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色々な「論派」

陸羯南くがかつなん『近時政論考』の中でさまざまな「論派」を分類して整理しており、彼はこの著作において政治の体制を時期別に第一期から第四期にまで分けて、そのうち第三期および第四期の論派の種類は以下のようであると主張しています。

 〔第四期〕      〔第三期〕
(一)自由論派 〔旧〕┐
           ├     自由論派
(六)大同論派 〔新〕┘
(二)改進論派 〔旧〕      改進論派
(三)経済論派 〔旧〕      経済論派
(四)法学論派 〔旧〕      法学論派
(五)国民論派 〔新〕      未成
(七)保守論派 〔新〕      未成
(八)自治論派 〔新〕┐
           ├     帝政論派
(九)皇典論派 〔新〕┘
 発生の順序をもってすれば頭上に冠したる番号のごとしといえども、もし前期との関係をもってすれば実に右に掲げたるごとく、おのおのそのよりて起こるところあり。しかしてまったくこの最後の期において新たに発生したるものはただ国民論派〔または国粋論派〕および保守論派の二派に過ぎず。

陸羯南, 『近時政論考』, 青空文庫, 1984

上記のとおり、政治上には様々な論派が存在することがわかります。この記事では「自由論派」と「帝政論派」の二つについて少し着目してみましょう。

以下の引用文は羯南の『近時政論考』の中で自由論派について解説された部分です。

自由論派は猶予なく自由を唱えて政府の干渉を排斥し、猶予なく平等を唱えて衆民の思想を喚起せり。彼その説に以為おもえらく、

 人は本来自由なり、人によりて治めらるるを甘んぜずして自ら治むるを勉むべし、自ら治むるの方法は代議政体にくはなし、人は本来平等なり、貧富智愚によりて権利に差違あるべからず、何人も国の政事には参与するの天権あり、これを実行するは代議政体に如くなし、
と。

陸羯南, 『近時政論考』, 青空文庫, 1984

以上の引用文においては、「人は本来的に自由であり平等である」とする趣旨の論説が述べられています。このことから羯南の言う「自由論派」というものが自由平等を尊重する思想を持った派閥であったことが分かります。こうした理念のあり方は今日の「リベラル派」にも通じるものがあるように思われます。

さて、次は帝政論派に関する引用文です。羯南は帝政論派の様子について次にように述べています。

帝政論派は藩閥内閣を弁護して「政権は口舌をもって争うべからず、実功をもって争うべし、死力を出して幕府をたおしたる者がその功によりて政権を握れり、これを尊敬するは人民の礼徳なり」とまでに立言せり、これ政権を一種の財産のごとく見做したるの説なり。功を賞するに官をもってすることを是認したるなり、帝政論派の欠点実にこれよりはなはだしきものあらず。

陸羯南, 『近時政論考』, 青空文庫, 1984

以上の引用文においては「政権を口先の言葉で争うべきではなく、実功によって争うべきである」とする趣旨の帝政論派による主張の存在が示されています。また、羯南は帝政論派のこうした主張に対して否定的な立場を取っており、「人の功績を称えるために官位を用いることを是認することは帝政論派の最大の欠点である」とする趣旨の強い批判を行っています。このことから羯南が功績への褒賞として「官」のような国の政務を執行する機関における地位を与えることに否定的であったことがわかります。

さて、自由論派と帝政論派の二つの論派を陸羯南の分類にしたがって軽く紹介しました。みなさんは「自由論派」でしょうか? それとも「帝政論派」でしょうか? 色々なご意見を伺ってみたい点だなとしみじみ思います。

私の個人的な意見としては自由論派的なところもありますし、帝政論派的なところもあります。それについても軽く述べてみたいと思います。

まずすべての人に対して生まれながらの「自由」と「平等」が保障されるべきであると考える点では私は自由論派的であると言えると思います。

次に「実功」を正しく評価してそれが大きいものに対しては官位をも含めた相応の褒賞を与えるべきだと考える点では帝政論派的だと思います。

つまり自由論派的なものも帝政論派的なものもどちらもがそれぞれの有効性を持っている……というふうに考えています。

例えば端に自由なばかりでは平等が達成できる保証がありませんし、平等なばかりでは自由が抑圧されてしまうこともありえてしまいます。さらにそもそも公益に適った実功を誰かが創出してくれなければ、人類全体の所有する「資源」の総量が増加しませんのでその分みんなが貧しくなり、自由も平等も貧弱なものになってしまいます。

だから自由と平等が大切であるように、それらを根源的に成立させるための現実的な機関としての実功の尊重もまたとても大切だろう……そのように考えます。大きな功績に対して褒賞ではなく搾取で応じるなら、その分だけ有能な人々を敵に回すことにもなりえますし、そもそも多くの人々は功績を創出しようとしなくなるでしょう。どんなにがんばって成果を出してもまったく無益なのなら、そもそも努力さえしたくなくなってしまうのが自然ではないでしょうか。その点は現実的によく注意しておくべきでしょう。

つまり私の意見の一応の結論としては、理想としては完全な自由と平等を目指すべきである一方で、現実との折り合いをつけるために実功のある者にそれ相応の褒賞を与えた方がいいというのも一つの事実ではあるだろう……というような感じになります。

ただ、実際には世の中には多くの「嘘」や「誤魔化し」がありますし、その中には自分に特別に大きな実功がないにもかかわらずそれがあるかのように偽るものまであります。人の成果を盗んで自分のものであるかのようにふるまう詐欺もありますし、善良な天才が並外れた功績をあげても周囲の嫉妬に押しつぶされてしまうような場合さえありえます。このように世の中というのは複雑でなかなか理想通りにはいかないのもまた事実です。だからこそ理想を最大限に尊重しつつも、現実的な様々な対策を練っていくことがとても大切なのだろうと思います。

今回の記事で引用させていただいた陸羯南の『近時政論考』は政治における色々な「論派」が持つそれぞれの特徴をコンパクトに解説した文章として非常に優れていると思いますので、こうした問題に興味がある方はぜひ一読してみてください。この著作はインターネットの電子図書館である青空文庫で無料で読めます。


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