見出し画像

あの人は今

暦では秋なのに、相変わらず蒸し暑い日が続く。肌にまとう湿度が不愉快な数日前のある夜のこと、うちのマンションの下で何やら叫んでいる男がいた。窓を閉めた状態では何を言っているのかさっぱり分からなかったが、私の心は歓喜に満ち溢れていた。

正論おじさんだ!この暑い中やってきたんだ!

旧友と意図せず再会したような興奮。アーニャにも引けを取らないわくわくを感じて窓に近づく。

ああ、人違いだった。残念。
謎の男はなにやらぶつぶつ言いながら駅のほうへ消えていった。



さて、正論おじさんとは何者かと画面の向こうの皆さんはお思いだろう。知っている筈がない。なぜなら私が勝手に名付けたのだから。
※検索するとヒットするらしい「正論おじさん」とはまったくの別人です。

正論おじさんは春頃になるとうちのマンションの下で叫び始める。季節の訪れを告げるホトトギスやセミのような人物だ。毎日ではないが、忘れた頃に頻繁に登場し、昼夜問わずに突如出現しては喚き続けるので天元突破の大迷惑である。

初めて正おじと出会ったのは数年前のこと。外がやけに騒がしいので喧嘩かと思い、野次馬心で窓から下を覗いてみた。そこには近所のコンビニで買ったであろう酒を片手に通行人に悪態をついている初老の男性がいた。
「酔っ払いか。治安悪いなあ」
そんなことを思いながら部屋に戻る。しかしいつまで経っても静かにならないので、私もいよいよ腹が立ってきた。
人の家の前で騒ぎやがって!上から水でも掛けてやろうかな😡脳内で正おじを成敗、苛つきながら様子を伺う。ここで初めて正おじの発言内容を聞くことになる。

そう。正おじは正論しか言っていなかったのだ。
歩きスマホをするカップルの男性に
「歩きスマホするな!彼女を大事にしろ!」
短い横断歩道を信号無視したサラリーマンに
「赤信号だぞ!渡るなあああああああ!!!」
などなど。伝え方はともかくすべて正論なのだ。
私は心打たれた。多くの大人が見てみぬふりをし、内心では毒を吐きながらも決して指摘しない社会的・世間的誤ちを、この人は誤魔化すことなく叫び続けている。これらの物事の是非はともかく、子どもに恥じない大人であろうと、規律のとれた美しい社会を守ろうと、彼は必死に訴えている。近所に舞い降りたダークヒーローだ(?)
(じゃあ路上で飲酒すんなとか住宅街で叫ぶなとか思う私もまた、正論おばさんなのであった。)

急行も停まらない23区の片隅で、草の根運動的に社会の改善を図ろうとするこの一人の男性に私は拍手喝采を贈るつもりで優しく窓を閉めた。
以降、私にとっての正おじは迷惑な酔っ払いからエンタメ興味深いActivistに昇格した。

夏は暑いし冬は寒いから来ない。そんな現金なところも好感が持てる。
普段はどんな仕事をしているんだろう。
今、何してるのかな。(あれ、恋……?)
ふとしたときに思い出す。

春の訪れを告げるのはピカピカの大きなランドセルを背負った新一年生でもなく、草花の芽吹きでもなく、不規則にやってくる眠気でもない。
正おじの到来が私にとっての春の到来だ。
来年の春一番はいつだろう。


傘を水平に持つなぁああああああああああ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?