【ア・冬優子イズム】の感想とか
はじめまして。まきしらりあです。タイトル通り感想とかつらつらと書き連ねます。実家に帰省中で家族が寝静まった後に書いているから眠いのです。誤字脱字は笑ってください。解釈の明らかな間違いとかは教えていただけると泣いて喜びます。よろしくお願いします。
以前【ノンセンス・プロンプ】の感想を記してから結構経った。2/11らしいから大体5ヶ月半、人によっては半年って言えるほど。その間にパラコレまで来て感情がぐちゃぐちゃにされ続けた。【三文ノワール】はなんかセレチケにも入らずここまで来てしまった。なんでや。僕のアルバムが埋まるのはいつですか?????
時は7/27のLIVE FUN day1、告知でアニメーションが出た瞬間冬優子だってわかった。ここまで色々ヤバい(褒)コミュを消化してきて、そろそろ消化にカロリーがいるコミュが追加されることはないだろうと思っていた。間違ってたけど。
と、いうかあさひのPSSRはどうした。確かに冬優子が透に2周目先越されたことを怒ってるとは言ったがなにもここまでしろとは言ってない。なんて頭を抱えながらSTEPガシャを引いた。
なんで私はこんなに冬優子に心をかき乱されるのか。
なんで。
ってずっと考えてたけど、最近ようやくまとまってきた気がする。
冬優子も私も、素の自分のままでは愛されないと考え、仮面を被っている。そりゃ誰でも多少は仮面を被るさ。人前に出るなら。仕事、プライベート、SNS、親戚とか。それぞれの場所で求められる(振る舞いたい)姿は違うもんね。仮面を被り始めるのが遅いか早いかとかどのくらいの規模感なのかは違うけど。
私は仮面を外すことはないだろう。底まで下がった自己肯定感と自己嫌悪が邪魔をする。でも、冬優子は違う。「冬優子」でも愛されることを知ったから、悩んでいるのだ。私はそんな彼女がとても羨ましくて、自分ごとでないように思えて、(平易な言葉を使うが)応援したくなるんだ。
佳き人生を。あなたのこれからに幸多からんことを。
と、いうことでここから感想を雑多に書いていこうと思う。こんなインターネットの端っこの書き殴りを読む人には必要ないかもしれないが念のため。
「ネタバレ注意!!」
『三人称虚数』
虚数単位の「i」と一人称の「I」をかけて「i」が三人称として使われるってことなんだろう。
話は逸れるけど、物理学徒の端くれとして、数学界隈には敬愛と尊敬を抱いている。数学という言語を用いて世界を書き記すのが物理学であるため、数学って世界を広げてくれる最高の相棒なのだ。数学徒からしたら違うんだろうけど。
物理と複素数といえば波動関数である。そのため、ちょうど今回は水着コミュ。波と関係しそうですねぇ!って勝手に盛り上がってた。なんか知識が必要そうだったら頑張って復習することにする。勉強してしばらく経ったから、記憶の引き出しの奥にしまっちゃった。
さて、中身の話。
雑誌編集者さん、なかなか攻めてんなぁと思う。上でもぐだぐだ書き殴ったけど、みんな仮面かぶって見せたくない部分を隠してるなんて承知の上でしょう。それを簡単に「素の部分を表現していただきたい」なんて言いやがって......
選択肢で「根底にある魅力か……」を選んだ時の
「見たいような、見たくないような
でも、ホッとした」
「だって、大好きな姿のままだったから」
が私は好きです。このファンは騙されてくれている。それか騙されようとしてくれてるから。それと、ホッとしたってのがミソだと思う。「大好きな姿」と違ったらどうなってたんだろうか。
主語を大きくして悪いと思うけど、みんなもそうじゃないか?推しの素の姿は見たいような、見たくないような。
それが大好きな姿と変わらなかったら私はどう思うんだろう。むずかしいね。
『波はいつも余白をめざす』
「誰よりも真摯で」に続いてプロデューサーがこう独白?していくの良いですなぁ。このコミュの選択肢全部好きなんだけど、私は「全力でサポートするよ」から続くやつが1番好き。【国道沿いに、憶光年】味がしませんか?記憶違いだったら教えてください。
不自由なく。自由に飛ばせてあげたいもんなぁ。
服飾もできる専門学校に居た(居る?)ってことは、高卒時点で服飾関係はやりたいことだったんだろう。それが色々あって今みたいになって。
パラの世界は喧嘩別れ後なんだろうけど、そもそも出会わなかったらどんな世界だったんだろうか。冬優子は逆境に抗えるひとで、心の優しいひとだから平穏無事に過ごせてるんじゃないかとも思う。それが幸せかどうかはわからないけれど。
シャニマス世界線が1番幸せであってほしい。でもそれは作品のファンである私の勝手な願いであって、無限に広がる可能性の中にはアイドルのみんながもっと幸せである世界もあるのかもしれない。だから私にできるのは祈ることだけだ。
高校生までなんて、何者でもないからこそ何にでもなれるんだ。日本の高校生が慣れないのは皇族だけ。そんな話を聞いたことがある。実際そうだと思うし、だからこそ自分の将来を(多少なれど)選択した後の人間を誑かした以上は責任取らないとって思う。がんばれプロデューサー。
にしてもここ精神が大人すぎないか?
コミュタイトルはわからん。有識者の感想考察漁りに行きます。
『イリイズム再考』
イリイズムって単語を初めて知った。自分自身を三人称で呼ぶ現象だって。自分と体験を俯瞰というか距離をとってみることができる......らしい。私には経験があまりないため本当か分からん。
さて、このコミュ演出面から見ると、初めて立ち絵が出ないコミュではないか?やりたい放題である。いいぞもっとやれ。とはいえ自分を見失ってることを暗喩してるんだろうなぁ。苦しい。
このコミュ、幸村さんが凄まじい。同じ言葉でも感情というか載せてるものが違うのを聴いて、プロってすごいなぁ......とn回目の感嘆を漏らすのであった。
キジバトとわし(座)って2種類の鳥が出てきたけど、これも何か意味というかモチーフがあるんだろうか。神話にあったかなぁ。キジバトが神話に出るとは思えないんだよねぇ。
わし座っていうとアルタイルが真っ先に思い浮かぶからこと座のベガにしか繋がらない。七夕ですね。もう過ぎたけど。
そんなこと考えてたら、シャニソンの七夕冬優子引けなかったこと思い出して辛くなってきた。
「俺の目から見た冬優子は……」から続けて行った時の気づきがよう分からん。
ファンの声2みたいな「思ってたんと違う」を回避するために悩んでたのかな?とは思うけど、「いつでも魅力的だ」と言われたら吹っ切れるもんなのか?そうかも知れないし、そうでないかもしれない。有識者の感想考察を漁るとしよう。
『皮膜境界線』
「皮膜」って言葉を検索したら「虚実皮膜」という言葉がヒットした。“芸術は虚構と事実の微妙な間にあるとする”ものらしい。近松門左衛門が発祥の演劇芸術論だって。
愚直に当てはめるなら、虚構(ふゆ)と事実(冬優子)の微妙な隙間に芸術があるってことだ。実際、コミュを踏まえてもカメラマンが撮り逃した、私たちだけが見返すことのできる水から上がる瞬間がそういうことと見て良さそう。“ふゆ“が虚構だって言ったら怒られるかもだけど。
内容も見ていこう。
私は、撮影スタッフ?が漏らしてた「底が知れない」っていうのが(上手く言語化できないけどそれっぽくいうなら)嬉しかった。「隠してる自分を表に出してくれ!」というオーダーに対して「これが“ふゆ“なんだって」と言えるものをお出しして、「底が知れない」っていう評価はものすごいことだと思うんです。オーダーを出した雑誌編集者とは違う人の独白にも見えるから言い切るには苦しいけど。
ここら辺の芸術論に近いものは正直分からん。自然科学にしか触れてこなかったからか、感性の話はちんぷんかんぷんなのです。僕は雰囲気でコミュを読んでる。
「余白だらけの可能性」ってのもいいよなぁ。引き算でものを作って、余った白いところは可能性。真っ白なキャンパスに絵を描こう。
『わたしの名はばか』
読んでて心がぐちゃぐちゃにかき乱されたのですが!!!!
「僕たちが見れない部分こそがむしろ魅力的なんだとしたら」に対してはなんとも言い難い。“虚実皮膜”と同じで、見れない部分“こそ“ではなくて見れない部分が“あるからこそ“魅力的なんじゃない?とか思ってしまう。それじゃあ素の部分を見ているプロデューサーや我々はどうなのかって聞かれたら口を噤むのですが。
冬優子の殻を破るってのも気にする人は気にするよなぁ。今回の殻(ふゆ)の内にあるもの(冬優子)が云々って話の締めに、“殻を破る“って言葉を使うのなかなかだと思う。
ここら辺しんど過ぎて呻いてた。「あんたがそう言うならきっと、そう」なんて言うかぁ?って。いや、言ってるけど。
スタンスとして、プロデューサーは指導者じゃなくて、伴走者なんだ。お互いがそれを共通認識として持っておかないとしんどいぞ。
悩んでるんだなぁ。素の自分では愛されないから仮面を被ったってのに、素でも愛してくれる人が周りに増えて、素を滲ませた仕事も評価された。仮面の意義が薄くなって、どうしようかって感じかな。
最後のふゆの演出、僕は好きです。苦しくはあるけど。
酸素も永遠も見つからなくなって。必要とされなくなって暗い海の底に沈むだけなのか。次回へ続く。
って感じの終わりだったから、次のコミュも消化カロリー高そう。楽しみ。
雑記
◯【ザ・冬優子イズム】→【ア・冬優子イズム】の変化について
“the”→”a”と言うと単純に考えると固有のものか、一般的なものかって感じの違いだよね?(英語弱者並感)
「冬優子イズム」が特別でなくなってきたってことかな?それこそ最初に述べたみたいな“誰しも多少は仮面を被るさ”ってところに落ち着いてきた(くる)って言ってるのかも。
◯実際バッドエンドルートなのか
(バッドエンドってなんやねんというのはさておき)私はバッドエンドルートにはいかないと思う。なぜなら、『暗闇の中でも見つけてくれたから』の対になる回がくると信じているから。
安心してください。私はハッピーエンド至上主義ではありません。好きな終わり方は刀語の終わり方なので。
閑話休題。
ふゆが暗闇に沈んでいって次回へ続くなんだからプロデューサーにはどんな暗闇の中であっても見つけてもらわないと困る。
とはいえ結構怪しい綱渡りをしているような感覚ではある。『わたしの名はばか』で作業員を使って示唆されているように、事故が起きそうなスレスレを攻めてる現状、一筋縄ではいかないだろう。
でも、冬優子は逆境に抗っていけるひとだから。どんな失敗があっても相棒と一緒に最良の終わりへ進んでいけると信じている。
【ノンセンス・プロンプ】で、相棒が終わりの時までそばにいると誓ったのだ。これからの未来は明るくはないかもしれないが真っ暗ではないはずだ。
佳き人生を。あなたの、あなたたちのこれからに幸多からんことを。
言い訳とか
改めてもう一度。ぐちゃぐちゃとまとまらない頭で体をなしていない感想を書き連ねた。実家に帰省中で家族が寝静まった後に書いているから眠いのです。誤字脱字は笑ってください。解釈の明らかな間違いとかは教えていただけると泣いて喜びます。よろしくお願いします。
冬優子に心をかき乱される理由の考察は初めにしておいたが、今回感想を記しておこうと思った理由は述べていない。
まず1つ目は他人の感想を読みたいからである。有識者の感想考察を読む前に自分の現在地点を記録しておくことで新たな発見や気づきを分かりやすくしたいのだ。それに、今後これを読んだ誰かが解釈の一つとして私の感想のありなしを判断し、自分だけの意見を作ってくれたら私は嬉しいのです。
もう1つは冬優子とプロデューサーの幸せを願わずにはいられなかったからだ。この前のシャニラジストレイ回(#293)でパラコレ冬優子についての感想を読んでもらえた。「あのコミュは悲しいコミュではない」と直接聞けたのは嬉しい、というか救われた?ような気がした。
改めて当時の感想を読み返しながらお便りを書いたのだが、今も共通していることがあった。これは多分これからも変わらないんだろうけど。
「これまでも、これからも、ifの世界でも。しあわせな人生を送れていることを1ファンとして祈るばかりである。」
それではまたどこかでお会いしたらよろしくお願いいたします。
まきしらりあでした。
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