッスン!いいね!何回かやってもらって単発でね!!」と彼女から即レスポンスが来る。この雰囲気を見る限り、彼女は相当息子さんのことで悩んでいて、救世主降臨!!といったような気持ちであまりコンテクストを読み解けていない。とりあえず「やってほしい!」という欲求が前に出ている。こうなってしまうと危険で、マーケティングでモノを売るには大成功なのだけれど、教育としてはあまりよくないなと感じていた矢先にこの話は急速に破談を迎えることになる。
突然の私情
「私恥ずかしくてさ、自分の母校の名前もいえないのよ!」
会話の途中で突然彼女は何を言い出したのかと思った。とにかく彼女はそのあとに自分の学校がいかにバカな学校で、息子のお友だちの親が行っている学校が優秀で、それが恥ずかしいのかを言い出した。言葉に出すのも恥ずかしいと、バカすぎてと。続けて私たちが通った学校はカトリックだったのだけれど、その宗教を教える時間がいかに勉学に無駄であったかということを熱く語っていた。とにかくすべてが無駄だった!それが母校に対して思う恨みのような気持ちらしい。
それに比べ、今の息子の学校は兎角先生方の教育が素晴らしい。さすが優秀な学校を出ているプロだという感じのことを彼女は普段から常にSNSにも挙げていて一種の高学歴社会に陶酔しているお受験ママに近い精神状態を持っている可能性は昔から見え隠れしていたけれど、こんなにも母校を恨んでいることが背景にあるのだなと気づいた自分がいたのだ。
自分の息子に同じ轍は踏ませたくない、そういった自分のコンプレックスの矛先が母校に行き、そして宗教否定に繋がっているように見えた。無宗教だから息子は!!という異様なDMに私はこの仕事は請け負うべきではないなと確信してしまうことになる。
「そう結論付けてしまうのは勿体ないよ」
そう私がいうと返信がピタっと止まる。彼女はきっと今までの人生の歩みのなかで、自分の人生を振り返ってコンプレックスを消化する時間がなかったのかもしれない。だからこそそのコンプレックスを子育てをする中で子供を通して解消しようとしている。自分が勉強ができなかったこと、それは学校のせいではおそらくなく、自身の問題であることを消化しきれていないし、たぶん当時の彼女は私と同じように勉強する気がなかったと記憶している。
そして今その記憶はきれいに書き換えられた上で、今度は大切な息子が英語を苦手になり学校で劣等生になる可能性がちらついてきてしまった。お友だちに負けたとも言っていた。おそらくそんなことにならないように、そうさせないように、必死に子供を小さいころから教育して塾に通わせて、お受験させて、日本の御三家に入れたのに!どうして!という焦りが彼女を突き動かしているのだろうか。
旧友から見れば、それは子供のため?自分のため?なんのために?と映る。そもそも子どもの家庭教師をその大嫌いな学び舎で学んだ私に頼むなんてどう考えても冷静ではない。私の母も自分のコンプレックスを全部私に投げてきたからなんとなくわかる。自分が行きたかった学校を私の意志を無視して受験させた小学校受験。それで失敗してずっとそれを言い続けた中高時代。大学で母が本当は行きたかったけれど行かせてもらえなかった大学に進み、小学校で落ちた付属の大学を受験して合格、辞退して初めて母はその名前も事柄も一切口に出さなくなった。消化できたんだろう色々と。親とて人間だもの、自分の人生のやり残しを投身させてしまうことはあるんだということ。でもそれは子どもにとってはとてつもなく大きな心労になること。これを親はいつ知るんだろうか?
宗教と語学、そして教育
「宗教を語らずして語学は語れない」
ちょっと立ち止まって考えたら分かることなんだと思っていた。例えば日本人大好きのOMG. これはそもそも宗教観たっぷりのフレーズであまり人は好んで使わないので Oh my goodness. Oh my gosh. など変化させて使われる。宗教観に薄い日本人はむやみやたらにOMGをそのまま使う。でも旧約聖書に神の名前はむやみに口にしないと書いてある所以から、信仰心の深い方にしてみたらこの言葉は失礼、不快に値する。そう、だから宗教は悪であるなんていう考え方を突き通して、無宗教万歳なんていっていることと英語という語学を勉強することを切り離して考えると何かとミスリードする部分も出る。これは英語だけじゃなくて、歴史や、文化的価値観、風習なども全部宗教が密接にかかわっているのだから、そこら辺の根本的なことをまずまず不要としてとにかく勉強として英語をお願いします!と言われてしまうと私はお受験英語の点数を期待する彼女の期待にはお答えできないだろうと思った。英語はこういう色んなものに密接に関わり合いがあるからこそ、私は今でもしぶしぶ勉強し続けている。これが国語・算数・理科・社会・英語の点数取りだけのための英語を!と言われてしまうと、おそらくお受験に強い日本式の塾へどうぞとなってしまって、私では逆に力不足になる。
「英語が苦手な人に興味を持ってもらいたい」
実際、私が英語教室で先生をしていた頃の話。私は上記のような思いを持って英語教材を作っていたのだけれど、覆面講師として週1回先生も兼任していた。その事実を知るのはお教室の先生と受付の人だけで、もちろん生徒の親はそんなことは知らないし、私たちもお知らせすることはなかった。小学生のクラスでは「なんでそうしなければいけないの?」という声がよくあがるのを知ったのもこの頃で、彼らは自分たちのロジックがあってどんな形であれ納得すれば飲み込みが早い。だからこそカリキュラム通りに進めなければならないという先生の仕事はとても辛い。限られた時間の中で進めることが目的となってしまって成果や納得度合いに寄り添ってあげることができないから。そして親はすぐに成果を求める。月にいくら払ってるんだから英語が話せるようになってしかるべきだ!と英語にご自身が触れていない親ほど短期間の結果に大きな期待を寄せている。これもちょっと考えれば分かるのだけれど、子供は生まれてから毎日親の日本語のシャワーを浴びて育っても発語するまでに相当な時間がかかり親をやきもきさせてきた。パパ・ママなんて言った日には歓喜しただろう。このように人は語学を理解して発語するまでには実は相当な時間を要する。そして子どものほうが状況で理解して言葉を話す分、ロジカルじゃないので最初は意味が分からなくて真似しているだけだ。それが段々と状況と言語のマリアージュされる経験を通して言葉の意味を理解していく。多言語を話すということがどれだけ難しいことなのか、これは自分で言語を学び習得した経験がある親ほど理解していて結果をすぐに求めない。逆に、子供に自分のできなかったことを託しお金でどうにかなると信じている人ほどすぐに結果を求めがちで、結果が見込めないと思うとすぐにやめるので意味がないことも残念ながら多いのが英語教室という習い事だと感じている。
友だちがキレた
「そんなの日本にいる限りは分からないかな!!」
これからの時代は英語だけではなくて、その背景を知っていた方がいい時代になった。トランプが来年にはアメリカで大統領になる。彼はまさに宗教をベースにした政策を明確に打ち出している。英語も、ハリーポッターも全部が宗教に関わっているのだから、日本のように無宗教がスタンダードな国は海外では逆に異質に見られてしまう。そういう背景を考えながら語学というのは勉強していくと更に広い視野で勉強できるといった趣旨を話した後、明らかに友人のテンションは下がっていた。
日本教育における英語は本当にどこまでいっても受験科目で、日本国内に住まうものにとってはさほど重要ではない。ただし、内申や大学受験に向けては必須なので苦手にするわけにもいかない厄介な科目であるという立ち位置はいつまでも変わりそうにない。自称教育ママという友人が考える優秀な明るい未来はまだ御三家にあって、たぶん私の見えている世界とは全く違うんだろうと思う。おそらく私の想像のなかでは、お父さんが東大だ慶応だ早稲田だ、一ツ橋だみたいな世界が圧倒的勝者で、お母さんはおそらく日本女子大とか聖心女子大とか青学、立教、上智、慶応みたいなのが品がいいとされる。そんな私が母親世代から刷り込まれたイメージを踏襲し続けているのだから、世界もさほど変わらないのだけれど、そういうハイグレードな名前で右往左往する教育に心を暫くは揺さぶられながら生きていかないといけないのかもしれないし、私はそこに子供がいないからという理由で入ることはできないのかもしれない。でも、もし自分に子供が今できたとしても、たぶんそういう教育を目指さないと思う。だって、私はその教育で幸せになれたとはどう考えても思えないからだ。そのまずまず立ち位置が違う私が、彼女と話が合うわけもなく、気分を害させてしまう結果となってしまったわけだが、未だに何が正解だったのかわからない。ごめんよ。。。
親の愛情とエゴと連鎖と
正解なんてない80年クラスの人生の中で、親は自分の生きてきた一部の時間を振り返って自分が後悔したことを子供にさせたくはないし、自分が正解だったと思うことを子どもにも正解だと信じて踏襲させたいと願うのはいたって当たり前のことだと思う。私たちは動物だから、自分が経験した限りのことですべての尺度を図るしかできないので、結局子どもは親と似通った環境で育ち、似通った考え方を持ち、似通ったものを幸せと考えてまたそのタスキを次の世代に渡していくことがたぶん歴史的にみても普通なんだろう。
でも、稀に運命のいたずらで、親が全く想像もできなかったような教育環境に子供が入り、親が到底理解できないような人たちと関わり合いながら違う価値観を身に着け、親が自分の人生経験でコントロールできないような子どもに育ってしまうことがある。多分それが海外教育機関で育った帰国子女ってやつなのだろうと思う。私はそれが高校で起きてしまったので比較的親は動揺したと思う。私が高校時代に置かれた環境はとても贅沢だった。大勢の大人が私の成長を見守り、寄り添い、そして友人が手を貸してくれた。いっぱい人と語り合い、宗教、セクシャリティ、貧困問題、差別、平和について考える機会もすぐそばにあった。今現在、私の価値観の大半は今親の持つものとまったく違い、親が何か言うことに疑問を持って論文やら世界のニュースやらなんやらを持ってでて「それは一概にそういえないのではないか?」と議題を振ることもあり親は厄介そうに私の話を流してしまうことがある。
嫌な娘でしょ?
高校時代・大学時代に徹底的に叩き込まれた、自分で調べて、理論をもとに自分で考えて、その問題を多角的に見て判断できることを見極めること。自分がそうだったからとかの平ったい理由ではなく、そのファクトをもっと遠くから見てみること。宗教や文化背景や生活習慣やそういったものを多く調べ知識として蓄えて違う視点を養うことで「英単語1個を覚えなさい!」とドリルするよりも嘘みたいに簡単にその英単語なり周辺の言い回しなりを納得して覚えることができたりする。そんな「繋がっていく経験」をすると勉強は途端に生きる知識となり「何のためにこれやってるんですかー?」みたいなことがなくなるので子どもたちにもそれをやる理由、メリットを明確に言語化できる大人になれたこと。私の強みは言語化することだと思っている。それは私の両親にはない私の強みであって、最近は親も少しずつだけれどそんな彼らの規格外にいる子供たちを認めてくれようとしている。
でもさ
偉そうなことをいってるようで大変申し訳ないのは、私の英語の発音は決して上手くはないし、むしろ幼少期に聴く耳を育んだ帰国子女と違ってど下手くそだからお恥ずかしいもんで、英文法もよくぶっちゃけ分かっていないし、綺麗な英語も大人のイディオムもビジネス英語も言うほど話せない。でも不思議とそんな私に英語の仕事が海外の方からあてがわれる機会に恵まれたこと、それは私の語学力でも英語のテストの成績でもない。世界は広い、色んな人がいて多言語で、文化があってということを私が理解していること。そして相手を知ろうとする力が強いこと、自分の考えを言葉にしてしっかり相手に伝える意思があること。そういう思いや、コミュニケーションをとる姿勢を彼らはとても好いて私を雇用してくれてきた。(実際、仕事中に英語を直されたり、文法を指導されたり、英文を正式にリリースする前に俺にチェックさせてくれといわれたり、恥ずかしい話は万とある。そう、彼らは英語を正しく話せない、書けないということをちゃんと理解していて、私にそこは期待してくれることは永遠にない。。。のが悔しいわ?)
「私の知ってる日本人と違う」
そういわれて生きてきたのは英語ができるからではなくて、なんでそれをするのか?なんでそうなったのか?を調べることが結果自分の人生を助けてきたし、自分の辛かった英語嫌いの過去や、勉強が出来なさ過ぎて親に怒られたり、周りにバカにされた過去を消化できた。そして負傷しながらもなんとなく進んできた結果がこんなもんであって、本当は努力すればもっともっと上というものを見れるのかもしれない。だけど私はできていない。
なんとなくだけれど、友人と話して思ったのは、私は彼女の息子の家庭教師的なものにはならないほうがお互いのために幸せなのだということ。
もし、息子君がこっちの世界に足を踏み入れたとき、彼は成績を伸ばすことよりも違うことに興味を持ってしまうかもしれない。なんでそうなんだろう?が強い子だと言っていたから、彼は色んな英語にまつわるなんでを私と話すことになるかもしれない。そして日本教育には不要である無駄な時間が流れ、たぶん私は近い将来友人から恨まれてしまうかもしれない。
でもね?そんなことをふと考えて保守的になりフェードアウトを即刻選択した自分もまた、加齢したんだなとちょっと寂しい。そして昔のように正義感で飛び込んでいけない弱さをまた学んでしまったのでしょうね、なんとなく情けない気持ちになったこともここに書き残しておきたいと思う。