わたしはこんな態度で臨んでますよ、それを示しつづけること。
緊急事態宣言、という言葉が再び踊りはじめた。
なにも飲食業にかぎったことではないかもしれないけれど、そうなればまたギリギリの日々がはじまる。今だって厳しいのには変わりない。生き抜けない人がどれだけいるのか、自分はどちら側なのか。そんなことが、頭によぎる。ぼくも、がんばる。
先日、こんな記事を書いた。目を通してくれた人が多かった。ありがたいなって思った。みんなそれぞれ言いたいことがあるだろうし、そしてそれは無理にカタチにしなくてもいいわけで、ただぼくはあまり気の長い人間ではないのでちょっと言いたくなってしまった。肯定的に受け入れてもらえたならよかったと思う。
記事の中で「その他大勢」(ちょっと挑発的な言葉をつかってしまったと反省している)が分断を助長する、ようなニュアンスのことを書いたけれど、これってウイルスにたいしても同じで。「知っているようで実はよく知らないこと」にたいして謙虚に受け止めることができるか、はいはいわかってますよ、と高を括って臨むのか。もしくは「知っているようで実はよく知らない」ことそれ自体を理解しているのかどうか。そのあたりの価値観や感覚のちがいなのだと思っている。
それを踏まえて。
今日言いたいのは、ここで大事なのは「道徳的観点においてぼくたちは彼らより優れている」とか思い込んだらダメだってこと。ウイルス対策をしているとかモラルに反する書き込みをしないとか、それはもちろんいいこと(そして当たり前のこと)だけれども、自分が求めるそのラインに満たない(と思われる)人たちとの間に安易に線を引いたらダメだよ、ということ。この線が新たな分断のはじまりになり、どんどん「こちら側」と「あちら側」が生まれる。互いについて不寛容になる、無関心になる。相手が見えなくなる。一度そうなったらもう、修復するのってとても難しい。
分けるのって、線を引くのって、簡単なんです。だってそれ以上向き合わなくていい。忙しいから、時間がないから。サッと分けてカテゴライズすればいい。ほんとうはそれが一番楽なんです。なんだけど、乗り越えるのってやっぱり協力、協調だと思う。ウイルス対策をしっかりしてくれない人を切り捨てたって感染は収まらないし、ネットで言葉の暴力をふるう人を切り捨てたってそれが止むわけでもない。働きかけろ、なんてことじゃなくて。わたしはこんな態度で臨んでますよ、それをつよく示しつづけること。それが大切なんじゃないかなって思っている。スタンスを、つよく持つこと。強要するのでも切り捨てるのでもなく、ただ、その状態でいること。
線を引いて「あちら側」認定寸前だったあの人が、意識を変えてくれるかもしれない。てっきり自分が正しいと思っていたことに、あたらしい価値観や気づきを得るかもしれない。だからできるだけ、線を引いて背を向けないで。顔を見ていてほしいんですお互いの。
相容れないならその場から去る。それでも無理だと思ったら、そのときは堂々と(しかし仕方なく)線を引けばいい(「その他大勢」にたいしては、ぼくは線を引きました)。生活は慈善事業じゃないし、残念ながらどうしても同じフィールドに立てない人は存在するだろうから。
でも、線を引くときは覚悟しよう。それは最終手段だし、線を引いたら自分が向こうに行くこともできなくなる、線の先の世界を失う、っていうことにも考えが及びますように。
それはイコール、想像力を豊かにしておこう、ということ。上の記事で言いたかったことと、同じです。
先日おこがましくも言わせてもらったついでに、補完したかったことを書かせていただきました。でもこれ、半分は自戒のために。ぼくも相当気がみじかいたちなので、こうして書いておけば、自分で気をつけることができる。ポリコレぶるつもりもないし、何とか警察になるつもりもありません。でも、声をあげておくこと、記しておくことの大切さは知っているつもり。
毎度深夜にお騒がせしています。ほんとうは今月読んだ本とかについて書こうかなと思ったのに、全くちがう中身になりました。
お付き合い、ありがとうございました。
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