それぞれの四季をめぐって。
先日、小雨の降る日曜日に、新宿御苑へと足を運んだ。重たく濁った雲に低い位置で覆われたせまい空、先週末の陽気からすると少し肌寒いあいにくの天候と、ウイルスのこともあるのだろうか、園内に人はまばらで、まるで平日の午前中のようだった。
目的は、ひと足早い春を切りとること。そう、桜に会いに行ってきたのだ。
日本庭園に、目的の桜の木はあった。一歩一歩、雨を吸い込んだ芝生の上を歩く。遠くからでも、美しく咲きほこっている様子が見てとれた。
近づき、枝垂れて眼前にひろがる薄いピンクの花を見つめる。時折、枝が大きく揺れては花を飾りつけていたしずくがこぼれ落ちる。見上げてみると、数羽のメジロとムクドリが、思い思いの場所で春を愛でていた。今年もやっとこの季節が来たなぁと、感慨に耽りながらシャッターを切る。
準備したんだもんね、一年かけて。
そんなふうに、こころの中でつぶやきながら。
そう、準備してたんだ。
考えていた。
ぼくも含めて、花が咲いているからみんな見に来るんだよね。長い冬を耐えて、やっと花を咲かせて、彼らが輝くのは一年のうちのほんの数日。春の訪れを世に告げて、その役目を終え濃い緑色の葉をつけるころ、もはや彼らを愛でるために訪れる人は、いないんだ。やれ次はチューリップだ、ネモフィラだ。ヒマワリが、バラが咲いた。いやいやそろそろコスモスの時期だよね、なんて具合に。
でも。当たり前だけれど、桜の木はずっとそこにいるんだよね。花が散ったあとも、初夏の太陽の下で緑を濃くして栄養を吸収して、冬には葉を落として、耐えて耐えて、耐えて。そうしてまた、春の訪れをぼくらに知らせてくれる。だれも見に来なくても、相手にされなくても。彼らはただそこにいて、また咲きほこるそのときを待っている。だれのためでもない。ただ淡々と、そのときのための、準備をしている。
これってさ。ぼくらにとっても同じことなんじゃないかなって。
何かを成し遂げて、みんなに注目されて、誇らしく思っても、優越感に浸っても、ある日を境に大きく停滞してしまうことがある。沈み込んでしまうことがある。まるで最初から存在しなかったかのように扱われてしまうこと、そのように感じてしまうことがある。でも、ぼくらは変わらずそこにいて、みんなそれぞれの努力をして、それぞれの人生を生きているんだ。だれに注目されようと、相手にされなかろうと、淡々と、愚直に、やるべきことをやる。それは、桜と同じ。人に愛でてもらうためなんかじゃない。ぼくらがまた、それぞれの春に、それぞれの色をまとった、大輪の花を咲かせることができるように。そのために、いつも準備をしておくんだ。
ぼくらはみんな、それぞれの四季を過ごしている。
それぞれの四季をめぐって、生きているんだよね。
四季のスパンは人によって違うかもしれない。梅雨が長かったり、夏に気温が上がらなかったり、きっとひとつとして同じ四季はない。
さっき、桜が輝くのは一年のうちほんの数日と書いたけれど、それはきっと正しくない。その「ほんの数日」以外、周りが気に留めないだけだ。
花が散ったあとも、初夏の太陽の下で緑を濃くして栄養を吸収して、冬には葉を落として、耐えて耐えて、耐えて。
ぼくらもそうして、それぞれの四季を歩こう。
夏も、秋も、冬も。
輝ける春のために、歩いていこうよ。
春はもう、すぐそこに。