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「王道」って何?

「王道」というのはめちゃくちゃ簡単に言うと「愛」の道のことをそう呼びます(正確には愛と言うよりも「仁」と言います)。

また、今の社会は資本主義社会と言って「お金」を中心とする道なので、社会の多数派の道はいわゆる王道ではありません。むしろ聖書などの教説によれば、そうした「利を貪る者の道」は滅びの道であるとされてもいます(これを「外道」、「邪道」などとも言います)。

ちなみに王道に似た言葉に「覇道」というのもあります。これは王道ほどの深い思い遣りはないが、それでもいくばくかの仁の徳を備えている人の道であり、そうした道を歩んでいる人のことは「覇者」と言います(王道を行く人のことを「王者」とも言います)。また、王者が敵をも愛しては共存共栄するのに対し、覇者の道筋には強力な「武」の道も関係しています。

つまり、世間一般、いわゆるお金中心主義の「世俗」の生き方が「外道」です。そして、多くの人々に対して積極的に献身し、誰も嫌うことなく、憎むこともなく、排除することもなく、万物を優しく広く深く愛し、大切に慈しむ……という生き方が「王道」です。

また、本来の愛の道である王道を無闇に排斥し、例えば「世俗の道、金こそがすべてだ!」というふうに価値の転倒を不正に行う人々の心の有り様をニーチェ流の定式で「ルサンチマン」と呼びます。これは王者のような本来的な意味での強者を弱者であると認識する錯誤で、魯迅などの定式によれば「精神勝利法」などとも言います。精神勝利法とは「実際には完膚なきまでに負けているのに、自分の精神の中で相手にマウンティングすることで自分の勝利を精神的に捏造し、自分を慰める」という方法であり、広義には偽証の罪にも当たります。ルサンチマンや精神勝利法はどちらもそれ自体「外道」ではあるのですが、共に「我こそは王道である!」と錯覚的に思い込んで偽証するという特徴もあります。むしろ、真の王者は偽証罪のような罪を犯すものではないものと考えられてもいます(例えば聖書によれば「愛」は偽ることがないとされますね)。

誰もが知る世俗の喜びと聖者たちの道とはしばしば異なっています。また、世俗が聖者を支配するのではなく、聖者が世俗を教化しています。この点も正しく注意しておくといいかもしれません。ルサンチマンや精神勝利法はこうした価値観を不正に転倒させ、真逆の邪説を社会に流してしまいます。邪説は基本的には公益に反しますので、ある程度は抑制されるべき場合もあるでしょう。

多くのルサンチマンなどの不正が世の中にはありますが、そうした世俗的な穢れの中でも、聖者たちの行進が途切れることのないように。そのことで、すべての人たちがそれぞれに適正な守護を得られるように。祈ります。



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