ゆらぎ
一 青春の影
「いくじなし」
いちょう並木が黄色く色づき、落ち葉が木枯らしに舞う舗道を歩いた先の別れ際に言われた一言で二年間続いた二人の関係に終止符が打たれた。
覚悟していたとはいえ、途方に暮れ、人生に希望を失い、そのまま命を絶とうとまで思い詰めた和実だった。まだ、生きているのは、友人のおかげだった。駆け付けてくれた友人が、和実の心が落ち着くまでそばにいてくれたことが和実の衝動的な行動を制した。
和実は大学に通い、友人と会話してアパートに帰るという平凡な生活を取り戻した。だが、その平凡な生活さえも壊したのが新型コロナウイルスだった。毎日、ニュースで感染者数や死亡者数が報道され、ついに講義は、対面からオンラインに切り替わり、終息の見通しも立たない日々が続いた。友人と過ごす時間もLINE主体に切り替わり、週末の刹那的な喜びを楽しむ時間さえ奪われ、孤立を深め、無気力感が日々増幅していくのを感じていた。
課題が増えたので、その取り組みにより多くの時間を使うことになったが、それ以外の時間は読書で気を紛らわすことがもっぱらとなった。
図書館で借りたヘミングウェイの『日はまた昇る』を読んだ日のことである。第一次世界大戦がもたらした「ロスト・ジェネレーション世代」が時代の方向感覚を失い、自堕落な生活に埋没していく屈折した心理を描写した作品であった。どれだけ時代に絶望しても、毎日はやってくる……そんなやるせなさを抱えた若者たちが旅した先のスペインで、死と隣り合わせの緊張のなかで仕事に打ち込むスペインの闘牛士が鮮やかに描かれていた。
その夜、テレビで自衛隊の訓練や任務にまい進する自衛官の姿を紹介するスペシャル番組が放映されていた。
二 陸上自衛隊幹部候補生学校入校
それから、一年後
『青春の光ゆたかに緑なす筑紫の野辺よ⋯⋯はつらつと心は燃えて. 日本の平和を守る』
和実は、入校式で宣誓をし、校歌を歌い、自衛官そして幹部としての道を歩むことに意義を見いだそうとしていた。失恋の痛手が大きく、自殺することまで考えるほど思い詰め、更にコロナ禍に追い打ちをかけられ、生きていくことの目標さえも見失っていたのに。
入校してから三カ月間は、幹部自衛官としての資質及び初級幹部として部隊勤務する上で必要な基礎的知識及び技能を修得するための教育訓練を受け、導入期の基礎的な教育訓練を終了した。引き続いて練成期が始まり、戦闘訓練と戦術を主軸に練度向上に励んだ。
三 祖父の話
夏季休暇に入ると同時に実家に帰った和実は、ゆっくりとした時間を過ごし、母の料理を存分に味わった。休暇が後半に入ると、実家を離れ、幹部候補生学校に戻る途中にある祖父の家を十五年ぶりに訪れた。
「じいちゃん、久しぶり」
「おー和実か、大きくなったな」
祖父がそういうのも当然であろう、小学生の時のことしか知らないからなと和実は思った
祖父はテレビを見ていた。八月十五日は一般に「終戦の日」と称されているが、日本政府が主催する全国戦没者追悼式の様子がテレビ画面に映し出されていた。
終戦から八十年近く経ったことで、戦後生まれは人口の九割近くとなり、追悼の主体も戦争経験してきた戦没者の妻や兄弟から戦争経験のない子や孫へと世代交代が加速していているということだった。和実の高祖父や曾祖父も大日本帝国海軍軍人として戦争を経験し、既に他界していることは母から聞いていた。
「祖父ちゃん、陸上自衛隊幹部候補生学校に入校して、今教育訓練を受けているんだ。」
「それはいい、お母さんから和実が陸上自衛隊に入隊したと聞いてはいたが、少しはたくましくなったかな」
「どうだろうね、入隊してまだ四カ月しか経っていないし、基本的な教育や訓練にはついていけたけれど、厳しい訓練はこれから本格的になるようだからね。」
和実の母は、この家で育ったが、嫁ぎ先が東北だったために、たまに和実を連れて帰省することはあっても、中学生になると、部活動などで夏休みなどの期間も多忙となり、和実は祖父宅を訪れることがなくなった。だから、祖父と話をするのは小学生の時以来であった。
祖父が初めて語ってくれた太平洋戦争の話に和実は耳を傾けた。
「初めて話すのかな、和実の高祖父さんは戦艦大和の乗組員だった。昭和二十年四月七日沖縄海上特攻し鹿児島県の坊ノ岬沖においてアメリカ軍艦載機の猛攻撃を受けて沈没した戦艦大和ともに海に散った。曾祖父さんは、海軍兵学校を卒業した直後に戦艦大和に乗船したのだが、海上特攻する前日の四月六日、『候補生総員退艦用意』の命令により、出撃前日に停泊していた戦艦大和からやむなく退艦した」
そして、戦後の話もしてくれた。
「和実の曾祖父さんは、戦地に行くこともなく、戦後造園業を営み、私が跡をついだ。我が家から約四㎞東南のところに瀬戸内海を眺めることのできる標高二百六十mの江泊山がある。その東麓に大和が出撃前に停泊し最後の泊地となった野島沖や人間魚雷「回天」の訓練基地が置かれていた大津島を一望できる場所がある。ここに、海で散った多くの英霊を祀る『特攻艦隊留魂碑』が和実の生まれる七年前に建立された。この時、曾祖父さんと私が建立のお手伝いをした。」
「毎年、和実の高祖父さんの命日には、留魂碑に立ち寄って手を合わせている」
四 特攻艦隊留魂碑
翌十六日早朝、和実は特攻艦隊留魂碑を訪れた。朝日が大津島から昇り、昇っていくにつれて陽光が海面を照らしながらまっすぐに伸びてきて、留魂碑はオレンジ色に包まれた。留魂碑にはお酒が供えられていた。
留魂碑のそばには一本の桜の木が立ち、林の中から鳥のさえずりが聞こえてきた。
和実はしばらく海を眺めていた。風景が心の情景と通じ合うまで思いをはせてひたすら待てば、沖縄戦や沖縄に向けて海上特攻する戦艦大和を旗艦とする海上特攻艦隊の光景が重なっていった。
【特攻】
散る桜残る桜も散る桜 (良寛和尚)
【巨艦】
身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂 (吉田松陰)
【死生】
観ずれば死生は一瞬の風裡。悠久は天にあり、死を帰すも天、生を託すも天 (新書太閤記)
和実は、留魂碑に向かい合っているうちにこれらの言葉が口をついて出てきたが、高祖父さんや曾祖父さんの思いが伝わってくる不思議を感じながら手を合わせた。
五 ゆらぎ
幹部候補生学校に戻る新幹線の中で和実は、大学の熱力学の授業で習った散逸構造論を思い出した。
「散逸構造というのは、潮という運動エネルギーが流れ込むことによって生じる内海の渦潮のように、一定の入力のあるときにだけその構造が維持され続けるようなものを指し、エネルギーの流れが複雑になると、ある時点でゆらぎが生じ自己の系が破壊されるほどの変化を経過し、やがて、新たな系を再構築する。すなわち、散逸構造は「ゆらぎ」を通して自己組織化するという。」とそのような内容であったと思い返しつつ、散逸構造論でいうところの「ゆらぎ」が自分の中に生まれたことを感じ始めていた。
この物語は史実に基づくフィクションです。