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ウチの芝生は何色に見えますか?

「...あ...青...かな?」

そう答えざるを得ないような質問を他人にする勇気はないけれど。

40歳を目前にしてもまだまだ芯がブレブレのぼくには、となりのみならず、まわりの芝生はほとんどすべてが雲ひとつない抜けるような青空の色に見える。
地平線近くから夕陽に照らされる収穫目前の稲田のように、かがやく金色に見える芝生だってたくさんある。
自分の進むべき道、進んできた道から目を逸らして(いるつもりはそんなにないのだけれど)、まわりを見渡してはため息まじり。
そんなことが、まだまだある。

これはどんなに年齢や経験を重ねても、日々感じていくことなのだろう。
そしてわかっているのは、表面がどんなに美しく青や金色にかがやいていたとしても、その裏にはきっと青でも金でもない、暗く陰鬱な色が隠れているのだということ。
それは濁った泥水のような茶色かもしれないし、今にも雨が落ちて来そうな空の灰色かもしれない。
努力だったり覚悟だったり。
表面のかがやきを支える地層のような、そびえたつ大木が地に巡らせるたくましい根っこのような。
まわりの目にはそう簡単に映ることのない、暗い暗い、裏打ちの色。

今をときめく人びと、まさに人生の絶頂にいるかのように、そしてさらにその絶頂をこえて登っていくかのように見える人びと。
ついついぼくは彼らの表面だけを見て羨んでしまって、その眩しさに目を逸らしてしまう。
無意識的に見たいものだけを見ているくせに、その眩しさに照らされたぼくのこころにはなぜだか影が差す。

もっともっと中身に目を向けなければダメ。
かがやいて見える理由を探らなければダメ。
タネを明かせばこんなこと、ということではなくて、かがやいて見える人やモノにはそれに値する何かがきっと隠されているはずだから。
それができればきっと、あらゆる芝生のかがやきに目を逸らさないで済む。
ぼくのこころにも影を落とさずに済む。

まわりに拡がる青い芝生は、はじめから青く塗られているわけではない。
暗い色も陰鬱な色も、積みかさなったいろんな色が支えとなって、はじめて青くかがやく。

ウチの芝生は何色に見えますか?

この問いを、いつか自分にしてみよう。

<おわりに>
人は人、自分は自分。
小さなころから母親に言われてきました。
ウチにはないものがたくさんあるかもしれない。
でも、ウチにしかないものも、きっとすこしはあるはず。
まだまだ理解の及ばないアラフォーの息子、恥ずかしいかぎりです。

おたくの芝生は青い。
そう思ってもらえるように、ということではまったくなくて。
何なら青じゃなくたっていい。
自分が好きな色に、自分の芝生を染めあげたいですね。

本日もさいごまでお付きあいいただきありがとうございました。
「みんなのフォトギャラリー」に投稿する写真をいくつかのせて、失礼します。

今日はネモフィラづくしです。
記事のテーマが青だから、というのは関係ありませんが...。
「だいすーけ」で検索するとこれまでの写真もでてきますので、よかったらつかってやってください。

それでは、また。





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