月下独酌

一 はじめに
『月下独酌』とは、春の夜の庭で自分の影と月を友にして宴会をするという幻想的かつユーモラスで孤独感も漂う盛唐の詩人・李白の詩であるが、李白が宮廷を追われる直前の四十四歳の春に作られたとされている。
私が月下で独酌を始めたのは一年前である。始めたきっかけは李白の詩に魅せられていたからだけでなく、異なった時と場所において醸成された二つの環境がコラボし、私を風情ある世界へといざなってくれたことによる。
 その一つが陶芸であり、もう一つが我が家のバルコニーである。
二 陶芸
 陶芸教室に通い初めて三年が過ぎた。古い話にはなるが十八年前、備前焼の窯元を訪ね、数時間ほど陶芸家の方にぐい呑み作りの手ほどきを受けたのが陶芸に触れた人生で初めての体験だった。
それから十五年後の三年前、陸上自衛隊を退職して十年後に参加した高校の同窓会で、同級生の一人から「陶芸してみない」と誘われた。
その同級生は陶芸家として市内に窯をかまえているが、その一方で陶芸教室も主催していて、月三回ほど通って彼女の手ほどきを受けて陶芸を楽しむようになった。
陶芸教室における成形技法は基本的に三つあるのだが、最初は『手びねり』、次に『タタラ』、そして三年を過ぎた今では『電動ろくろ』を使って成形できるようになった。成形した後は、削り、素焼き、絵付け、釉薬がけ、そして本焼きという工程を経て約二ケ月で一つの作品を完成させるのである。
これまでにできた作品は、ビールジョッキー、カップ、ぐい呑み、大皿、小皿、茶わん、小鉢、箸置きなどである。
三 我が家のバルコニー
 一年前に家族の提案で部屋替えをすることになり、私は二階の東側にあるバルコニー続きの部屋を割り当てられた。これまで長女や三女が使っていた部屋からバルコニーがガラス戸越しに見えるのだが、日差しがそそぐだけで殺風景だし、天気の良い日に布団干しに使われていただけだったので、人工芝とプランターで緑化した。更にリクライニングチェアーとテーブルをセットし、サンシェードを窓の上から手すりに引っかけて屋内と屋外を緩やかにつないだ。
 こうして、春夏秋冬、光も風も目に映る庭の景色も変わっていく中で、バルコニーに出て四季を感じながらくつろぐことができるようになった。
四 月下独酌開始
 李白は春の夜の庭で月下独酌したわけであるが、私の場合は、陶芸とバルコニーという環境がコラボしたことにより、昼間にバルコニーでくつろぐだけでなく夜にも月下で独酌するという楽しみが生まれたので、昨年、令和五年一月一日を記念すべき開始日とすることにした。
元日には決まって朝早く起きて暗いうちに電動アシスト自転車で四キロ先の江泊山の東麓にある特攻艦隊留魂碑に向かう。石碑は、戦艦大和が沖縄に向けて出撃する前日に泊地となった野島沖と人間魚雷「回転」の訓練基地となった大津島を一望できる位置に建立されている。
毎年地元の隊友会の有志が桜の咲き終わった時期に草刈りや清掃をしているのだが、自衛官としての渡り鳥生活に終わりを告げ、故郷に戻ってからこの清掃に参加したことをきっかけに、元日の朝はここを訪れることにしている。
特攻艦隊留魂碑から沖合十四キロのところ、瀬戸内海に浮かぶ大津島から初日の出が顔を出してくるのが七時半頃、それから日が昇るにつれオレンジ色の光の道が大津島から海面上をまっすぐに伸びてくる。そして、留魂碑が一面オレンジ色に染まり、留魂碑に手を合わせていると背中が暖かく感じられる。
 初日の出を拝み留魂碑に哀悼の意をささげた後自宅に戻ると、食卓に陶芸で作った皿を並べおせち料理をのせ、台所に立って雑煮を作る。新年のカウントダウンを楽しんだカミさんや娘二人、孫二人は日が高く上った頃にようやく起きてくる。めいめいが席に着き、新年の挨拶を交わす。みんなが笑顔でいられることの嬉しさは格別である。
 日が暮れるとこれまではテレビの新春特番を観て過ごしていたが、バルコニーに出て月下で独酌することにした。いくつかのおせち料理を肴に、陶芸で作ったぐい呑みに熱燗を注ぎ、しじまの夜に浮かぶ月齢八.七の半月の下で独酌を開始した。一日を振り返り、一年の計を諳んじながら。
 こうして最初の『月下独酌』は始まったのだが、その後四季の移り変わりに誘われてバルコニーで過ごす時間が増えていった。
五 四季の月下独酌
春と秋など、ぽかぽか陽気に誘われるとバルコニーで日向ぼっこして、優しい風を感じながらゆっくり読書することも多くなる。 
日が暮れると、冬場はもちろん初春や晩秋にもストーブを窓際において、寒さをしのぎながら月下独酌を楽しむのだが、春は日本酒のぬる燗や焼酎の湯割りを、秋は五月に漬けた自家製の梅酒を取り出しホットで味わうこともある。
呑む酒を何にするかはその日の気分によるが、陶芸で作ったカップやぐい呑みを酒に合わせて選ぶのも楽しみの一つである。
夏は日差しが強く暑いので、この空間で過ごすのは夜に限定されるのだが、逆に四季の中で、夜過ごす時間をバルコニーで一番長く楽しめるのがこの時期でもある。
夕日が沈み、午後七時を過ぎたころから夜の帳が下り始めると、リビングボードからビールジョッキーを、冷蔵庫からキンキンに冷えた缶ビールをバルコニーに持ち出し、チェアーに腰を沈め、ゆっくりとビールを注ぐ。陶器のジョッキーは、缶ビールのまま飲むよりも、泡立ちがきめ細かくなる。ビールは一杯目がうまいといわれるが、その理由は「のどで美味しいと思う」からだそうである。喉を通る時に涼しさと爽快さが、飲み込む瞬間には炭酸の刺激とさっぱりした味わいが広がり、一気に胃袋まで到達する。まさに至福の時、リフレッシュメントした開放感に浸ることができる。肴はコシのある食感が特徴の地元の竹輪や簡単な料理などで、陶芸で作った小皿に盛り付けてテーブルの上に置いておく。
 こうしてしばらくは、ビアガーデン気分を味わうのだが、夜の帳が完全に下りると、飲む手を止め、サンシェードを折りたたんで収納し、リクライニングチェアーを少し倒して月明りが輝く空を見上げる。
夏の夜空は、天の川の中に一等星が作る夏の大三角形が輝いて見えるのが特徴的だが、無数の星々が煌めき、その輝きに瞳が奪われ、畏敬の念とともに、深遠なる宇宙の謎に思いを馳せずにはいられない。はるか彼方に広がる星々は、時間の経過を超越して、昔からの物語を語り続けているかのよう。
 静かで穏やかな静寂の中で、ほろ酔いながら私の心は思索に耽っていき、宇宙の果てしない広がりに思考が溶け込むと、自らの存在の微小さを感じずにはいられない。
一方で、この無限の宇宙の一部として生きる喜びも感じ、短い一生が、この広大な宇宙において意味を持ち続けるのかという問いに星々の輝きがその答えを与えてくれているようにも感じる。
 ラジオから聴こえてくる竹内まりあさんの歌う「人生の扉」が心を満たしてくれる。
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ひとつひとつ 人生の扉を開けては 感じるその重さ
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I say it’s fine to be 60
You say it’s alright to be 70
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君のデニムの青があせてゆくほど味わい増すように
長い旅路の果てに輝く何かが誰にでもあるさ  
四 終わりに
 作家の五木寛之さんは、三K、すなわち「健康」(健康で長生きしたい)、「金銭」(安心して暮らせるだけのお金が欲しい)「孤独」(孤独になりたくない)が現代人の三大関心ごとではないかと本に書いている。
 また「孤独のすすめ」という本には、「孤独のチカラを養っていく」「孤独を楽しむ新たな試みを」「春愁の深い味わいの境地は、高齢者ならではの甘美な時間」などとも書かれているのだが、『月下独酌』はその一つの答えとして、これからも楽しみたいと思っている。「体内脂肪を減らすノンアルコールビール」というものもあるので、こちらの割合を増やしながら。

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