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最強で最恐の自称善人

先日のフジテレビの会見しかり、終わりを知らないネットの炎上しかり。正義感に侵された人間は制御不能で恐ろしいと思わされる出来事が多い。

私の記事を長く読んでくれている方々には伝わるでしょうか。こういう現象を目の当たりにするたびに連想されるのは父親の姿。暴走する(本人の)正義感からの行動に私たちが抱えざるをえなかった恐怖心や不信感は計り知れない。

それでも毎日のように思う。私も同類だと。

自己都合を押し付けて周りを動かす人。良心や罪悪感を刺激して他人を掌握しようとする人。論理もモラルも欠いた主張を罵声に変えて喚き散らす路上の不審人物。歩きスマホで道を塞ぐ視野の狭い人間……挙げればキリがないが、遭遇するたびに不健康な欲求に駆られる自分に気がつく。言葉で殴り合って根性を叩きのめしてやりたい、と。

表向きは「他人に迷惑をかけて当然だと思うな」という倫理観だけれど、核の部分は攻撃性(加害性)。自分の正しさを武器に他人を殴って、あわよくば改心させて気持ちよくなりたいだけだ。
周囲が私をどう見做しているかは分からないが、実のところかなり好戦的な人間だと自分では考えている。

大学を卒業する前くらいに、私が8歳のときのエピソードを祖母が誇らしげに聞かせてきた。虐められている同級生の女の子を助けた、それも一度ではない。そんな私を評価し、その優しさと強さを信用していると言ってくれた。話を聞いているうちに記憶が蘇ってきたが、私は複雑な気持ちになってしまった。実際は祖母が想像するような完全な美談でもないと思うから。

たしかに虐められていた子を助けたのは覚えている。体格の良い女版ジャイアンのような子に支配されていたその子を帰り道に偶然みつけて、女ジャイアンに物申したうえで保護した。小2にしてはかなりキツいことを言った。あなたにこの子を虐める権利があるとなぜ思うのか、自分を大した人間だと思っているなら勘違いが過ぎる。人格否定といっても差し支えない。そんな内容を、子どもの貧しい語彙力と無遠慮で撃ち込みながら女ジャを一方的に責めた。
虐められていた子には感謝された。すごく懐かれた。後に執着されて嫌な思いもしたが、タイトルとは無関係なので今日は語らない。

今思えば、そこまで言う必要はなかった気もする。もっと優しい言い方ができただろうし、(虐めは正当化されないが)事情も知らずに出しゃばった真似をした側面もある。せめて対話すべきだったのだ。

父親譲りか生来のものか、私はこの自分の意地悪な部分を自覚している。他人に説教垂れたくなったときには立ち止まって、その根底に隠された暴力性を無視しないようにしている。自分が清廉潔白で愛に溢れた優しい人間だとはまったく思っていない。
しかし正直にいえば、その自覚があるだけ幾分まともであるとも感じている。

誰から見ても人格者。自己犠牲を厭わず弱者を救うような、どんなに優しい人間にでも絶対に加害性はある(持論です)。理性の強さや思慮深さは千差万別だが、悪意の一切ない人間は存在しない。それを知らず、正義さえあれば人を好きに攻撃していいと思い込んでいる人間のほうが、悪人を自覚した悪人より私は怖い。正義の鉄槌は誰にも止められないから。

私も普通の弱い人間なので、人あたりが良く、欲しい言葉をくれる優しい人間が好きだ。ただ自分を善人だと信じているような人間は信用できない。同時に、自身の水面下で眠る悪意からも目を背けないでおこうと肝に銘じた。

警察が機能していない、するほどの案件でもないときにはつい魅力的に感じてしまうかもしれないが、私刑もほどほどに。

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