障害者の生涯(障害児の誕生と親族の思い)
第一章の1
私は昭和四十八年一月六日、福島にある佐藤家の長男坊として産声を上げた。かなりの難産であったらしく二十六時間という時間を経て、私は仮死状態で生まれてきたという。全く血の気のない顔で生まれてきた赤ん坊の私を見て、母方の祖母は「こんなめんこくねぇ(かわいくない)やや(赤ちゃん)は佐藤家、(母親の嫁ぎ先)にはやれねぇ」と嘆いたという。
私が生まれた病院は医療設備が整っていなかった為、生後二日目に別の大きな病院へと移され、その時すでに私の父親だけに医者から私の命はあきらめる様にと伝えられていたらしい。また病院の移動の事は、産後間もない母親にとって精神的な負担が大きいと考慮した父親達は、母親に真実を伝える事が出来ずにいたという。何も知らされていない母親は当然のごとく「子供が見たい、母乳をあげなくては」と、何度も父親達に訴えていたらしい。母親のその言葉に、家族の者は保育器に入っているからなどと言い繕い、辛い毎日を送っていたそうだ。
私は、生後十日間保育器の中で手足すら動かす事もなく微かな呼吸を続けていたという。ミルクも受けつけず吐いてしまうので、医者は私の足首のところを切開し、そこから点滴で栄養を与えていたらしい。そのせいあってか、私はようやく生後十一日目に、手足を少し動かし家族を安堵させたという。家族は医者に私の脳波の検査をして欲しいと要望したが、生後六ヶ月を経過しないと検査は出来ないと断られたそうだ。このような入院生活を経て、私はようやく生後五十三日目で退院した。それからの私の成長は、他の子供と比べ歩き始めるのが遅く、いつまでたってもはいはいしか出来なかったそうだ。家族は心配に思いながらもその心を否定しつつ育児を続けていた。私は二歳近くにして、ようやく立つ事ができ歩き始めたのだが、
第一章の2
歩く格好がおかしいので診察を受けたところ、病名「小児脳性麻痺」障害名「両上下肢機能障害4級」と診断された。私の障害を知らされた時の家族の思いは、落胆というよりもむしろ「なんとしてでも治してやろう・治らないのであれば、少しでも症状を軽くしてやろう」と家族誰もが決意したらしい。それからの我が家の生活は全てが変わったという。つまり、私の為だけに家族が動き始め、どこそこに名医がいると聞けば早速診察を受け、評判の良いマッサージや針灸院を探しては、通い積める日々を送っていた。その頃か「出来るものなら、お前の足と交換してあげたい」と言った母親の言葉が印象深く心に残っている。
私が幼稚園入園後間もなく、父親達はいわき市に良いマッサージの先生がいると聞きつけ、早速いわき市にアパートを借り、私と祖母が住み込みでマッサージを受けていた。その頃の家計は苦しく、私達の家賃や治療費等で余計に苦しい状態にあったという。何も知らない私は、マッサージのおじいさんの家でお風呂に入るのを、楽しみに通っていた事を覚えている。その間、父親達は金曜日の夜会社を終えてから、車で一時間半かけ私達を迎えに来て、月曜日の早朝また送って行くという生活を、交代で約一年間続けた。
以上の話は、思い出話として家族から聞いていたが、私が社会人となり五年が過ぎようとしていた時、仕事が忙しい事もあり、ある日マウスを持つ手に電気が走る様な感覚を覚えた。その時「障害者は何らかのハンディがあるから障害者なんだよ」という事を、世の中に訴えたいと切実に思い始めたのだ。それにはまず、自分の生い立ちから知りたくなり家族に詳しい話を聞いたのだが、何よりも先に、自分がこうして元気で生きていられるのも、絶え間ぬ両親・祖父母・叔母、そして私周りにいる善良なる、たくさんの人達の愛の支援があっての事だと気が付いた。そして私は、家族へ何もしてあげることが出来ない情けなさと、家族みんなへの大きな感謝の気持ちがこみ上げる。そして私は今、福祉の道をあゆみ始めている。