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障がい者の生涯2
けつから一番 1
小学校へ入学する前、両親は両上下肢機能障害4級を持つ私を、普通小学校又は養護学校のどちらに入学させるか悩んだが、周りの子供達と、同じ学校へ通わせたいという思いと、我が子の可能性を信じたいという強い気持ちで、普通小学校の大信村立大屋小学校へ入学させる事を決断したという。
両親にとって私が家から小学校まで、片道3㎞の道のりを、歩いて通えるかという事が最大の心配事だった。母は入学前の一月から、毎週休日になると私を連れ、小学校まで往復出来る様に歩行訓練を始めた。私は最初わずか500m位しか歩けず両親を心配させた。
しかし訓練は続けられ、少しずつ歩く距離を延ばしていった。私は途中足が痛くなる事があり、度々母におんぶして帰る時もあったが、桜の咲く頃には自分の歩行速度でなら、どうにか往復6㎞の道のりを歩き通す事が出来る様になったのだ。
私の訓練を見ていたのだろうか、入学前に隣に住む、五つ年上の兄(あんちゃん)と、二つ年上の兄(あんちゃん)が、「俺たちが、ちょっと早く家を出て、私と一緒に登校してやるよ!」と言ってくれた。
二人は、これまでの通学時間より30分も早く、家を出て私の歩行走度に合せて登校してくれたのだ。夏はともかく、冬はまだ夜も明けきらぬ内に家を出るという事は、彼らも彼らの家族も、大変な事であったであろうと感謝している。
2年後、上の兄ちゃんが卒業し、2番目の兄ちゃんが集団登校の班長になった為、私は他の子供達と一緒の時間に登校をする事となった。
それまでのゆっくり歩く通学とは打って変わり、私は皆と離れない様に、時には小走りしながら、必死でついて行く登校が始まった。
しかし、いつも列の最後尾で見守っていてくれる、兄ちゃんがいたおかげで、私は何の不安も無く登校出来た。その頃、私は寝る時になると、度々膝が痛くなる事があり、そんな夜は、父が暖かい大きな手で、私が寝入るまで膝を揉んでいてくれた事を覚えている。
けつから一番 2
通学の次に両親の心配事は運動会であった。
両親は私に何度も、「いくら遅くてもいいから、最後までやり抜けばいいんだぞ」と、言い聞かせていた。
その言葉のせいか、私はどんなに皆から遅くれても、最後まで競技を続ける事が出来た。トラック競技に至っては、皆がゴールし終わっても、私はまだ残りの半周を走っていたが、両親の言葉を思い出しながら一生懸命走り続けた。
たくさんの友達と、友達の親が「がんばれ」と声をかけながら、一緒に走ってくれた事も、嬉しかった思いでの1コマである。
私は特に、秋に行われる持久走大会が一番の苦手であった。入学当時からの、担任であった佐藤先生は、皆の半分の距離ならどうだろうかと考慮して下さり、特別に私を折り返し地点からスタートさせてくれた。それでも私はいつも最後にゴールをしていた。
二年生の持久走大会の時だった。私は、いつもの様に最後にゴールへたどり着こうとしていた時、上の兄ちゃん達が、誰かが切った半分のゴールテープを張り、「けつから一番」と言って私を待っていてくれた。
私は、1度も切った事の無いゴールテープを、自分も切る事が出来ると、わくわくしながら無我夢中で走った。私は、兄ちゃん達のおかげで、生まれて始めてのゴールテープを切る事が出来た。
私にとって「けつから一番の」ゴールは、一生忘れられない友達皆からの、最高のプレゼントだと思っている。
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