Vol 01. 帰国子女ってチートスキル?
INTERESTING STORY
「自分の価値観と全く違うものと出会う」これは、中年帰国子女のマインドをアップデートするには最高のエッセンスだ。これを「うざい」と捉えるのか「興味深い!」と捉えて考察して自分の価値観を広げるのか、そこで明日から見える景色が変わったりする経験を私は17歳くらいから続けてきた。
私がアメリカに渡った時、初めて出会った価値観がある。仲良くしてくれた男の子が私を自分の点数上げに利用していたことを知った時だ。ご実家がお金持ちの男のだったのでパーティーにも数回か呼んでくれた。いつも学校では笑いかけてくれて助けてくれるので、私はこの男の子に恋心すら覚えた。その矢先、急に彼は冷たくなった。後から知ったのは、アメリカでは良い大学に行くためにポイント稼ぎをしなければならず、彼は弱者である私を助けることで自分のポイント稼ぎをしていたということだった。
日本の学校にはないポイント稼ぎ制度がこの国には高校からあって、ボランティアや教師が分かるように良い行いをして自分の評価を加点式に儲けるらしい。そうか、そういった仕組みがアメリカにはあるからこそ、弱い人を助けようとする文化があって、そこにお金や支援がまわることを知った。これは経緯はどうであれWIN-WINではないかと思った。こういった経験が私に教えてくれたのは、いかなる物事も誰がよくて誰がダメ、誰が上で誰が下、誰が勝者で誰が敗者などを決めたがるのは早合点だと言うことだった。必要なことは、事実や症例を列挙して俯瞰して考えること、ただ一般論という方程式にぶち込んで物事を捉えないということだ。だって、世界は私たちが思っているよりも何倍も複雑で、何倍も奥深いから。
そもそも、このNOTEは「帰国子女(とその周りの人たち)が(共に)生きやすい世界にする」ことを目的に発信している。帰国子女にだって色んな事例や症例があるのだとすれば、「自分の価値観と全く違う」帰国子女に向き合える機会を逃すのは勿体無い。
よってこれから "INTERESTING STORY"では、自分と全く異なる(帰国子女関連の)価値観を分析して、より我々への知見を深めていくことにしたい。
さぁ、長文読解のスタートだ!(そろそろ気づいてる?)
Vol.01 帰国子女はチートスキルという価値観
ことの流れ
SNSの投稿で不快になった記事があると私に連絡をくれた人がいた。そこには帰国子女はチートスキルだとのパワーワードがあった。目を通して10分もしないうちに、引用リツイートがオンタイムでメキメキと数を伸ばしていく。そのほとんどは、帰国子女に関係のある人たち、または当人からの批判の声だった。彼はあくまでもこの反応に「驚く」「不思議でならない」と感想を述べ、更に煽るような行動を見せてそれを「牽制」しているといって自分を正当化させていたのだけれど…、さて、皆さんはこの流れだけを聞いてどうお感じになりますか?
帰国子女は帰国子女の目線で、帰国子女を持つご両親やそのお友達はその目線で次の文章を読んでみてください。この文章は、実際に投稿されたTwitter通りには書いていません(日本語が色々アレだったので…)。皆さんが理解しやすいように補語などの語彙を補完してありますのでご了承ください。
初見の感想、イキマス
「おん、おん?…。へぇ…面白いやん?^^」
これがシンプルな感想。むしろ他にどのような発言をしているのかしか気にならなかった。何派な思考をお持ちなのかという傾向を分析にしたくなったと言うのが正しいのだろうか。
少なくともこれは私たち帰国子女に向けられたものではない。もし我々向けだとするなら「そうだと思わない?」と言った同意を求める投稿になりはしないだろうか。この投稿はもうそうであると断言したいだけで、親に感謝しているというリプライを見る限りでは、自分のことを話したいだけだ。要は帰国子女であるという自己紹介と、彼の学歴が高いこと、年収が1000万は通過点であるがそれは社会的な羨ましがられる指標だが、自分にとっては容易であると言うことを伝えたかっただけの話で、人に意見など求めていない。だから彼は面白いのだ。これが彼のSNSビジネス?少なくともフォロワー獲得に躍起になっているアカウントとしてどう響くと企てされたものか、その意図が全く読めない。強いて言えば、SNSフォロワー獲得の炎上手法?
SNSは個人が手に入れたマスメディア
人類の歴史においてマスメディアという媒体は、長い間、特定の人や企業が独占する専売特許だった(メディアの歴史を学べばわかります)。この暗黙のルールはここ20年程で徐々に崩壊、情報技術とプラットフォームの発達により現在も劇的なスピードで民営化されていっている。すなわち、個人がマスメディアになることが許された。
日本のメディア史だけで言えば、1870年の日刊新聞「横浜毎日新聞」が最初なのだけれど、個人が自由に発信できるSNSが誕生したのは2000年を過ぎたあたりから。Youtubeの日本語サービス開始は2007年、Twitterの日本語サービスは2008年、Instagramが日本で流行したのは2016年と考えると、新聞等のメディアが150年の歴史を続ける中、SNSメディアはまだ20年ちょっとの歴史しかない。だからこそ未知なる可能性を秘めていると当時に、危険性を孕んでいることも忘れてはならない。
要するに、校閲や企業利害を挟まない純度の高い情報を摂取することもできるが、一方で不確かな情報、ないしは誰かが私腹を肥やすためだけにでっち上げた情報を純度の高い情報として鵜呑みにすることもできる。もちろん安全性の保障はSNSサービス提供側は担保してくれない。直接仕入れた情報をどう処理するかは、あなた次第になったというわけ。
読み手が毒を認知できなければ一人で勝手に堕ちる時代
以上の時代の流れから、読み手のリテラシー能力の重要性は年々高まってきている。タチが悪いのがそのSNSがマネタイズ、売名の手段として年々注目されているため、誤情報やセンセーショナルな投稿で人目を惹くためには何でもすると言う輩が大発生してSNS提供側も駆除に手が回らない状態になっていることだ。校閲部署みたいなものも一応あって、マレーシア・タイなどの東南アジアの調査会社に外注している。この求人は絶えることなく常に出ているので、多くの日本人の海外就職先(現地採用)になっている。
このようなSNSメディアの現状を鑑みると、大前提として「甘い話」に人は弱いので、この手の内容は好まれる。例えばお金を配る、すぐに痩せる、モテる、お金を楽に稼げる、ノウハウ系だ。そしてこの帰国子女らしい発信主が自身のTwitterアカウントで主軸にしている「年収を倍にするノウハウ」はとても好まれる内容だということがわかる。
大切なのは、発信された内容の良し悪しを読み手が意識して取捨選択すること、それがメディアリテラシーという能力だ。昔は○○新聞を読んだ人、△△テレビのニュースを見た人「みんな」で騙されて慰め合うことができたけれど、SNSメディアは死ぬほどあるがゆえに、騙されたり侵されたりするのは大抵自分一人になりがちだ。だからこそ毒の箇所をうまく見つけて毒抜きする能力(=メディアリテラシー能力)そして良いところだけを切り取る作業ができる人(=自分の頭で考えられる人)が賢い読み手になれるという仕組みにあなたはいち早く気づかなければならないのだ。
Let's begin the analysis!
❶ 話題の Chat GPT に次の文章について考察を求めてみた!
MAY : 次の文章を考察してください
MAY:なんでこの人はこんなことをわざわざTweetしたのでしょうか?
❷ MAYの考察
転職年収アップ支援を全面に押し出したTwitterアカウントの主が帰国子女であるということで、フォロワーを稼げるかと言われると難しいそうである。というのもフォロワーには帰国子女は見る限り少なそうな印象だ。特に若年層の高学歴なリーダーで、できれば大学生くらいだと彼の発信は(就活の参考にできるという点で)響くだろう。ただし、自身も年収400万円からのスタートで転職をして勝ち上がっていったというような記述も見られるので、高学歴の第二新卒、既に大手企業に就職している方のキャリアアップなどにも需要はありそうだ。
これらを総合して考えたとき、正直この書き手が帰国子女でもそうでなくても、このTwitterアカウントの需要は変わらない。だからこそ、帰国子女に関してのマウントとも呼べるこの投稿は、自分の集めたいフォロワーにどれだけ刺さるのかの分析が不十分なままに投稿されたと考えることができる。仮にフォロワーの新規獲得を狙った投稿なのであれば、キーワード検索から言うと帰国子女に興味がある人に引っかかりやすいだろうから、そこ狙いなのか?とも取れるけれど、自身の浅い帰国子女への理解から逆に反感を買ってしまったと言ったところだろうか。この投稿は、広告会社で言うところの広告を打ち間違えて大損失してしまった感が否めない。(そしてあまりの苦情の多さに逆ギレして牽制します!と言っているあたりが同世代としてはとても虚しさを感じる。それはまるで、昭和のおじいちゃん政治家が失言をし、それをまた上塗りしている姿を彷彿させるまであるので早めに気づいて欲しい。メディアとしてそれはエモすぎるんだよ。)
帰国子女として再考したこと
帰国子女にはいろんな形がある
過去に投稿したNOTEにも書いたように、帰国子女が必ずしも英語環境にいるとは限らない。インターナショナルスクールなのか現地校なのか、はたまた日本人学校なのか。何年間、いつからいつまでの教育を受けるのかも違う。
ここに気づいていない帰国子女が一定数いると言うことだ。英語圏出身でインターナショナルスクール出身の彼は、おそらく2-3年ほど学校に身を置いたのではないかと考えられる。その短い期間の中で、現地校ではなく世界中から集まったお坊ちゃん、お嬢ちゃんという自分に近しい人たち境遇の人たちに囲まれて、どうやら価値観を形成した主観を帰国子女という言葉でまとめてしまった。そして学生時代を通して類友とそれを共有したことで自信をつけてしまったといったところだろう。これも前に述べたことだが、結局帰国子女は同じようなバックグラウンドがある人と群れたがる傾向にあるので、意識しないとその輪は広がらないのだ。
「人生で最小の努力をして結果を手に入れるためのチートスキルを持っている」と結論づけるアラフォー帰国子女の主張は間違ってはいないし、合ってもいない。条件を満たした人には刺さる。けれど万人に当てはまる理論として展開するには少し視野が狭すぎると感じるので、帰国子女の多様性というところで言えば、私はこの限りに属せない。(おそらく投稿者と同じようなキャリアを歩んだ父も、こういう奴はじきに消える。消えてた。と言っていたのでぜひ残り長い人生を注意して歩んでいただきたいと思う)
帰国子女の経験をどうアウトプットするかは個人次第
このアカウント投稿分析をしている中で、ふと脳裏によぎったYoutubeがあるのでぜひ紹介したい。
これはSMBCの企画で、元メジャーリーガーのイチローさんが子供たちに「お金がすべてか」について話しているものである。
「どうやってお金を稼ぐかよりも、どうやってお金を使うかの方がその人の人間性が出る」というのは本当にイチローさんが生きてきた中で考えたことなのだと思う。
私の拙い人生の中で、お金を横領して人生を棒に振った駐在員や、駐在先の現地女性に貢いで終わった駐在員、お金を自分だけが楽な手法で稼いでビジネスを成功させ人が離れていった経営者、お金に執着しすぎて友達がいなくなった帰国子女、セレブを気取ってどこで着地するのか不明な帰国子女など、お金と名声に溺れていく人を数々見てきた。それは多くの場合、男性である。
人は愚かだ。最初は自分が満足したかっただけなのに、いつの間にか社会に認められたい、人より上に居たいと、その指標を名声とお金に絞って執着して最後に痛い思いをする。賢い人は途中で気づいて軌道修正ができる。
帰国子女として世界を見ると、そんなことを感じる時はないだろうか。そして、それを感じられる経験こそ私たちの強みだと思っている。日本のようにみんな一律で働いて家族との時間を削る、親の死に目にも会えないような労働価値観を世界での経験が変えてくれたことはないだろうか?それが私たちが日本で得られない多様性を育んでいるのだ。どれだけ日本以外の国で悩み、苦しみながらも得ることができたものが多様性を認め、相手の個性を尊重し、共に生きることだと私の経験に限って言えば思っている。ここは意見を聞かせていただけると嬉しいな…。(私の周りは少なくともこういう人が多い、類友なので)
帰国子女はチートスキルか?
そもそもチートスキルという造語の意味がよくわからないが、私たちはスキルではなくカテゴライズされた名称を帰国子女と理解している。
先にも述べた通り、帰国子女の種類は多岐に渡るので、それをスキルと呼ばれると何を持って共通認識としてのスキルと位置付けていいかがわからないのだ。だから更に「チート(ずるい)」というネガティブな修飾語をプラスすることで、投稿者が意図するスキルを発動できたものが果たしてどんなもので、どれくらいの人がそれを出来たのかも定量化しずらい。
私の目的は、帰国子女が生きやすくなることだから、この投稿者がいうようなずるいスキルが帰国子女全員に適応していて、それで私たち帰国子女が日本の社会をイージーゲームで生きていけるのであればそれはそれでよろしいのではないかと感じてしまう。要は日本国籍保持者として周りの日本人と上手く生きる術を手に入れられるのであればという論点だ。
帰国子女の問題点としては、親の都合で日本の環境に戻されたあとにアイデンティティーが安定せず、馴染めないことでストレスを抱え、悩み続けてしまう子が多いということなわけで。「お前たちとは違うんだよ!」と反旗をひるがえすことは、これからの世界を平和に生きていきたい帰国子女たちが求めるもとは何かが異なる。要は「共存」ということができない。仮に相手を刺激することなく自分だけスッと抜けていけるスキルならそれでいい。わざわざ相手を刺激するのは「生きやすさ」ではないと考える。
投稿者の言うところの我らが持ち合わせるチートスキルが、最小限の努力で生きられるのであれば、帰国子女はこんなに苦しんでいないのだ。反論も出ないはずだから不思議でしょうがないなら考察が浅すぎる。理論が立証されていないとも取れるので、たぶん帰国子女はチートスキルではないような気がしてくる。
同じ日本人なのに受け入れてもらえないと違いに苦しんで自己否定したり、相手を傷つけて自分を高めたりすることを避け、むしろ理解を仰げるくらいの語彙力と経験を身に着けた上で、共存しながら自分の世界を切り開くスキルを身に着けたい。これからは自分だけ幸せであればいいという年齢ではなくなる。守るべきものがあって、その守るべきものが幸せに暮らせるようにしないといけないのだ。周りの人を蹴落として見える幸せはじきに綻びを見せることのは歴史上の人物の最後を見ればなんとなくわかるしね…?
帰国子女として生きる同志の皆さま、己の経験スキルを最大限に人のために活かしてほしい。私たちは多くの人に囲まれて、人や環境に学んで今を生きている。違うものを排他的な形で蹴落とさず、来るものを受け入れ、謙虚に見つめて新しい価値観をクリエイトしよう。それが私たちが海外で苦しんだゆえに獲得した多様性ではないだろうか?
と中年の帰国子女は思うよ。うん。
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